の溜め息が聞こえたのか、モモンの実をかじっていたポケモンが首を傾げる。
 ううん、気にしないで。そう言いながらが青と白の額を撫でるとポケモンは不思議そうな顔をしたが、またすぐにきのみをかじり始めた。

 このポケモンを保護してから既に数日が過ぎている。
 だというのに、未だその正体は不明で手掛かりもなく、今はすっかり綺麗になった傷の原因も分からずにいる。
 唯一分かったことは、むじゃきな性格の彼があまいモモンの実を大層気に入ったということだけだ。

 このポケモンが何というポケモンで、どこから来たのか。
 その答えを知るべく、街のポケモンセンターに連れていこうと考えなかった訳ではない。しかしこの辺りでは見かけたことのない、恐らく珍しいと思われるこのポケモンを連れ歩くことのリスクを考えると、はなかなか行動に移せずにいた。
 もしも珍しいポケモンだと騒ぎになったりしたら。野生のポケモンだからと誰かがバトルを仕掛けたら──嵐の中、傷だらけのからだでぬかるんだ地面を這っていたポケモンの姿を思い出して、は下唇を噛んだ。
 ポケモンがモモンのみをかじるのを止めての顔を覗き込む。「……何でもないよ」白くなめらかな首に手を滑らせると、ポケモンの赤い目がすうっと細くなった。

「少し風に当たろうか」

 きのみを食べ終えたのを見計らってが声をかけると、自身の口の周りの桃色の果汁を舐めながらポケモンが頷いた。

 
 玄関の扉を開く。いつもと変わらないそよ風が、二人の頬をゆるりと撫でた。器用に翼を折りたたんで外に出たポケモンが、くあ、と大きくあくびをする。
 二人並んで家の裏に回ると、は庭の水道の傍らに置いていたジョウロを手に取った。少し土で汚れた、まんまるのホエルコのかたちのジョウロだ。ポケモンがの手元を覗き込んで、それから顔を上げる。ばちりとあった赤い目には分かりやすいほどに好奇の色が滲んでいて、「これは何?」と尋ねるようにポケモンが首を傾げた。

「これはジョウロ。きのみとか、花に水をあげるのに使うの」

 背に空いたまるい穴から水を注いで傾けると、ホエルコの口の部分からさあさあと水が流れ出る。ジョウロを傾けるのをやめたは、瞳をキラキラと輝かせて「へぇ」なんて言いそうな表情で見つめていたポケモンに手渡した。

「これできのみに水をあげてくれる?」

 私は花に水やりをするから。そう言ってがジョウロを渡すと、ポケモンは「まかせろ」とでも言うかのように胸を張って頷いた。


 水やりを始めてから数分後、はポケモンに感心の目を向けた。
 こちらの言葉を理解しているのは分かっていたけれど、それにしても随分と知能の高いポケモンだと思ったのだ。
 水をやりすぎてもだめ、と注意をしたのだが、それもしっかり理解しているし、ジョウロが空になれば自分から水を注ぎにやってくる。
 おまけにがホースで水を遣りつつ花の傍らに生えていた雑草を抜く様子を見ていたようで、きのみの木の横に生えていた雑草を爪の先で摘まんで引っこ抜いていたのだ。
 そうしてポケモンが進んであれこれと手伝ってくれたお陰で、水やりはいつもよりも随分と早く終えることができた。

「手伝ってくれてありがとうね。すっごく助かっちゃった」

 ポケモンからジョウロを受け取って元の場所に戻したところで、は、ふと、何やら視線を向けられていることに気がついた。片付けようと握ったホースはそのままに、ポケモンのことを見つめ返す。

「どうしたの?」

 が首を傾げると、ポケモンは赤い目をキラキラと輝かせ、ホースをちょいちょいと指差して、ひゅわん! と鳴いた。
 
「また水遊びがしたい、とか?」

 ポケモンは勢いよく何度も頷くと、ホースが繋がれたままの水道に近寄って蛇口を捻った。数秒の間を置いて、の握っていたホースの先端から水が流れ始める。

「くさタイプではないだろうし、みずタイプ、って感じでもないんだよねぇ……」

 水遊びが好きみたいだけど。と、流れる水に顔を寄せるポケモンを眺めながら呟く。の独り言が耳に届いたのか、真っ白な肌を水に濡らしたポケモンが首を傾げ、それから勢いよく首を振った。

 「こらっ、冷たい!」

 遠慮なく飛んでくる水飛沫に抗議の声を上げながら、は水道の蛇口を更に捻った。勢いを少し強め、花に水をやった時と同じく水の出方をミスト状のものに変えて、ホースの先端をやや上に向ける。ポケモンは「待ってました!」と言わんばかりの勢いで水をくぐった。

