ヒンバスの入ったボールをそっと鞄の中から出したは、ボールを見つめて何とも言えないような表情を浮かべていたが、軈て意を決したようにボールを鞄に戻すと、扉を開けて中に入った。
「ただいま」
靴を脱ぎつつそう言うと、リビングのテーブルに向かい、持ち帰った仕事をしている母親がおかえり、と静かな声で言う。そしてその向かいの席で父親が新聞を読んでいるようで、紙の擦れる音が聞こえたかと思うと、同じようにおかえり、という声が聞こえた。
ポケモンを偶然とはいえ捕まえてしまったことを、絶対に知られてはいけない。そう考えながら、は自室へ行こうと、両親のいるリビングを通って自室のある階段へと足を向けた。そして階段を二段程上がった時だった。
「」
母親の呼び止める声に、思わず肩が跳ねる。
「な……、何?」
鞄の持ち手をぎゅうと力強く握り締めながら、は恐る恐る返事を返す。
ああ、なんてことのない、いつも通りの様子でいなければいけないのに、声が震えてしまった。お母さんにお父さんに、変に思われていないだろうか?
ぐるぐると考えながら階段を下りて両親の元へと戻ると、は引き攣った笑顔を浮かべた。
「何、お母さん」
「何か言うことがあるんじゃないの」
「あの……、えっと」
ああ、駄目だ。いつもと様子が違うことに気付かれてる。そう思っては観念したように鞄の中に手を入れた。ヒンバスのボールに、指が触れる。
「今日、全国模試の結果が出たでしょう」
「えっ……?模試?」
「そうよ。何、まだ出ていないの?」
ああ、そう言えばそうだった……。良かった、ばれていない。そう思うと途端に肩の力が抜け、は鞄の中から模試の結果を取り出すと、怪訝そうな顔をしている母親に手渡した。
「三位ねえ……。どうせやるなら、一位を取らないと」
「はい」
「次は期待してるわよ」
「はい」
「それから夕飯、冷蔵庫に入っているわよ。温めて食べなさい」
「……後で食べる」
そう言って今度こそ自室へと戻ったは、ベッドの横に鞄を置くと、ベッドに倒れ込んだ。大きな溜息を吐くと、張り詰めていた緊張が一気に緩んでいく。それから鞄に手を伸ばすと、はヒンバスの入ったボールを取り出した。仰向けになり、ボールを掲げるようにして持つとボールはかたかたと小さく揺れる。それを見たは、ヒンバスをボールから出してみたくなった。
どうしよう、大丈夫かな。でも、少しだけなら。
少し悩んだが、はボールの開閉音が聞こえないようにベッドの布団の中に潜ると、早鐘を打つ心臓を押さえようとすることもせず、ボールの開閉スイッチを押した。赤い光が布団の中を照らし、その光は魚のシルエットを形作る。そしてがヒンバス、と小さな声で呼びかけると、そのシルエットはひん、と同じように小さな声で鳴いてみせた。
自分の呼びかけに反応してくれたことが嬉しくて、思わずはヒンバスを抱きしめる。ヒンバスは驚いたようにぱちぱちと眼を何度か瞬かせたが、特に抵抗はしなかった。そしてヒンバスのひやりと冷たい体を抱きしめながら、布団からヒンバスと一緒に顔を出したは、ヒンバスのことをどうしようかと考える。このまま隠し通せるだろうか?いや、それはさすがに無理だろうか?
時計の秒針の音が響く静かな部屋で暫くの間そのことに対して思考を巡らせていたが、は一先ず晩ご飯を食べてしまおうとヒンバスをボールに戻して鞄の中にしまい、リビングへと向かった。
その次の日、珍しく塾は休みで、習い事も講師が急用のため休みになったは、両親が仕事へ行くのを見送った後、そわそわとしながら鞄の中からボールを取り出した。そしてそのボールを手に、一階にある風呂場へと向かう。ボールの中からヒンバスは外の様子を伺っているのか、ボールが元気よく揺れた。
「ちょっと待っててね」
そう言ってから浴槽にたっぷりと水を張ると、はヒンバスをボールから出した。ヒンバスは水の中にざぶんと音を立てて潜ると、水面から顔を覗かせる。浴槽の隣りに屈み込んで、はヒンバスのことを観察するように眺めた。暫くして間の抜けたような顔で見つめるヒンバスに気がつくと、もヒンバスの眼を見つめ返す。
「……ポケモンって、みんな戦わせたりするでしょう?あなたって、何と言うか……その、ちょっと体が貧相だけれど、戦えるのかな」
ヒンバスが間の抜けた顔のまま首を傾げる。ま、私には関係ないのだけれども。そうが言うと、ヒンバスは張られた水の中でぐるりと回り、それから水面をぱしゃんと尾で叩いた。水飛沫が上がり、突然のことに驚いたが声を上げてしりもちをつく。
「わっ!濡れないように気をつけていたのに!」
慌てて立ち上がるも、の服はヒンバスの上げた水飛沫と風呂の床に座ってしまったことで大分濡れてしまっていた。
