散々泣いて、ミロカロスに慰めてもらい、漸く涙が止まった後。はミロカロスをボールに戻すことをせず、一緒になって布団に潜り込んだ。とは言ってもミロカロスの体は長すぎて全部は布団に入りきらない。
ミロカロスがいくら「ミロカロス」という個体の中で体が小さい方だとしても、やはり人間と比べると大きいのだ。
それでも布団の中に体の三分の一程を潜り込ませたミロカロスの体にぴったりと寄り添うと、昂ぶっていた心も荒れていた海が凪ぐように自然と落ち着いてゆく。布団の中でがミロカロスの首に頬を擦り寄せると、ミロカロスはに応えるようにの頭を鰭でそっと撫ぜた。
ミロカロスが優しく頭を撫でてくれる度、の瞼は少しずつ重みを増す。そうして暫く立つと、は泣き疲れたこともあってか、静かに眠りに就いたのだった。
その次の日、決して習い事をこなすような気分でも無かったが、しっかりと午前中の習い事を終えたはミロカロスといつものように公園へとやって来ていた。今日は珍しく塾が休みだったので、午後はゆっくり出来るのだ。公園に着き、とミロカロスは早速対戦相手を求めるトレーナーとバトルを開始する。憂鬱な気分も、頭の中をぐるぐると回る両親からの嫌な言葉も、一戦、二戦とバトルを重ねるうちに、バトルの緊張感や勝利の喜びが吹き飛ばしてくれるようだった。
そうして公園でバトルを行い、近くのポケモンセンターで体力を回復してもらい、また公園に向かい、ということを繰り返していると、辺りはあっという間に薄暗くなってしまった。
「やったね!ミロカロス!」
ミロカロスの巻き起こしたたつまきによって相手のタツベイが気絶したのを確認すると、はミロカロスに駆け寄った。それから戦ってくれたミロカロスのことを労うように、優しく頭を撫でる。ミロカロスも嬉しそうにの手のひらに額を押し付けた。
そしてバトルをしてくれた相手のトレーナーに礼を言うと、はすっかり暮れてしまった空を見上げた。
「結構暗くなってきたね。そろそろ帰ろうか」
両親ももう暫くすれば帰ってくる時間になるだろう、そう思ったはミロカロスに目を向ける。すると、ミロカロスは二つある内の、の後ろの方にある公園の入り口を見つめていた。
「どうしたの?」
が不思議そうに尋ね、それから振り返ろうとすると、ミロカロスは何でもないのだと首を振る。それからの手を鰭で引くと、早く帰ろうと促すように手を引いた。
「なあに?変なの」
ミロカロスに手を引かれて歩き出してすぐにちらりとは振り返ったが、振り返った先には数羽の野生のヤミカラス達が地面を啄ばんでいるだけだった。
達が帰宅してから随分と経った頃、両親が帰宅したらしく、玄関の扉が開く音がした。いつもに比べて随分と遅い帰宅だ。自室にいてその音を聞いたは、思わず顔を顰める。
「……また何か言われたりしそう」
ベッドの上で小さく輪を描くように丸くなっていたミロカロスは、困ったように笑った。それを見たは、ミロカロスの首を撫でる。
「でも、何を言われても私はあなたを逃がしたりなんてしないよ」
ミロカロスがの頬に擦り寄る。それに擽ったそうには小さく声を上げた。それからすぐに、その顔は何かを考えているような顔に変わる。
それから暫くの間は何も喋らず、ミロカロスはそんなの様子を不思議そうに眺めていた。
軈ては落ち着いたように息を吐くと、ベッドから立ち上がった。じっと様子を伺っているミロカロスに笑って見せると、机の一番下の引き出しを開ける。そこには参考書が何冊も重ねてしまっているが、その奥の僅かな隙間に手を差し入れると、少し小さな箱を取り出した。ミロカロスが、の取り出した箱を見つめる。それは、貯金箱だった。
この貯金箱には、がミロカロスと一緒にトレーナーとバトルをするようになってから、今まで手に入れた賞金が全て入っていた。とは言っても二人がトレーナーとバトルをするようになったのはここ最近のことなので、そこまでたくさん入っている訳では無い。はその貯金箱を机の上に置くと、ミロカロスと向き合うように、相変わらずベッドの上でぐるりととぐろを巻いたミロカロスの前に立った。
「……ミロカロス、聞いて」
ミロカロスの、赤い瞳が真っ直ぐにを捕らえる。それから言葉の続きを促すように、くう、と小さな声で鳴くと首を傾げた。その声に後押しされるように、は一度深く息を吐くと、意を決したように口を開く。
「私と一緒に、旅に出よう」
ミロカロスがまだヒンバスだった頃、ヒンバスを連れて、いつかどこかへ旅に出ることが出来たら、それはどんなに素敵なことだろう。知らない町に行って知らないものを見て、知らない音を聞いて。そして二人でその感動を分かち合えたらいいのに。そんなことをは何度も考えていた。それはヒンバスがミロカロスへと進化を遂げた今も変わらない。
けれどきっと、この家にいる限り、その夢は叶わないだろう。だから。
