よく晴れた日のお昼前のことだ。午前中の習い事を終えたが、ヒンバスを抱いて自宅への帰路を辿っていると、不意に道の脇の叢が揺れた。驚いたが足を止めると、叢からポッポが飛び出す。
「び、びっくりした……」
数歩後退り、腕の中のヒンバスを抱え直したがポッポを避けて歩き出そうとすると、ヒンバスがもぞもぞと暴れだした。突然のことにが驚いていると、その間にヒンバスは腕の中からするりと抜け出す。
「ちょっと!」
が声を掛けると、ヒンバスはちらりとを振り返ったが、すぐに前を向いた。その視線の先には、先程叢から飛び出したポッポがいる。ヒンバスの様子を伺っていたは、もしかして、ヒンバスはあのポッポと戦うつもりなのでは、と、思った。
「ヒンバス……」
無理だよ、と言おうとしたは、ヒンバスのあまりにもやる気に満ちた眼を見て、その言葉を飲み込んでしまった。
「私、バトルなんてしたことないよ」
トレーナーズスクールで戦いの際の基礎などは学んだことはあるが、随分と昔のことであるし、何より実践はこれが初めてなのだ。それでもヒンバスはもう一度振り返ると、力強く頷いた。
「分かった。やってみよう」
深呼吸をしてから、はヒンバスに技を命じる。
「ヒンバス、たいあたり!」
地面を突いているポッポに、尾鰭で跳ね上がったヒンバスが勢いよくぶつかる。完全に急襲ともいえるその攻撃に、ポッポは驚いた声を上げた。ポッポの体がよろめく。しかしすぐに体勢を立て直すと、ポッポも同じようにヒンバスにたいあたりを喰らわせた。ヒンバスの体が地面の上を砂煙を上げて転がる。
「大丈夫!?」
が声を上げて駆け寄ろうとすると、ヒンバスはすぐに胸鰭でバランスをとって起き上がった。その間にポッポはヒンバスにくるりと背を向けると足で地面を蹴り、すなかけを喰らわせる。
「もう一度、たいあたり!」
巻き上げられた砂に目を瞑りながらが命じると、ヒンバスは背を向けているポッポに思い切りぶつかった。ヒンバスとポッポが縺れるように地面に並んで倒れ込む。砂が巻き上げられるのが収まったのが分かったが目を恐る恐る開けると、そこには眼を回したポッポと、得意そうに胸を張っているヒンバスがいた。
「あっ、す、すごい!すごいよヒンバス!」
砂だらけになったヒンバスをが抱き上げると、ヒンバスは機嫌良く鳴いた。
「初めてバトルしたのに、勝つなんて!」
ヒンバスの頬にが頬を寄せると、ヒンバスもに擦り寄った。それからヒンバスの体を優しく撫でたは、はっとしたような表情を浮かべた。最近艶やかになっていた筈のヒンバスの鱗に、傷がついていることに気がついたのだ。
「あっ、バトルの後はポケモンセンターに行かなきゃ!」
そう言うと、ヒンバスをボールに戻したは慌しく駆け出した。
「はい!治療は終わりましたよ」
ただの擦り傷程度だったので、ほんの数分でヒンバスの入ったボールをは受け取ると、ポケモンセンターの中にあるソファに腰を下ろした。今までポケモンを持っておらず、訪れたことの無かったポケモンセンターは何だかそわそわとしてしまう。
はヒンバスをボールから出すと隣に乗せた。それからすぐ傍にあった本棚から適当な雑誌を取り出し、表紙を捲る。
各地のジムリーダー特集!という特集が組まれているようで、様々な地方のジムリーダー達の姿が、手持ちのポケモンと共に紹介されていた。
「バトルの基礎知識なんてものはトレーナーズスクールでたくさん学べたけれど、実践となると難しいね。さっき、私頭の中がいっぱいになっちゃったもん」
が雑誌のページからヒンバスに視線を移して話し掛けると、ヒンバスはの顔を見上げて首を傾げた。
「でも、すっごく楽しくて、どきどきしちゃった。さっきはありがとう」
そう言いながら、はヒンバスの治療が終わるまでの数分の間に、ジョーイと話したことを思い出していた。
「あの……ヒンバスの傷、すぐに治りますか?」
ヒンバスの入ったボールを預かり、治療装置に置いて受付へと戻って来たジョーイに向かってが話しかけると、ジョーイは笑顔を浮かべた。
「ええ。軽い傷だけですから、すぐに治療は終わりますよ」
それを聞いたは安堵したような表情を浮かべ、それから続け様に話しかける。
