ヒンバスと出逢って三日目、塾に行くまでの短い自由な時間に、は風呂場へとヒンバスを連れて行った。
モンスターボールから出され、浴槽に張られた水の中でばしゃばしゃと飛沫を上げてはしゃぎ回っているヒンバスを、風呂椅子に座りながら見ていたが水の中に手を差し入れると、ヒンバスはの手に擦り寄るようにしながら泳いだ。ヒンバスの胸鰭が手の平を掠め、その擽ったさには笑い声を上げる。
ぐるぐると泳ぎ回った後にヒンバスが水面から顔を出したので、はヒンバスの顎を撫でてやった。ヒンバスはどうやら顎の下を撫でられるのがお気に入りなようで、に撫でられると眼を閉じて大人しくなる。そこで顎を撫でるのを止めて胸鰭を撫でると、途端にヒンバスは眼を開けてむっとした顔をした。どうやら胸鰭はあまり触られたくは無いらしい。
「背鰭は平気なのになあ」
そう言って胸鰭から手を離したがヒンバスの鼻先を指先でちょんちょんととつつくと、ヒンバスが水面を胸鰭で勢い良く叩いた。の顔に水飛沫が飛ぶ。
「うわっ!」
が慌てて水を拭うと、ヒンバスはけらけらと笑って水の中を泳いだ。もう、とは声を上げたが、その顔は笑っている。
そう言えば、何となく笑うのが久しぶりだ、とはヒンバスを見つめながら思った。自分の感情をあまり表に出さず、家でも塾でも習い事でも言われたことに対して一つ返事で全てをこなして過ごしてきたので、日常生活で笑う程に楽しいと思うようなことは殆ど無かったのだ。
ヒンバスと出逢い、そして一緒に過ごすようになってから一週間が経過していた。
その一週間は、が過ごしてきた今までの日々のどれよりも格段に充実していた。どこへ行くにもヒンバスの入ったボールを持ち歩き、そして塾や習い事が終われば帰り道にこっそりと色んな所へ一緒に寄り道をするのだ。それは例えば公園に寄ったり、いつもと違う道を通って遠回りをして家に帰ったりと本当に些細なことだったが、たったそれだけでもの毎日を鮮やかに色付けるには、充分なものだった。
その日、午前中にあった習い事の帰り道でデパートへと立ち寄ったは、食品売り場の一角で足を止めた。「ポケモンのお菓子フェア」なるものが開催されているようで、見たことのないようなポケモン用のお菓子が並べられていたのだ。
「ヒンバス、どれか食べてみる?」
財布の中に残っているお金を思い出しながら、鞄からモンスターボールを取り出して中のヒンバスに語りかけると、ヒンバスは嬉しそうにボールをかたかたと揺らした。それを見たは笑顔を浮かべると、悩んだ末にポロックというお菓子を選んでいくつか買い物かごに入れる。そして会計を済ませると、帰り道を歩き出した。
歩き出してすぐにヒンバスをボールから出すと、はその体を抱き上げた。最初のうちはヒンバスの体を抱き上げることすら、ポケモンと触れ合う機会が無かったにとっては至難の業だったが、一週間が過ぎた今では手馴れたものになっている。
そしてヒンバスと過ごすようになって分かったことだが、ヒンバスは水中に暮らすポケモンではあるものの陸でも呼吸が出来るようだ。勿論ヒンバスにとっては水中の方が過ごしやすいのだが、どうやらの腕の中がなかなか気に入ったようで、モンスターボールに戻りたいという素振りを見せることもなく、の腕に抱かれるとこうして大人しくしているのである。ヒンバスの体は水タイプだからなのか、しっとりとしており、ヒンバスのしっとりと濡れたような硬い鱗を撫でながら、はヒンバスへと語りかけた。
「ねえ、ヒンバス」
ヒンバスはの腕の中で、ちらりと視線だけ振り返った。その顔は、不思議そうな表情を浮かべている。
「私と一緒にいてくれて、ありがとう。ヒンバスのお陰でね、ここの所毎日がすごく楽しいの」
の言葉を聞いたヒンバスは、少し驚いたように眼を見開いてから、ふふんと得意そうな顔をした。その誇らしげな顔が可愛らしくて、思わずが笑い声を漏らす。するとヒンバスは尾鰭での体をぺちりと叩いた。
「ごめん、ごめん。あんまりヒンバスが可愛いから、つい」
ヒンバスは態とらしく頬を膨らませ、それを見たは尚笑ってしまったのだった。
家に近付くと、はヒンバスをボールに戻し、ボールを鞄の奥底にしまってから家へと入った。そして真っ先に自室へと向かうと、自室の扉をしっかり閉めてから、ヒンバスのボールとデパートで買った商品の入った袋を取り出す。
「静かに、ね」
そうボールの中のヒンバスに声を掛けてからベッドに向けてボールの開閉スイッチを押すと、現れたヒンバスがベッドの上でぽすんと跳ねた。その体を抱き上げてベッドから床に下ろし、自分と向き合わせると、は袋の中からポロックの入ったケースを取り出した。
「どの味がいいの?」
からい、しぶい、すっぱい、にがい、あまい五種類の味の、様々な色をしたポロックを並べると、ヒンバスはそれぞれに顔を近付けてから、青い色をしたポロックに口を付けた。もぐもぐと口を動かして咀嚼するヒンバスの様子に、思わずの頬が緩む。
「どう?美味しい?」
ヒンバスはこくこくと勢いよく頷いてから、もっと食べてもいいかと強請るようにの顔を見上げた。
「いいよ。あなたの為に買ったんだもの。好きなだけ食べて」
そう言うとヒンバスの眼がきらきらと輝く。そしてヒンバスは次々とポロックを美味しそうに平らげたのだった。
「あまい味はあまり好きじゃないの?」
満足するまでポロックを食べたのか、の膝の上で大人しくしているヒンバスに話し掛けると、ヒンバスはしょんぼりした顔をして頷いた。どうやらしぶい味が好きなようで、青い色をしたポロックはよく食べたのだが、桃色のあまい味のポロックは殆ど口を付けなかったのだ。
「そう。じゃあ、今度はしぶいポロックをたくさん買おうか」
友達と遊ぶ時間も無いし、ポケモンを持っていた訳でも無かったので、今まで親から渡されたお小遣いの殆どに手を付けていなかったがそう言うと、ヒンバスは嬉しそうにの体に擦り寄った。
「ヒンバスが嬉しそうだと、私も嬉しいの。不思議だね」
ぎゅうとヒンバスの体を抱きしめると、自分とは全く違う体温、体の形、肌の感触、呼吸が伝わる。それなのに、嬉しいという気持ちが共有できるというのはにとっては初めてのことで、それがたまらなく心地よかった。