初めてのトレーナー戦で負けて以来、とミロカロスの二人は野生のポケモンとだけではなく、トレーナーともバトルをするようになっていた。
トレーナーの育てたポケモンとのバトルの方がより多くのことを学べると思ったこともあるが、何より初めてのトレーナー戦で負けてしまったことが悔しかったのだ。
「ミロカロス!みずのはどう!」
ミロカロスの生み出した水の塊が、波紋のように広がって相手のグラエナの体を弾き飛ばす。その衝撃によって混乱してしまったグラエナは、訳も分からずに自分に傷を負わせると、眼を回して倒れてしまった。それを見たグラエナのトレーナーである青年は、がくりと肩を落とすとグラエナをボールに戻す。
「混乱しなかったらなあ……。やられたよ」
「ふふ。運が良かったみたい」
が戦闘を終えたミロカロスに近寄り、首を撫でながら笑う。すると青年はとミロカロスの元にやって来て、ミロカロスをじっと見つめながら口を開いた。
「それにしても、きみのミロカロス、よく育っているよな。随分懐いているし。……もしかして、どこかのジムのバッジを持ってたりするのかい?」
「いいえ、持っていないですよ。ジムに挑んだこともないし……」
が少し残念そうに言うと、青年は驚いた顔をした。
「えっ、君とミロカロスなら、ジムバッジの一つや二つくらいゲット出来そうなのに」
「そ、そうでしょうか」
とミロカロスが顔を見合わせると、青年は力強く頷く。それからポケモンセンターに行くからと告げると、近くのポケモンセンターがある方へと走っていってしまった。二人揃ってそれを見送ると、そろそろ家に帰ろうか、と手を繋いで歩き出す。
「最近、勝てることが多くなってきたよね」
街灯で照らされる夜道を並んで歩きながらがミロカロスに話し掛けると、ミロカロスは嬉しそうに頷いた。初めてのトレーナー戦で負けてしまってから積極的に他のトレーナーとも戦うようになって、勿論負けてしまうこともあったが、それでも最近は勝つことの方が多くなってきたのだ。
ふふんと得意げに笑ったミロカロスは、一度立ち止まると、同じように足を止めたの体に擦り寄る。甘えるミロカロスの体を撫でながら、は先程の青年の言葉を思い出していた。
"君とミロカロスなら、ジムバッジの一つや二つくらいゲット出来そうなのに"
自分とミロカロスは、初めて野生のポッポとバトルをしたあの日に比べたら、ずっと強くなったと思う。けれど、それは一体どれ程の強さなのだろうか。ジムへ行けばジムリーダーがいて、自分達の実力がどれ程のものなのかということを知ることも出来るだろう。そこまで考えると、は溜息を吐いた。
ミロカロスと旅に出たい。その為には両親を説得しなければならないだろう。けれど、自分が「旅に出たい」と告げた所で、両親が納得して送り出してくれるとは到底思えないのだ。の溜息を耳にしたミロカロスが、少し心配そうな瞳でを見つめる。
「ううん、考え事。大丈夫だよ」
そう曖昧に笑うと、はミロカロスの鰭を手に取って再び歩き出す。ふとミロカロスが見上げた夜空に浮かぶ月は細く、今にも夜の闇に溶けてしまいそうだった。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
ミロカロスを家に着く少し前にボールに戻し、玄関の扉を開けると母親がリビングから玄関へとすぐにやって来る。母親に背を向けて靴を脱いでいると、母親の視線をひしひしと背中で感じ、何だか言いようのない居心地の悪さをは感じずにはいられなかった。
「。こっちに来なさい」
靴を脱ぎ終えたが何かを言う前に、母親はそう言うとさっさとリビングへと向かってしまった。はその後に、無言で続く。ボールを揺らした訳でも無いのに、肩にかけた鞄の中から、ミロカロスが心配そうに様子を伺っているのが分かった。
「座りなさい」
「な、何……?」
リビングのテーブルの上には、今日は珍しく母親の持ち帰った仕事の書類が散らかったりはしていなかった。先に椅子に座って新聞を読んでいた父親の隣に母親が座り、母親の前の席にが恐る恐る座る。が椅子に座ったのを確認すると、母親がふう、と疲れたような顔で溜息を吐いた。それから父親が新聞を読むのを止めて、折り畳むとテーブルの端に置く。
「何か、言うことがあるんじゃないの」
母親は射抜くような視線での顔を見つめた。その言葉で漸くは鞄の中に手を伸ばし、今日出た塾の全国模試の結果をテーブルの上に置く。
「二位ねえ……。前回よりも一つ順位は上がっているけれど。どうせやるなら、一位を取らないとって言ったわよね」
「……はい」
「ちゃんと勉強はしているし、大丈夫だよって言ったのはあなたよね」
「……はい」
「本当に、ちゃんと勉強をしていたの?」
「していたよ……」