「私、自分のポケモンを持つのが初めてで……、バトルも今日、初めてしたんです。それで、どうしたら、強くなれるのでしょうか?」
ジョーイはそうですねえ、と考え込むような素振りを見せたが、すぐにぱっと顔を明るくさせた。
「何事も、繰り返し行うことが良いのではないでしょうか?バトルも、誰だって最初から強い訳ではなくて、繰り返し行って、経験を積み重ねて、少しずつ強くなっていくんだと思います。そうして積み重ねることで、トレーナーは勿論、ポケモンだってレベルが上がったり、新しい技を覚えたりしますからね」
「繰り返し……。そうですよね。ありがとうございます!」
ヒンバスにぺちぺちと足を胸鰭で叩かれたは、ヒンバスに目を向ける。その顔はが考え事をしていたからか、どうしたの、と、言いたげな様子だ。
「ジョーイさんにね、強くなるには繰り返しバトルをするのが良いって言われたの。だから、また、バトルしてもいい?」
そう尋ねると、ヒンバスは当然だと言うかのように勢いよく頷く。それを見たは、嬉しそうにヒンバスを抱きしめた。
その日から、は習い事の終わった後の帰り道や、塾に行くまでの空き時間、塾が終わった後の帰り道で少しずつ野生のポケモンとバトルをするようになった。
そうして野生のポケモンとバトルを重ねるようになって、負けることは勿論あったが、それでもとヒンバスは毎日のように空いた時間を見つけては、バトルを繰り返し、少しずつ経験を重ねていった。
「」
「何、お父さん」
「ちょっと、来なさい」
そんなある日の塾の帰り道、野生のポケモンと二戦程バトルをしてきたは、帰ってくるなり父親にそう声を掛けられた。ヒンバスも鞄の奥底のボールの中で、息を潜めて外の様子を伺っているようだ。
リビングに向かうと、母親が椅子に座り、のことをじっと見つめていた。そして父親はに母親の前の席の椅子に座るように促すと、母親の隣に腰を下ろす。
「。最近、あなた、どうしたの?」
「えっ……。どうしたのって、な、何が……」
「前にも言ったわよね。最近帰りが遅いんじゃないって」
「だから、その、気分転換に……」
そう言うと、父親が腕を組みながら口を開いた。
「気分転換も良いけどな。毎日毎日遅いのは、さすがにどうかと思って言っているんだ」
「だって、毎日習い事習い事、勉強勉強って……そればっかり……」
その言葉を聞いた両親は、顔を見合わせて訝しげな表情を浮かべた。
「、最近のあなたは変だわ。前まではそんなこと、一言も言わなかったじゃない。何か隠しているの?」
それを聞いたは、ヒンバスの入ったボールを思い出し、すぐに手をぶんぶんと振って否定した。
「ち、違うよ。何も隠してない。ただ、その……模試もあったし、習い事の内容も最近難しくなってきたし、少し疲れてたから、つい。ごめんなさい。これからは気をつけるよ……」
「そう。それなら良いのだけれど」
「もう、部屋に行って良い?」
両親が頷いたのを確認すると、は重い足取りで部屋へと戻った。そしてそのままベッドへと倒れ込む。
「何だか、疲れちゃったな」
親は昔からああしなさい、こうしなさい、と言うだけで、自分がこうしたい、ということを聞いてくれなかった。だからずっと大人しく言う通りにしてきたのに。
将来いい所に行けるように頑張りなさいと言われたって、そんなものには興味が無かった。昔から興味があるのは、この狭い世界ではなくて、もっと知らない、広い世界のことなのだ。
がもやもやとする気持ちを必死に胸の奥の方へと押し込めようとしていると、ベッドの上で鞄から転がり出ていたボールが、かたかたと揺れた。
「なあに、どうしたの……」
あまり元気の無い声で尋ねながらがそっとボールを開くと、ヒンバスはボールから出るや否やにとても軽い力でたいあたりをした。
「……元気を出せって言っているんだよね。大丈夫。ありがとう」
の声は、静かな部屋に小さく響いて消える。
そんなの様子を見ていたヒンバスは、もっとバトルをして、経験を重ねて、早く強くなりたいと思った。そうしたら、きっとに二度とこんな顔をさせずに済むように、守ってあげられるのに、と。