離別の道を辿れども

 忙しく行き交う人々で溢れ返る街並を抜けると、電車の窓から見える景色は一変、緑の山々が並ぶ長閑なものへと変わっていった。窓から見えるそれらの風景に、は目を細めながら口を開く。

「どう、懐かしい?」

 その問い掛けに、と向かい合う様に座っていたキュウコンは鼻を鳴らした。深い群青の色をした椅子の上には収まり切らないキュウコンの九つの尾が、風に揺れる秋の稲穂の如くゆらゆらと揺れている。は揺らめくその九つの尾のうちの一つを手に取ると、極めて丁寧な手つきで撫でながら、もう少しで着くよ、と告げた。そして山が見えていた車窓に、発展した都会とは違い、自然の美しさがそっくり残ったままの田園風景が飛び込んできた時、電車が大きく揺れる。キュウコンはきゅう、と小さく喉を鳴らした。



 それから暫くして、とキュウコンはとある駅で降りた。人の気配は全くと言っていい程感じられない程に寂れてしまった田舎の駅の影が、辺りに無造作に生えた草木に溶け込んでいる。

「キュウコン、もう大丈夫だよ」

 辺りを用心深く見回してからが声を掛けると、キュウコンは稍あって口を開いた。

「……退屈でどうにかなるかと思いました」

 溜め息を吐いたキュウコンを見て、は思わず苦笑する。そして少しばかり屈むと、キュウコンの顎を撫でた。

「まあ、でもキュウコンが急に喋ったら他の人は驚いちゃうよ」
「……それは重々承知しているのですが、と喋る事が出来ないと、矢張り退屈なのです」

 キュウコンは人前で喋ったら大騒ぎになるだろうと、家を出てから今まで一言も喋らずに我慢していたのである。そしてに撫でられるのが余程心地好いらしく、に撫でられながらの身体に擦り寄った。

「この辺りは人が全然いないから、暫くは大丈夫だよ」
「そうですね」

 硝子玉のように透き通る眼を太陽の陽射しに光らせてキュウコンが笑うと、はキュウコンを撫でる手を止め、そろそろ行こう、と声をかける。それにキュウコンが頷くと、二人は舗装のされていない砂利道を、歩調を揃えて歩き出した。

 今日はが親戚に用事があり、朝早くから電車を乗り継いでこの田舎へとやってきた。その親戚というのが、あの夏の日───とキュウコンが初めて出逢った夏、が訪ねていた親戚なのである。つまりこの近くの山は、キュウコンの生まれ育った場所なのだ。心なしか、いつも落ち着いて冷静なキュウコンも、故郷の匂いや雰囲気が懐かしいのかそわそわとしている。

「そわそわしてるよ」

 がキュウコンの様子を指摘して笑うと、キュウコンは照れ隠しをするように笑った。

「故郷の匂いが懐かしいものでして」
「ここに来るのも、あの夏以来だからね」

 それを聞いて、キュウコンは例のあの日を回想するように眼を細めた。降り頻るテッカニンの蝉時雨、雨上がりの土の匂い、雨に濡れた木々の葉から雨水が滴る音。と出逢ったその瞬間だけが、まるで切り取って大切に仕舞っていたかのように鮮明に思い出せる。そうしてキュウコンが穏やかな笑みを浮かべるので、も釣られて笑った。

「お昼過ぎまでは用事が終わらないだろうけれど、その後なら時間もあるし、ゆっくり山の方に散歩でもしようか」
「良いのですか?」
「用事があるとはいえ、せっかくキュウコンの故郷にまで来たんだから。勿論だよ」
「ありがとうございます」

 そんな会話を交わしながら、はキュウコンからすぐ傍の田圃へと目を向けた。水を張られた田圃の上では色鮮やかなヤンヤンマ達が群れを成し、高く晴れ渡る青空をピジョットが風に乗って飛んでいる。時折、山の麓に広がる森の傍の草原を、オドシシが横切った。どれも、都会では見る事の出来ない光景だ。自然の豊かさに満ち溢れるそれらは、全てが生き生きとしていて美しい。普段は見る事の出来ないそれらの光景を楽しみながら、とキュウコンはの親戚の家へと歩いていった。

***

 の言葉通り、親戚の家に着くと挨拶もそこそこに、は親戚の手伝いで忙しく広い平屋の家を親戚達と走り回っていた。何やらその広い平屋には家主とその息子夫婦、更にその弟、と住んでいたらしいが、家主の息子夫婦の弟が引っ越すらしく、その手伝いをしている様だ。その様子を、邪魔にならないように縁側の隅に座るキュウコンは眺めていた。

 がその忙しさから解放されたのは三時になる頃だった。は相変わらず高く澄み渡る青空を眺めながら、キュウコンと並んで田圃の間の畦道を歩く。

「それにしても、目の回る忙しさでしたね。お疲れ様でした」
「みんな忙しくて、集まれた人も少ないしね。あんなに広い家なのに」

 が苦笑を浮かべるとキュウコンも笑った。そして二人は談笑しつつ歩いていたが、軈てとある小道に差し掛かると揃って足を止める。まだ真夏に比べると少ないが、其処彼処からそれでも充分に賑やかなテッカニン達の蝉時雨が降っており、両脇から木々の葉が垂れる小道―――それはあの夏の日に、二人が出逢った小道だった。