 散々水遊びをした後、家に戻ろうとするの服の裾をポケモンが控えめに引いた。
 驚いたが振り返ると、ポケモンはなだらかな丘の先にある森を指差した。

「えっ、あの森に行きたいの……?」

 森ならば街と違って人目にもつかない。しかし自分はポケモントレーナーではない。森には当然野生のポケモンがたくさんいる。もしも野生のポケモンとバトルになったら……そんなことをが考えていると、ポケモンが胸を張ってひゅわん! と鳴いた。その表情は先程の、水遣りを任せてジョウロを渡した時のものにそっくりだ。

「……。……えーっと、任せろってこと?」

 ポケモンがふふんと鼻を鳴らして宙返りをする。青と白のからだの表面に付着していた水の粒が散らばって、日の光に輝いた。

***

 森に入る直前、は肩に提げていた鞄からむしよけスプレーを取り出した。ポケモンから距離を取ると、それを自分のからだに向けて振り撒く。ポケモンはその様子を興味深そうに観察していた。

「こうすると、野生のポケモンと出会いにくくなるの。私みたいなトレーナーじゃない人には必須の道具だよ」

 が鞄にむしよけスプレーをしまっていると、ポケモンが近寄ってきて腕の匂いを嗅いだ。途端、ポケモンの眉間にしわが寄る。人であるにはむしよけスプレーの匂いが分からないが、彼にはあまり好ましくない匂いがしたようだ。わざとらしくべぇっと舌を出したポケモンに、は思わず笑ってしまった。

「あなたがいるっていっても、念のためにね。何があるか分からないんだから」

 はポケモンと並んで森に足を踏み入れる。家から見ることのできる森だが、こうして足を踏み入れるのは初めてのことだった。
 むしよけスプレーも撒いた。隣には野生であるものの、友好的なポケモンがいる。だというのに少し心細くて、は無意識に胸元でぎゅっと強く手を握りしめた。

「ひっ……!?」

 不意にちょん、と何かが肩に触れたものだから、は飛び上がった。一体何事かと驚いて隣を見ると、すぐ隣にいるポケモンが赤い目を丸くしていた。どうやらの反応に彼も驚いたらしい。

「なっ、な、何……?」

 早鐘を打つ心臓はそのままに何とか言葉を絞り出す。するとポケモンがゆっくりとした動作で青い手を差し出した。は何かを訴えかけてくる赤い目を見つめてから、差し出された手に視線を落とす。
 木々の葉を抜けて降り注ぐ日の光に照らされた青い手。手のひらは薄い灰色で、白く尖った長すぎない爪が三本。人とはまったく違うかたちのポケモンの手をまじまじ観察をしたは、どうしようか少し迷ってからその手に自分の手をかざした。ポケモンがこくりと頷いたので、そのまま薄い灰色の手のひらに手を重ねる。ポケモンはくるると喉を鳴らすと、の手をしっかりと握って優しく引いた。


 ポケモンがしっかりと手を握っていてくれるので、森に入った時よりも幾分は緊張をほぐすことができた。
 地面に落ちている様々な形の葉やきのみを見つけては、「あれはあの植物のものだろうか」なんて考える余裕すらもある。
 それよりも──と、は隣でふわふわと浮かぶポケモンへこっそり目を向けた。
 先程からポケモンが辺りをキョロキョロと見回しているのが気になった。視線は鋭くないので、野生のポケモンを警戒しているという訳ではないように見える。
 
「……この森に何かあるの?」

 足を止めることなくは口を開いた。地面に落ちていた小枝を踏みしめると、パキッと小気味のいい音が鳴る。ポケモンが振り向いて、赤い目がの顔を映した。

「ずっとキョロキョロしてるから、何か探しているのかなって」

 ポケモンが困った顔でこくりと頷いたので、はそれは何なのかと尋ねようとして止めた。何となく、聞いてもきっと自分には分からないと思ってしまったのだ。

 このポケモンは人間である自分の言葉を理解しているが、その逆、ポケモンのことばを自分は理解できない。ポケモンのことばを理解することができたら、彼が何というポケモンで、どこからやって来たのかを知ることができるだろう。
 それだけじゃない。あの嵐の夜に何があったのか。今は何を探しているのかも分かるのに。この心優しいポケモンを助けてあげたいと思う気持ちは確かにあるのに、自分にできることは限られたことしかない。その事実が何だかとても歯痒かった。

「……探し物、見つかるといいね」

 そう言って、はきゅっと口を結んだ。


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