の気持ちが両親に届いた日から、二週間が過ぎた朝のことだった。前日まで降っていた雨はすっかり上がり、木々の葉は艶やかに濡れている。

「……それじゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけるんだぞ」
「はい」
「何かあったら、連絡はしなさいね」
「はい」

心配そうに見つめる両親の間を通り、旅に必要な荷物を詰めた鞄とミロカロスの入ったボールを手には玄関へと向かう。今日は、の旅立ちの日だった。

習い事も全て辞め、塾も辞めた。
は習い事や塾での成績が優秀だったこともあって、辞めることを告げた時は講師に酷く残念がられたが、「ずっと夢だった、ポケモントレーナーになって旅に出るんです」と告げれば、みんな驚いた顔をした後に、笑顔で頑張って、と励ましてくれた。



が鞄とボールを置き、履き慣れたスニーカーに足を入れて靴紐を結ぼうとしていると、父親が静止の声を掛けた。

、ちょっと待ちなさい」
「……な、何?」

もしかして、やっぱり旅に出るのは駄目だなんて言われたりして。そんなことを一瞬は考えた。だがそんな心配を他所に父親は穏やかな表情で、「母さん」と何かを促すように母親に声を掛ける。

「わ、分かってるわよ……」

父親に声を掛けられた母親が少し焦ったような口調で、目を逸らしながら頷く。一体どうしたのだろうかと、が靴紐を結ぼうとした体勢のまま両親のことを見上げていると、母親はぱたぱたとリビングへと行ってしまった。それから少し大きな箱を手に、すぐ様戻ってくる。

「使いなさい」

ぶっきらぼうな態度で、母親がに箱を差し出す。それを訝しげに見つめながら受け取ると、はそっと箱を開けた。

「これ……」

母親から渡された箱の中には、真新しいランニングシューズが入っていた。真っ白い生地に、桃色のラインが入っている。

「……旅に出るのだから、履きなれた靴の方がいいかなって私は思ったのよ」
「"折角だから、新しい靴で旅に出た方がいいかしら。それにこの桃色のライン、よく見たらのポケモンの鰭と同じ色だわ"って言って、母さんが選んだんだよ」
「ちょっと!」

母親が慌てて父親のことを小突くと、それを見ては笑ってしまった。それから真新しいランニングシューズをそっと履くと、桃色のラインをまじまじと見つめて微笑む。

「うん。サイズもぴったりだし、確かに、ミロカロスの鰭と同じ色だ。ありがとう。すっごく、嬉しい」

が笑ったのを見ると、両親はきょとんとした顔でを見た後に、柔らかく笑った。

「本当に、今日、これから旅立つのよね」
「うん」
「……。どうせやるなら、一位を取らないと」

ふっ、と、母親が冗談めかした様子で言うと、は笑顔で頷いた。

「分かってる。どうせやるなら、一番強くなって帰ってくるくらいの気持ちで行くよ!」

の言葉を聞いていたのか、鞄の隣に置かれていたモンスターボールが元気よくがたがたと揺れる。そして軽い音を立てると、モンスターボールが勝手に開いてミロカロスが姿を現した。両親が慌てて後退りをし、ミロカロスの体を避けたがミロカロスのボールを拾い上げ、急いで玄関の扉を開ける。

「ちょっと!さすがに玄関は狭いって……」

の言葉に、自分にとって玄関が思ったよりも狭かったことに驚いた様子のミロカロスがけらけらと笑う。そんなミロカロスのことを母親はじっと見つめていたが、不意にミロカロスへと近付いた。どうしたのかとと父親の視線が、母親に集まる。

ミロカロスもへと向けていた顔を、の母親へと向けた。

「……あの時、あなたのことを逃がしなさい、だなんて言ってしまって、ごめんなさい。ミロカロス。のことを、どうか、よろしくね」

の母親が、ミロカロスのことを「ミロカロス」と呼んだのはそれが初めてだった。両親にミロカロスのことが知れてから、今日に至るまで何度か母親がミロカロスのことを口にすることはあったが、その時は決まって「このポケモン」だとか、「あなたの友達」としか言わなかったのだ。

ミロカロスは驚いた顔での母親のことをじっと見つめ、それから眼を細めて力強く鳴いた。

「ありがとう」

母親が穏やかな表情で微笑む。父親も、よろしく頼んだよ、と頷いた。ミロカロスはもう一度頷くと、の鞄を口に咥えてくるりと器用に両親に背を向ける。それを確認したは、両親に向かって手を振った。

「それじゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
「ああ、いってらっしゃい」

旅立つとミロカロスを歓迎するかのように、雨上がりの土の匂いを乗せた風が二人の肌を撫でる。玄関の扉がしまっても、歩き出しても、家が見えなくなるまでは手を振った。





前日まで降り続いていた雨のせいで、地面には泥濘ができていた。はできるだけ泥濘を避けて歩き、ミロカロスは泥濘なんてお構いなしにの隣でするすると地面を歩く。

「ねえ、ミロカロス。聞いて」

不意にが声を掛けると、ミロカロスがに眼を向ける。

「私ね、今、私が私じゃないみたいな気分なの」

しっかりと前を向いてそう言うの顔は明るい。今の空と同じような、晴れ晴れとした表情だ。ミロカロスはふふ、と笑った。

「そうだなあ。生まれ変わったような、そんな気持ち。今までの私は、お父さんやお母さんの顔色を気にしてばかりで、言われたことを言われた通りにこなすだけで、自分の気持ちや言葉を伝えることを諦めてた。自分のやりたいことだって、出来やしないって思ってた」

ミロカロスがくう、と相槌を打つように鳴いた。

「でもね、あなたと出逢って、それが全部変わったの。私だけじゃない。お父さんやお母さんも、変わった。あなたが、いつも助けてくれて、変えてくれた」

がミロカロスに目を向けると、ミロカロスは少しだけ照れた様子で鼻を鳴らす。

「リビングで私とあなたのこれからについてお父さん達と話した時も、あなたが助けてくれたよね」



リビングでミロカロスと並んで、両親と向かい合って話したあの日。

ミロカロスをボールから出す前は、思わずぴりぴりとした口調で母親の問いに答えたが、ミロカロスがボールから出てからは、自分自身は少しきつい口調で言ったつもりでも、不思議と落ち着いたような声色で話す事ができた。
母親のへと問い掛ける声も、前日の厳しい声が嘘のように穏やかなものだった。

ミロカロスの放つ光は、怒りや憎しみ、荒んだ心を癒し、争いの気持ちを忘れさせてくれると言う。思い返してみれば、ボールから出たミロカロスの体は淡い光を放っていた。ミロカロスの放つあの光が、あの空気を、あの場にいた全員の心を、和らげてくれていたのだ。


「あなたが助けてくれていなかったら、私は落ち着いて自分の気持ちを伝えることは出来なかっただろうし、お父さんやお母さんは話を聞いてくれていなかったかもしれない。聞いてくれていたとしても、笑顔で旅に出ていいなんて言わなかったかもしれない」

それ以外にも、自室で旅に出ようと告げた時、ミロカロスが首を横に振ったから。父親が部屋の扉をノックした時、ミロカロスが扉を開けてくれたから。そのお陰では両親と和解をすることも出来たのだ。


はミロカロスに感謝をしても、感謝しきれない程だった。

「あなたがいたから、私は生まれ変われたの」

ありがとう。何度目になるのか分からないありがとうを告げると、ミロカロスはううん、と首を振った。そして晴れた空に届きそうな、よく響く美しい声で鳴く。



あなたがいたから、私は生まれ変われたの。

それは、ミロカロスもに告げたい言葉だった。
あの公園の池で、ヒンバスだった頃の自分は窮屈な暮らしをしていた。狭い世界で、退屈な毎日を繰り返していた。それを、は偶然という思わぬ形で壊してくれたのだ。

そして偶然と言えど自分を捕まえた後も、惜しみない愛情を注いで、慈しみ、大切に触れて、育ててくれた。だから、こうして進化を遂げることも出来た。知らない世界を見せてくれて、他のポケモンと戦う勇気も与えてくれた。
あの公園の池で暮らしていた頃の自分では想像もつかないような、眩しい毎日をは与えてくれたのだ。


「ねえ、ミロカロス。これからどこに行こうか」

二人の間を流れゆくそよ風に目を細めながら、が楽しそうにミロカロスの鰭と手を繋いだ。

「一緒に、頑張ろうね」

ミロカロスはの言葉に応えるように笑う。

きっとどこにだって行けるし、どんなことだって乗り越えていけるよ。だって、あなたがいて、私がいる。二人が一緒ならどんなに果てしない道だって、どれ程辛いことがあったって、それを乗り越えたその先に、きっと眩しい未来を描くことができるから。


虹を描く魚
おわり



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