すっかり慣れた様子のポケモンに手伝ってもらって庭の水やりを終えたは、ジョウロやホースを片付けながら考え事をしていた。するときのみの木を観察していたポケモンがやって来て、様子を伺うようにの顔を覗き込んだ。
どうやら心ここにあらずで、ジョウロを持ったまま立ち尽くすのことが気になったようだった。
「……ん? ああ、ちょっとね」
そう言うとポケモンは分かりやすほどにむっとした表情を浮かべ、の肩に自身の額をぐりぐりと押しつけた。はぐらかされたのが気に入らない、とでも言いたげなポケモンの行動に、は慌ててストップをかける。
「わっ、ちょっと! くすぐったいから! ……あなたの言葉が、考えていることが、全部分かればいいのになあって思っていたの」
額を押しつけるのをやめたポケモンがキョトンとした表情を浮かべ、何度も瞬きを繰り返した。
「あなたの名前も分からないし、迷子なのに帰り道も分からないし。何とかしてあげたいけれど、何にもできていないし……」
この前森へ探索に行った日から思っていたこと。それをは静かに吐き出す。
ポケモンの名前も分からない。迷子だという現状も変わらず。その上あの日はポケモンが探していた「何か」を見つけることもできなかったのだ。森での帰り道、ポケモンは残念そうな顔を見せたもののそこまで気にしていないようだった。しかしは、自分がもっとポケモンのことに詳しい――例えばポケモントレーナーだったら、この状況も少しは違っていたのかもしれないのに、なんて思ってしまうのだ。
はあ、と溜息を吐く。するとそれにふああ、と気の抜けたあくびが重なった。
「……聞いてる?」
ポケモンが大きく開けた口を隠すこともなく頷く。その顔を見たは、ややあってから吹き出してしまった。
「……なんか、悩んでたことがどうでもよくなってきた」
が肩を竦めると、ポケモンが首を傾げた。
「だって、今現在迷子のあなた自身が全然焦ってないもんね。それなのに私が焦ってても仕方ないや」
ジョウロを片付けたはポケモンへ向かって手を伸ばした。ポケモンは大人しくの元へやって来て、手のひらを頬で受け止める。なめらかな手触りの頬をそっと撫でると、それに合わせて真っ白な喉がくるくると鳴った。
「でも」
の言葉に、目を閉じていたポケモンが不思議そうな表情で瞼を持ち上げる。
「やっぱり、あなたの考えていることが分かればいいのになあとは思うけどね」
ある日の夕方のこと。なだらかな丘を下った先の町――ニビシティでの買い物を終えて帰宅したは、「あれ」と声を漏らした。この小さな家の中、留守番を頼んだはずのポケモンの姿がどこにも見えなかったのだ。
むじゃきな性格で人懐っこいあのポケモンなら、帰ってきた瞬間に顔を見せそうなものだけど。一体どこに? そう思いながら買ったものをテーブルに置いたは、「どこにいるの?」と呼びかけた。しかしそれに対する返答はなく、家の中はしんと静まり返っている。
外に出たはまっすぐに庭へと向かった。
燃えるような夕焼けの下、きのみの木が静かに風に揺れている。その前で足を止めたは思案した。
もしかして、迷子だったあのポケモンもついに帰り道が分かったのだろうか。それで、元いた場所へ帰ったのかも。それならいい――そこまで考えて、は小さく首を振る。
ポケモンといういきものについては詳しくない。あのポケモンとだって、過ごしたのは二、三週間ほどだ。それでも。例え帰り道が分かったのだとしても、あのポケモンが何も言わずに立ち去るようには思えなかったのだ。
そうして思い出したのは、あの嵐の夜の傷だらけのポケモンの姿だった。
留守の間に何かよくないことが起きたのではないか。そんな考えに行き着いたの背を冷や汗が伝う。
とにかくこうして立ち止まってはいられない。知らず知らずの内に俯いていたが顔を上げたのと、彼女の耳に「しゅわーん!」という声が届いたのはほぼ同時のことだった。
声が聞こえた方へは勢いよく振り返る。瞬間、見えない何かがすぐ傍を通り抜けていった。強い風が吹き、きのみの木がぐわんと大きく揺れる。緑の葉がばさばさと騒がしい音を立てた。
「うわっ!」
あまりの風の強さにたまらず目を閉じる。そのまま待つこと数十秒。風が止んだのを確認してから目開いたは、「あー!」と大きな声を上げた。
なぜなら、目の前に探していた青と白の姿があったからだ。彼女の大きな声に、夕焼けと同じくらい赤いポケモンの目がまるくなる。
「もう! どこに行ってたの? 心配しちゃったよ」
の言葉に申し訳なさそうな表情を浮かべたポケモンは、一呼吸おいてからこの前の森がある方へ目を向けた。
「森に行ってたの? ……って、何それ」
森のある方を見遣って、それからポケモンへ視線を移したはある一点に目を留めると眉間にしわを寄せた。目の前で宙に浮かぶポケモンが、その両手に何かを抱えていたからだ。