「まあ、いいか」
そう言って浴槽に寄り添うように座ったは、浴槽の淵に器用に胸鰭を乗せて自分の姿を見つめているヒンバスの姿をもう一度眺める。ヒンバスは何を考えているのか分からないような顔で、ひん、と鳴いた。それから水に潜ると、ぐるぐると狭いであろう浴槽の中を泳ぎまわる。
ヒンバスが水遊びをする姿を無表情で長い間眺めていたは、不意にふう、と息を吐くと立ち上がった。
「私は部屋に戻るけれど、あなたも一緒に戻る?それとも、もう少し水遊びする?」
がモンスターボールを見せると、ヒンバスは水遊びをするのを止めて首を振った。どうやらモンスターボールよりも、この浴槽の方が良いらしい。それを見たはそう、とだけ言うと風呂場から脱衣所へ移動し、タオルで濡れた手や足を拭きながらちらりと風呂場を覗いた。ヒンバスはばしゃばしゃと水飛沫を上げている。は何かを思いついたような顔をすると、風呂場へと戻り、そして浴槽の縁にモンスターボールを置いた。
「ここにあなたのボールを置いておくから。戻りたかったら、自分で戻れる?」
ヒンバスは水の中から顔を出すと、ひん、と鳴く。それを見たは、よし、と頷くと自分の部屋へと戻ったのだった。
自分の部屋に戻り、ベッドに仰向けになったは物思いに耽っていた。考えるのは、勿論偶然とはいえゲットしてしまったヒンバスのことだ。
あのヒンバス、どうしよう。逃がすべきかな。逃がすべきなんだろうな。だって、ずっと勉強が疎かになるからってポケモンを持つことを反対されてきたんだし。ああでも、いきなり捕まえられて知らない場所に連れてこられて、それで私の都合が悪いから逃がします、なんてしていいのかな。いやでも、ヒンバスだって自分の棲んでいた場所に帰りたいかもしれない。
暫くの間そうして考えていたは、不意に聞こえた怪しい物音に慌てて飛び起きた。部屋の外の階段の下から、べちゃ……、べちゃ……と音がするのだ。そしてベッドから下りて、恐る恐る部屋の外の短い廊下から階段下を覗いたは、思わず声を上げた。
「ヒンバス!」
風呂場の浴槽で水遊びをしていたはずのヒンバスが、いつの間にやら階段の下までやって来ていたのだ。が慌てて階段を駆け下り、ヒンバスの元へ向かって屈むと、ヒンバスがの顔を見上げる。
「どうしたの?ボールは置いてきたでしょう?」
の声にヒンバスは小さく鳴いただけだった。
「あちこち水浸しだし、どうしたのよ」
困ったようにそう言うと、ヒンバスは胸鰭で床を後ろに押すようにしてゆっくりと進み、の足の隣に辿り着くと胸鰭での足をぺちぺちと叩いた。水で濡れているヒンバスの胸鰭から、冷たい水の温度が伝わる。そして満足そうな顔をするとヒンバスは鳴いた。その様子を見ていたは、小さく笑うと自分の足に寄り添うヒンバスの背鰭にそっと触れる。
「……もしかして、やっぱり私と一緒にいたくなったの?なんてね」
冗談めかしてが口にした言葉に、意外にもヒンバスは頷いた。それを見たが驚いた顔をする。
「……そう。あなたがそうしたいなら、いいけれど」
そう言ってから、少し冷たい言い方になってしまっただろうか、とは心の中で後悔した。しかしポケモンとこんなにも触れ合ったことが初めてだったには、これが精一杯の返事だったのである。
「さっきまで、あなたのことをどうしたらいいかって、そればかり考えていたけれど」
ヒンバスの体や、水浸しになっていた床を拭いた後、自室に戻って暫くの間ぼうっとしていたが不意に口を開くと、ヒンバスが首を傾げた。
「あなたは野生に帰りたい?」
が何となく人差し指を差し出すと、ヒンバスがかぷりと指に噛み付いた。とは言ってもヒンバスは牙が無いようで、の指には傷も何も残らない。不思議そうな顔をしての指から口を離したヒンバスは、先程のように鳴いた。
「もし、あなたがいいなら、私と一緒にいてくれる?……私、自分のポケモンって持ったことが無いの。本当は、とっても欲しかったんだけれども、親からは勉強が疎かになるってずっと言われてきて、諦めてた。でも、昨日、偶然とはいえあなたと出逢うことができて、すっごく嬉しかった。だから、お別れするのは……淋しいの。嫌なの……」
何かを堪えるようにしながらがぽつぽつと話すと、ヒンバスは胸鰭で先程のようにの足を叩いた。がヒンバスの行動に唖然としていると、ヒンバスは尾鰭で床を蹴って跳ね上がる。そしてなんと驚いた顔のの腕の中に飛び込むと、ひん!と力強く鳴いたのだ。
「一緒に、いてくれるの?」
困惑した表情で尋ねるに、ヒンバスは何も言わず、ただ腕の中で大人しくしている。はヒンバスの体を抱きしめると蹲り、そして震える声でありがとう、と何度も呟いたのだった。