「……懐かしいね」
「ええ」

 キュウコンの身体が、垂れる木々の葉の隙間から差し込む光に輝く。二人は暫しの間無言で、ただ蝉時雨に耳を澄ませ、そして小道を眺めていた。それ程までに、この場所は二人にとって思い出深い場所なのだ。そうして長い間、二人は感動にも似た何とも言い表す事の出来ない思いに耽っていたが、不意に、キュウコンが辺りを見回し出した。

「……どうしたの?」
「いえ……何かの気配を感じたもので」

 そう言ったキュウコンが耳をぴくりと動かした時だ。小道の先の叢が揺れたかと思うと、何と一匹のポケモンが姿を現したのだ。そのポケモンに、とキュウコンは驚いた。何故なら、そのポケモンはキュウコンだったのだ。の隣にいるキュウコンよりも一回り大きいキュウコンはとキュウコンを見詰めると、のキュウコンよりも少し深い色をした眼を細めた。それを見たのキュウコンが、そっと呟く。

「……私の、仲間です」
「……キュウコンの?」
「ええ」

 そう言うと、のキュウコンはその一回り大きなキュウコンへと近付いていった。のキュウコンがすぐ傍まで近寄ると、二匹のキュウコンは互いの首と肩に鼻を寄せ、匂いを嗅ぎ合うと鼻を鳴らす。そして二匹のキュウコンは何か伝え合う様な素振りを見せると、稍あってからのキュウコンがの元へと駆け寄った。あの一回り大きいキュウコンは地面に腰を下ろし、とキュウコンを静かに見つめている。

「あのキュウコンは、何て?」
「元気でいたのか、今は何をしているのか、などですよ」

 そうキュウコンが答えると、はへぇ、と相槌を打った。そして、キュウコンは更に言葉を続ける。

「少し、仲間達の元を訪ねてきても宜しいでしょうか」
「いいよ。折角此処に帰って来たんだから。話したいこともたくさんあるだろうし」

 の言葉にキュウコンは笑みを浮かべると、少し考える素振りを見せてから、九時にはの親戚の家へと戻ります、と告げ、少し離れた所で腰を下ろしていたキュウコンの元へと向かう。そして二匹のキュウコンは再度何かを伝え合うような仕種を見せ、並んで駆け出すと叢へと姿を消したのだった。



 キュウコンは九時には戻ると言ったが、九時になっても、日付が変わってもキュウコンは帰って来なかった。真夜中、キュウコンを心配したは縁側に座りながら、田舎だからこそ見える満天の星空を見上げていた。親戚達は寝静まり、しんとした空気の中でコロボーシ達の鈴の様な美しい鳴き声が、其処らから響いている。それにぼんやりとは耳を傾けていたが、不意にコロボーシ達の鳴き声が止むと、は空から視線を外して近くの叢へと向けた。

「……キュウコン?」

 叢から姿を現したのは、キュウコンだった。申し訳無さそうに眼を伏せて、の元へとキュウコンは歩み寄る。

「……心配したんだよ」
「申し訳ございません」

 縁側のすぐ傍の部屋はに用意された部屋だったので、声を潜めて喋るキュウコンの声は誰にも聞こえてはいないだろう。そしてはキュウコンの眼を見詰めると、一体どうしたのかと尋ねた。するとキュウコンは、仲間達に引き留められたのです、と、少し言い辛そうに笑った。

 何でも、キュウコンがとの約束通りの時間に帰ろうとした所、山で暮らす仲間のキュウコン達に引き留められたらしい。また人間の世界に行くのか、本当にあの人間と暮らすのか、今日は此の場所へと帰って来たのでは無いか、と。

「……それで?」
「私の生きる場所は、という人間の隣だけである、と、解って貰う為にこの様な時間にまで」

 約束を守れずにすみません、と謝るキュウコンに、の瞳が僅かに揺らいだ。

「もしかして、私の所為でキュウコンが悪く言われちゃったの?」

 そうが問うと、キュウコンはいいえ、と首を振った。

「彼等は野生に生きる身ですから、人間と暮らす私を心配してくれただけですよ。ですが、の事も話したら理解してくれました」

 それを聞いたは俯いて、己の膝を見詰める。知らず知らずのうちに、縁側についた手はきつく握り締められていた。そして少しの間を置いて、は口を開く。

「……キュウコンは、それで、いいの?」

 僅かに涙声になったが尋ねると、キュウコンは穏やかに笑った。月明かりで、キュウコンの毛並みが銀色に光っている。

「それで良いも何も、私はと一緒にいたいのです」

 ゾロアークに逢った時の事を覚えていらっしゃいますか、とキュウコンは口にする。が頷くとキュウコンは言葉を続けた。

「……あの時、私はと離れ離れにされるのはこれっきりでいいです、と言いました。それは今でも変わりません。と離れたく無いのです」

 ───は、もしかしたらキュウコンが仲間達と触れる事で、野生の世界へ戻りたくなったのでは無いのだろうかと考えていたのだ。しかしキュウコンはそれをきっぱりと否定した。は顔を上げるとキュウコンを見詰める。満天の星空の光が幾重にも入り込んだキュウコンの瞳は、美しい紺色に染まっていた。

「……私の傍にいてくれるんだよね?」
さえ宜しいのであれば、何時まででも」

 二年前のあの夏、と出逢い、仲間達との離別を決めた時から、私の心は変わりません、と、キュウコンは笑う。そして夜空の零れんばかりの美しい星の下、キュウコンはの唇に口付けを落としたのだった。