「しかも、何だかめちゃくちゃ汚れてるし……」
何かを抱える両手は土と泥だらけで、美しい青色のはずの手が青と茶色のまだら模様になっていた。よく見ると、手どころか体のあちこちにも僅かに泥が付着している。
一体何をしていたのか、それが何であるのか。それを知るのは後回しにして、汚れを落とすのを優先するべきだ。そう判断したは庭の水道にホースを取り付けると、大人しく目の前にやってきたポケモンの体に水をかけた。あちこちに付着していた泥汚れが落ちて、いつもの美しい青と白の体に戻っていく。
数分後、ふるりと体を震わせてに容赦なく水飛沫を飛ばしたポケモンは、さっぱりしたような顔でしゅわん! と鳴いた。自由すぎる行動に最早突っ込みを入れる気も起きず、濡れて張り付く髪を耳にかけたは「それ、なあに?」と改めて尋ねた。
すうっと目を細めたポケモンが、両手で抱えていたものをへ差し出す。
太陽が殆ど沈んでしまった空は僅かな夕陽を残すばかり。そんな薄暗さの中で、ポケモンが差し出した不思議なもの――岩と土の塊に見える――がきらきら輝いた。
顔を近づけて見てみれば、岩と土の隙間からつるりとした水晶のようなものが覗いていることが分かった。それはこんこんと湧き出る泉のような、はたまた静かにたゆたう海のような、美しい水を思わせるいくつもの青色が溶けあった不思議な色をしている。それが淡い光を放っているのだ。
幻想的なその輝きに目を奪われていたは、やがて小さく息を吐いた。
「何だろう。何か分からないけれど、すごく綺麗だね」
ポケモンは満足そうに頷くと、それをにぐいと押し付ける。思わず受け取ったは、その謎の水晶とも言うべき不思議なものが見た目に反してあまり重くないことに驚いた。
「意外と軽……じゃなくて。えーっと、私に?」
何か問題でも? そんな顔でポケモンが首を傾げる。
「これを探してたんじゃないの?」
再び森へ行っていたことから察するに、あの日の探しものはこれだったのだろう。そして手が土や泥だらけだったことから、恐らく地面を掘り起こしてまでやっと見つけたもののはずだ。
だというのに、それをあっさり手放してしまっていいのか。が困惑した眼差しを向けるも、ポケモンは興味なさそうに体を撫でるそよ風に目を閉じている。
「うーん……。じゃあ、とりあえずこれは預かっておくね……?」
そう言うとポケモンのお腹からぐうぐうと大きな音が返ってきたので、は声を上げて笑ってしまった。
「お腹空いちゃったね。ちょっと早いけれど、ご飯にしよう」
の提案に元気よく鳴いたポケモンは、待ちきれないといった様子で玄関の方へ飛び去ってしまった。
その後をゆっくり追いながら、は「とりあえず何事もなくてよかった」と思ったのだった。
夕飯を食べ終えた後、テーブルの上に置いた謎の水晶を眺めていたは「そういえば」とポケモンに話しかけた。すぐ隣でピッピにんぎょうを爪の先でつついていたポケモンが振り返る。
「森から帰って来た時、姿が見えなかったように思ったけれど」
強い風が吹く寸前、見えない何かがすぐ傍を通り抜けていったことを思い出したのだ。「あれって何か、あなたの不思議な力?」が首を傾げると、ポケモンは二、三度ほど瞬きをする。すると、驚くことに青と白の大きな体が一瞬で消えた。
「えっ、そんなこともできるの?」
まるでマジックでも見ているようだと驚いて椅子から立ち上がったは、ポケモンがいたはずの場所へ手を伸ばした。すぐに手のひらによく知ったなめらかな何かが触れたので、「あっ、いた」なんて言いながら見えなくなったポケモンの姿を確かめる。
ここが鼻先で、額で、ここが首で……。そう体の輪郭をなぞっていると、くすぐったかったらしいポケモンが姿を現しての手からするりと逃げ出した。
少し離れたところでまたピッピにんぎょうをつつき始めたポケモンを眺めながらは考える。
ポケモンに姿を消してもらって、ポケモンセンターに連れて行ったらどうだろう。そうしたら名前が分かるかも。
そこまで考えて、「でも急に姿を現したら余計に目立つ」という結論に至ったのでその案はなかったことにした。
そこで謎の水晶に目を向けたは、「あ」と声を漏らした。その僅かな声を拾ったポケモンがへ目を向ける。
「この水晶、町の博物館に持っていってもいい……?」
ニビシティには科学博物館があるのだ。ポケモンの化石の復元なんかもやってるし、もしかしたら何か分かるかもしれない。は期待を込めた眼差しをポケモンへ向ける。
ポケモンはちらりと謎の水晶を見て頷いた。その視線はすぐにピッピにんぎょうへと戻る。ポケモンがあまりにもあっさりと頷いたので、の心の端にあった「何かは分からないけれど森でようやく見つけた物だし、断られるかもしれない」なんて心配は杞憂に終わったのだった。