「明日、二人が仕事に行った後、この家を出よう。旅の資金も多少はあるし、ポケモンセンターなら無料で泊まれるし、きっと、大丈夫だよ」
はそう告げると、ミロカロスの返事を待った。
ミロカロスが返事をするまでの間、はきっと、ミロカロスは頷いてくれるとそう思っていた。だが、ミロカロスは悲しそうな表情を浮かべると、そっと眼を伏せ、それからゆっくりと首を左右に振る。それを見たが、まるで絶望したような顔で唇を噛んだ。
「どうして……」
震える声でが尋ねると、ミロカロスはもう一度、はっきりと首を横に振った。
「ミロカロスは、私と……」
旅に出たくないの?そうが言葉を続けようとしたのと同時に、の部屋の扉が控え目にノックされた。
「。ちょっと、いいか」
の部屋の扉をノックしたのは、父親だった。落ち着いた父親の声に、はドアの方へと振り返る。なんて返事をしたものか、扉を開けるべきか。そう迷っていると、驚いたことにベッドからするりと下りたミロカロスが、部屋の扉を器用に開けてしまった。
すると扉の向こうから顔を覗かせた父親が、まさかミロカロスが扉を開けたとは思わなかったのだろう。うおっ、と小さく驚いた声を上げると、部屋の中に入れるようにと、さっと扉から離れたミロカロスに「開けてくれて、ありがとう」と礼を言った。それからの部屋に静かに入ると、ベッドの前に立っているに目を向ける。
「……お父さん、何の用」
が顔を顰めると、父親はの机の椅子を引き、そこに腰を下ろした。
「君が、が捕まえたというポケモンだな」
ベッドの前に立ったままのと、椅子に座った父親の間にいたミロカロスは、父親の声にこくりと頷いた。父親はそれを見るとミロカロスに手を伸ばす。ミロカロスは大人しく、父親の手のひらを額で受け止めた。の父親の節くれだった無骨な手が、ミロカロスの額を何度も行ったりきたりする。
その様子を、はぼうっと眺めていた。父親は一体何を話しに来たのだろう。そう思いながら、父親の言葉を待った。
「随分と、かしこいミロカロスだ」
その言葉にミロカロスが少し得意気な様子を見せると、父親は小さく笑った。それから父親はミロカロスの額を撫でるのを止めると、不意に椅子から立ち上がる。
「。母さんが、リビングで待っている。話があるそうだ」
「……また、ミロカロスを逃がせって言うの?それだったら、私は行きたくない」
そうが言うと、父親は困ったような顔をした。
「お前の大切な友達と、お前についての話だ。……先に下に行っているよ」
そう父親は告げると、の部屋を出て行った。ぱたんと扉が閉まる音の後に、階段を下りる足跡が聞こえる。
が部屋を出ることを躊躇っていると、ミロカロスがその背中を鼻先で押した。驚いたが振り返ると、ミロカロスは大丈夫だと言うように眼を細めて笑う。
「分かった。……行くよ」
ミロカロスをボールに戻すと、はそのボールを手に両親が待つリビングへと向かった。
階段を下りてリビングに向かうと、テーブルの椅子には両親が既に座っていた。そしてに視線を向けると、母親が座るように促す。は大人しくそれに従い、母親の正面の椅子に座った。
「話って、何?」
がぴりぴりとした口調で切り出すと、母親はの手元に目を向けた。の手のひらに守られるように、そこにあるモンスターボール。母親はモンスターボールをまじまじと見つめると、静かに口を開いた。
「そのポケモンを、ボールから出してくれる?」
「……どうして?」
「あなたと、あなたのポケモンに関わる話をするのだから、ボールの中からでは無くて、直接聞いてもらいたいの」
それを聞いたは、納得したように頷くと自分の隣に向けてボールの開閉スイッチを押した。この緊張感の漂う空間に不釣合いな、ぽん、という軽い音が響く。それと同時に、赤い光に包まれてミロカロスが姿を現した。ずしん、と床が振動する。
思えばミロカロスに進化を遂げてからリビングでミロカロスをボールから出したのは初めてのことだ。ミロカロスは縮こまりながら、リビングをきょろきょろと見回した。その体は淡い光を放っている。
「……このポケモンが、あなたの大切な友達なのね」
「うん」
自身は少しきつい口調で言ったつもりが、不思議と落ち着いたような声色だった。母親はミロカロスを眺めると、ゆっくりとへと視線を戻す。
「あなたはこのポケモンと、どうしたいの?」
昨日とは違い、穏やかな声だ。がちらりとミロカロスを見遣ると、ミロカロスは小さく頷く。頑張れ、そう励ましてくれているようだった。
「……私は、ミロカロスと旅に出たい。十歳になった時、周りのみんなが自分のポケモンを捕まえて旅に出ることが羨ましくて仕方なかった。私も自分のポケモンが欲しいって、ポケモントレーナーになりたいって、思った。でも、お母さんやお父さんには勉強が疎かになるから駄目だって言われて、諦めたの」
「……それで?」
