とヒンバスが出逢ってから二週間程が経った塾からの帰り道、とヒンバスは二人が初めて出逢った公園にやって来ていた。ヒンバスが偶然にもボールに入ってしまった池の見えるベンチに座りながら、はヒンバスを膝に乗せ、そして星の瞬く夜空を見上げている。
ヒンバスは最初と同じように夜空を見上げていたが、軈ての顔へと視線を移し、それから池へと眼を移した。
この公園の池は公園が広いだけあって大きく、池の中には水草も多いため、ヒンバスにとっては棲む環境としては快適な場所であった。ただ一つの点を除いては。
ヒンバスはヒンバスという個体の中でも生まれつき体が小さかったせいか、争いをあまり好まない性格で、動きも機敏な方ではなかった。そのため泳いでいると他のポケモン達にぶつかられることがよくあり、その度に他のポケモン達に邪魔だ、鈍い奴だと言われてきたのである。
同じヒンバスの仲間達と餌を求めて泳ぎ回っても、他の素早いポケモンたちがあっという間に餌を食べ尽くしてしまうし、時々この快適なはずの場所に、窮屈さを感じていたのだ。
そんなある日、一人気分転換に池の隅を泳いでいたヒンバスはうっかりトサキントにぶつかってしまい、そのまま突かれてしまう。そして水面近くで突かれたヒンバスは、その勢いで池から跳ね上がってしまい、池の淵の叢に転がった。その時、偶然にも飛んできたボールに、ヒンバスは捕まってしまったのである。そのボールを投げたのが、だったのだ。
人間と触れ合うことが初めてだったヒンバスは、捕まった時、一体これから自分はどうなってしまうのだろうかと泣きたいような気持ちになったが、そんな気持ちは、すぐにどこかにいってしまった。それは、自分のことをボールの壁越しに見つめる人間の顔が、自分以上に戸惑い、不安げで、泣きそうだったからだ。
自分よりも、どうして相手の人間の方が不安そうな顔をしているのだろう。君がボールを投げて捕まえたんじゃあないか。そう、ヒンバスには不思議でしかたなかったが、その理由は次の日の朝にすぐ分かった。
「もし、あなたがいいなら、私と一緒にいてくれる?……私、自分のポケモンって持ったことが無いの。本当は、とっても欲しかったんだけれども、親からは勉強が疎かになるってずっと言われてきて、諦めてた。でも、昨日、偶然とはいえあなたと出逢うことができて、すっごく嬉しかった。だから、お別れするのは……淋しいの。嫌なの……」
今にも溢れそうな涙を湛えてそう言葉を紡ぐを見ていたヒンバスは、ああ、だからか。と納得した。ずっと願って欲しかったものを、思いがけず手に入れて、彼女はどうしたらいいのか分からないのだ、と。自分の返答を待っているを見ていたヒンバスは、一体これから自分はどうなってしまうのだろうかと泣きたいような気持ちになったことも忘れ、床を力強く尾鰭で蹴る。そしての手の中に飛び込んだ。
「ありがとう」
震える声で繰り返すの声を聞いたヒンバスは、この選択はきっと間違っていないのだと思った。
そうしてと過ごすようになってから、ヒンバスはという人間がどんどん好きになっていった。自分のぼろぼろの鰭や体のことを笑う所か、慈しむような優しい手のひらで撫でてくれるし、自分が餌を食べている間も、鈍いと言わずに待っていてくれる。それだけでは無く、自分が美味しい美味しいと言うと、言葉は伝わらないのに、一緒になって嬉しそうに笑ってくれるのだ。
だから、に「私と一緒にいてくれて、ありがとう。ヒンバスのお陰でね、ここの所毎日がすごく楽しいの」と言われた時は、思わず驚いてしまった。も自分と同じように思っていてくれたなんて、と。
「ヒンバス」
不意に名前を呼ばれたヒンバスは、池に向けていた視線をへと向けた。
「星が綺麗だね。ヒンバスと一緒にいるから、余計に綺麗に見えるのかなあ」
の手に額を撫でられたヒンバスは、ひん、と小さく鳴き声を上げた。と一緒にいるから、自分にも同じように美しく星が見えているのだと、伝わればいいのに。そんなことを思いながら。
ヒンバスが鳴いたのを聞くと、は柔らかく笑った。そしてそろそろ帰ろうか、と立ち上がる。ヒンバスが頷くと、はボールにヒンバスを戻した。本当は途中までヒンバスを抱きながら帰りたい所だが、少しのんびりし過ぎたため、急ぎ足で帰ろうと思ったのだ。ヒンバスのボールを鞄の奥底にしまったは、急ぎ足で自宅へと向かった。
家に着き、玄関で靴を脱いでいると、母親が玄関までやって来た。が顔を上げると、母親の少し不機嫌そうな顔が目に入る。
「。最近遅いんじゃない」
「……塾で少し残ったりしてるから……」
「それにしたって、最近遅いことが多いわよ。どこか寄り道したりしてるんじゃないの」
「気分転換に公園を散歩したりするくらいあるよ。……別に勉強とかで手を抜いたりしてないし、それくらいも駄目なの?」
おずおずとした様子でが言うと、母親は溜息を吐いてリビングへと戻っていった。父親が、気分転換くらいなら良いんじゃないか、と言っている声が聞こえる。
がやり切れない気持ちを抱えて玄関で足を止めていると、不意に鞄の底からかたかたと小さな振動が伝わった。ヒンバスの入ったボールが揺れているのだ。それが何だかヒンバスが励ましてくれているようで、は気を取り直すとすぐに自室へと向かった。
「私、昔から言われた通りにしてきたのに。少しの自由も許されないのかなあ」
ヒンバスの入ったボールを手に、ベッドに寝転がって呟くと、ヒンバスのボールが先程のように揺れる。ボールを顔の前に持ってくると、ボールの中のヒンバスがじっと見つめてきているような気がして、はボールからヒンバスを出した。ボールから出ると、ヒンバスはの額に自分の額をこつんとぶつける。
「慰めてくれてるの?」
ヒンバスはの額に自分の額をぶつけたまま、ぐいぐいと押してくる。
「ありがとう。あなたは優しいね」
ヒンバスの体を抱き寄せると、はそっと抱きしめた。ここ最近しぶい味のポロックを食べ続けていたからか、出逢った頃よりも幾分艶の出てきた鱗が、部屋の明かりを鈍く照り返している。その鱗をなぞるように撫でていると、ヒンバスの眼が少しずつとろんとし始めて、軈て静かに眠りに就いてしまった。それに気がつくとはヒンバスをボールに戻し、鞄の中にボールをしまう。
それからベッドで再び仰向けになると、いつだったか部屋の掃除をした時に捨てた、トレーナーズスクールで書いた作文のことを思い出した。
しょうらいのわたしのゆめは、りっぱなぽけもんとれーなーになって、せかいじゅうをたびすることです。
ヒンバスを連れて、いつかどこかへ旅に出ることが出来たら、それはどんなに素敵なことだろう。知らない町に行って知らないものを見て、知らない音を聞いて。そして二人でその感動を分かち合えたらいいのに。そんなことを考えているうちに、もいつの間にか眠っていた。