鞄の中で、と母親のやり取りを聞いていたミロカロスは、べえ、と舌を出した。がちゃんと勉強をしていたことを、いつも一緒にいるミロカロスは知っているのだ。塾でも真面目に勉強をしていたし、家でも自分と遊ぶ以外は勉強をしていた。確かにこの前はぼうっとしていて塾の講師に心配をされていたが、それもあの一度だけだ。
もう、のことをちゃんと見もしないで!そうミロカロスが心の中で文句を言うと、母親がふう、ともう一度溜息を吐いた。
「。ポケモンと遊んでなんかいるから、いつまで経っても一位になれないのよ」
母親の言葉に、は頭の中が真っ白になった。口の中はからからに渇いてしまい、何か言葉を返そうとしても、何も出てこない。ただ、情けなく酸素を求める魚のようにぱくぱくと口が動いただけだった。それを見た母親は、父親と顔を見合わせると首を振った。
「やっぱりね。おかしいと思ったのよ。あなたの部屋の換気をしようと思って部屋に入ったら、こんなものが落ちているんだもの」
そう言って母親がテーブルの上に置いたのは、リビングの照明に照らされて美しく輝く、一枚の鱗だった。
「、もう一度尋ねるわ。何か、言うことがあるんじゃないの?」
「あ……」
膝の上に置いた手が小さく震える。それでも何とか力を振り絞って手を持ち上げると、は鞄の奥底からミロカロスの入ったボールを取り出した。所々傷のある、モンスターボール。ことりと音を立ててテーブルに置かれたそれを見た両親は、あからさまに顔を顰めた。
「そのボールは、どうしたの」
「塾の帰りに、たまたま拾って……」
「それで、ポケモンを捕まえたのか」
「……はい。でも、捕まえようと思って、捕まえた訳じゃ、なくて……偶然……」
両親の質問に、が何とか返答をすると、両親はの顔をじっと見つめた。それから、母親がミロカロスの入ったボールに手を伸ばす。
「ポケモンを捕まえて、ポケモンと遊んでばっかりいるから一位にもなれないのよ。一体何を捕まえたのか知らないけれど、そんなやるべきこともちゃんと出来ないのなら、逃がしなさい」
その母親の言葉に、は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。逃がしなさいって、一体、誰のことを?ミロカロスのことを?冗談じゃない。そう思うと同時に椅子から勢いよく立ち上がると、は母親が手にしていたボールを引っ手繰った。
「きゃっ、何をするの、!」
「何てことを言うの……!私の友達に向かって、逃がしなさいだなんて言わないでよっ!」
今まで一度も反抗をしたことの無かったが大声を上げたからか、両親は揃って驚いた表情を浮かべた。それから信じられない、という様子で肩で息をするを見つめる。
ヒンバスを捕まえたばかりの頃だったら、恐らくは母親の言う通り逃がしただろう。それは、偶然捕まえたヒンバスをどうしていいのか分からなかったからだ。
だが今は共に過ごすようになって、ミロカロスはの友達となった。どうしていいのか分からないポケモンでは無くて、傍にいたい、一緒に過ごしたいポケモンになったのだ。
「勉強だって、習い事だって、今までずっと言われた通りにやって来たじゃない!習い事の発表会でも入賞したし、先生にだって褒められもした!嫌だって言わずに、ずっと望まれるままに努力した!それなのに、全国模試で一位になれなかっただけで、私は私の友達を捨てなきゃいけないの!?」
両親はの言葉に唖然としているだけだ。少し呼吸を落ち着かせ、目に涙を浮かべたままは口を開く。
「私のため、私の将来のためって言うくせに、お母さんやお父さんは私の話や私の気持ちをちゃんと聞いてくれたことなんて無かった。……私と向き合って、私の目を見てちゃんと話を聞いてくれたのは、他でもない、このボールの中にいるこの子だけだよ」
最後にそう言うと、は涙を拭って慌しく階段を上がり、自分の部屋に駆け込んだ。それからベッドに倒れこむと、わんわんと声を上げて泣き出す。ベッドに倒れこんだ拍子に布団の上で転がったボールがかたかたと揺れたかと思うと、ミロカロスが姿を現した。どすん、と僅かに床が振動する。
ミロカロスはベッドに突っ伏して泣くの腕と頬の間に自分の鼻先を突っ込むと、心配するかのように喉を鳴らした。それを聞いたは、ぐすぐすと鼻を鳴らしながらミロカロスの首を抱きしめる。それに応えるようにミロカロスがの頬に自分の頬を寄せると、の泣き声はまた大きさを増した。
の姿を暫くの間見つめていたミロカロスは、ふっと穏やかに笑うと眼を閉じた。途端にミロカロスの体が鮮やかな桃色の光に包まれて、その光はを優しく包み込む。そしてその光に気がつくと、の涙が自然と止まった。
「……ありがとう。あなたは、やっぱり、優しいね」
寄り添ってくれる体温は、まるでの心の棘と一つ一つ溶かしていくようで、その体が発する美しい光は、荒んだ心を癒してくれるようだった。がミロカロスの体に擦り寄ると、ミロカロスは鰭で器用にの目元に残る涙を拭う。それから漸くが笑ったのを見て、ミロカロスは安心したように鳴いた。