「でも、偶然この子と出逢って、この子が私と一緒にいてくれるって伝えてくれた時、やっぱり私はポケモントレーナーになりたいって思った。私はミロカロスと旅に出て、自分達の知らない世界を見て、聞いて、触れて、知りたい」
が真っ直ぐに両親のことを見つめて告げると、両親は顔を見合わせた。それから母親は小さく溜息を吐く。そして何かを言おうとして、すぐに止めてしまった。
そのまま、ただ静かに時間が過ぎていく。そして、十分程が過ぎた時だ。
「……あなたは大切な一人娘だから、絶対に後悔するような人生を歩んで欲しくないと思っていた」
不意に口を開いた母親の視線が、の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「私はね、と同じように遊ぶ暇も無いくらい勉強して、勉強して、そのお陰で難しい仕事にも就けて、仕事でも成功して、こうして家庭を持つこともできて。後悔をしたことなんて無かった。だから、きっともそうすれば後悔のない、幸せな人生を送ることができるのだと思っていた」
「……うん」
「……でもそれじゃあ、きっとは後悔のない、幸せな人生を送ることが出来ないのね」
母親のように何度も成功を重ねてゆく人生も、幸せであるのだろう。だがその幸せが、にとっても幸せであるかと言うと、そうではないのだ。
が小さく頷くと、母親が目を伏せて笑う。僅かにその目元が光った。
「あなたが、その子と旅に出て、決して後悔をしないと約束できるなら……そうするといいわ」
父親も静かに頷いた。母親の言葉と、父親がそれに頷いたこと。その両方に、が思わず目を見開く。まさか、両親が旅に出ていいと言うとは思わなかったのだ。
「私はミロカロスと旅に出て、旅に出なければ良かったなんて絶対に後悔しない。でも、どうして急に旅に出ていいなんて……」
思わず思ったことをが尋ねると、両親は揃って小さく笑った。
「今日、たまたま二人の仕事が終わる時間が同じくらいだったのか、帰り道でばったり会ったんだ」
父親がそう言うと、母親が頷いて言葉を続ける。
「……それでね、何となく公園に寄ったのよ。そうしたら、あなたとその子が、トレーナーのタツベイとバトルをしているのを見かけたの」
それを聞いて、は驚いた。まさか、今日のバトルを両親が見ていたとは思わなかったのだ。
そこで、はあることを思い出す。ミロカロスが二つある内の、自分の後ろにある方の公園の入り口を見つめていたことだ。もしかしてあの時、ミロカロスは自分達のことをたまたま見ていた両親に気が付いたのでは無いだろうか?
ちらりとがミロカロスを見遣ると、ミロカロスは相変わらず淡い光を放ったまま、優しい眼でを真っ直ぐに見つめている。
「……見ていたの?」
「見たのは、もうバトルの終わりの方だったけれど、相手のポケモンが倒れて勝敗が決まった途端に、あなたが心から嬉しそうに笑うのを見たの。それで、の笑顔を見たのはいつ振りだろうと思って……」
「……うん」
「二人で思い返したけれど、思い出せなかったんだ」
父親が自嘲気味に笑った。子供が最後に笑ったのがいつかも思い出せないなんて、と。母親が目元を拭う。
「思えば昔からには私達の顔色を伺わせてしまって、気が付けば幸せそうに笑うことなんて無かった。幸せな人生を歩んで欲しいと本当に願うのなら、このままでは駄目だと思ったの」
「今日、珍しく帰りが遅かったのは……」
「二人で、について話していたんだ」
すまなかった。ごめんなさい。揃って両親がに向かって謝罪すると、長い沈黙の後にの目から涙が溢れ出した。瞬きをする度に、涙の粒がはらはらと落ちる。
はもうずっと、それこそ昔の、自分のポケモントレーナーになりたいという夢が消えてしまったあの日から、両親には自分の気持ちが、言葉が届くことはないのだと思っていた。だが、今、この瞬間。の言葉と気持ちが確かに両親に届いたのだ。
そのことに気付くと同時に、はミロカロスへとぎこちなく目を向ける。
「……ミロカロス。私と一緒に、旅に出よう」
の言葉を聞いたミロカロスは、美しく微笑んだ。それはが今まで見た中で、一番美しい笑顔だった。そして迷いの無い様子で、首を縦に振る。それからとの距離を静かに縮めると、の頬に自分の頬を寄せた。くうくうと、いつものあの甘える声が、の耳に福音のように響く。
どうしてミロカロスが先程は首を縦に振らなかったのか。それは両親と和解をさせてくれるためだったのだとは悟った。もしあの時、あのままミロカロスと家を出ていたら。自分はきっといつまでも両親と和解をすることが出来ずにいただろう。それどころか、両親のことを憎んでさえいたかもしれない。
それをミロカロスはそうならないようにと引き止めて、繋ぎとめてくれたのだ。
「ありがとう……」
の言葉に、ミロカロスはよく見せる、あの得意気な表情で笑う。それはやはり、美しいものだった。