青々と繁る木々の葉が、先程まで降っていた雨によって艶やかに濡れている。時折柔らかな風が吹くと、ぱらぱらと音を立てて木の葉に乗っていた雨水が落ちた。庭に面する引き戸は開け放たれており、その開け放たれた引き戸のすぐ傍で床に伏せていたキュウコンは雨水の落ちる音にぴくりと耳を動かす。それから、木々へと向けていた視線を己の身体へと向けた。キュウコンの横腹を枕にするように、が眠っている。
「……」
静かな声色で、慈しむようにキュウコンがの名前を呼ぶ。するとは、ううん、と小さく声を漏らした。それからはゆっくりと重たそうに瞼を持ち上げたが、顔の傍にあったキュウコンの九つの尾のうちの一つを弱々しく掴むと、また寝息を立てる。そんなの顔を見て、何時もは大人びて見えるも、無防備な寝顔は幾分か幼く見えるものだとキュウコンは笑みを零した。そしてキュウコンはに捕まれている尾を除いた八本の尾をゆらゆらと波打つように揺らし、それからの身体にそっと乗せる。すると、キュウコンの柔らかな毛並みと心地好い温もりに、は気の抜けた表情を浮かべた。
「」
もう一度の名前をキュウコンは呼ぶ。しかしは静かな寝息を立てるだけで、先程の様に起きはしない。キュウコンは暫くの間の寝顔を見詰めていたが、軈てに誘われるように小さく欠伸を零すと、揃えて伸ばしていた前足に顎を乗せて眼を臥せた。涼やかで心地好い風がキュウコンとを撫でる。と同じ様にキュウコンが眠りに就くのに、そう時間は掛からなかった。
───眼を覚ますと、そこは見慣れた故郷の山の中だった。人里から離れた山の奥、私や仲間達が山の守り神と呼ぶ大木もそのままだ。思わず懐かしい、と眼を細めて大木を見上げていると、不意に声がした。
「おい、どうした」
声がした方へと振り返ると、そこにいたのは仲間のキュウコンだった。私がぼうっとしていたからだろう、訝し気に私を見詰めている。それに対し私は首を振ると、いえ、と呟いた。すると仲間のキュウコンは、そうか、と言った後に、私と同じ様にこの山の守り神である大木を見上げる。彼の額にある傷痕のその部分だけ色素の薄い毛が、守り神の大木の、重なって広がる木の葉の隙間から差し込んだ光で白く光った。この仲間のキュウコンは、私よりも遥かに長く生きている。私は二百、いや三百程の齢だが、彼は大凡六百にもなるかという所だ。彼の額の傷痕は、昔人間との争いによって付けられたものらしい。私は彼此人間というものを見たことが無かったので、彼が人間とどのような争いを起こし、あのような傷痕を残したのかは検討も付かない。
そこまで考えて、私はふと本当に「人間というものを見たことが無かった」のかが気になった。大切な何かを忘れているような、そんな気がしたのだ。
「眉間に皺を寄せて、どうした」
「考え事を、少し」
そう言ってから、私が先程感じた「人間というものを見たことが無かったかどうか」という疑問を口にすると、彼は首を捻った。
「お前は生まれてから一度もこの山を出たことが無いし、何よりこの山は近付くと狐に化かされると有名だからな。この辺りは疎か、麓にすら人間は近付かないぞ。……まあ、外部から来た人間はそれを知らんで来るかもしれんが、ここの所そのような人間もいない」
「ええ、ですよね。ですからどうしてそんな疑問を持ったのか不思議でして」
彼は困った様な笑みを浮かべると、不意に駆け出した。そして大木の木の葉の下から出ると、空を見上げる。私も彼の行動の意味を察すると、彼の隣へと移動した。全身の毛が自然と立つ。
「───雨、ですか」
「空は晴れているが、降りそうだ。」
「狐の嫁入り、ですね」
「ああ。……仲間も気付いてはいると思うが、念のために知らせておこう」
大人であるキュウコン達はただの雨程度の水は平気だが、春先に生まれたばかりのロコン達には例え雨と言えど、雨の程度によっては身体が弱ってしまうのだ。彼はくるりと向きを変えると、守り神である大木の向こうへと駆けてゆく。それから私はどうしたものかと考えていたが、不意に何かに呼ばれた様な気がした為、首を傾げると彼とは反対方向の、山の麓へと向かった。
麓へと向かう途中から、夏の風物詩の一つであるテッカニンの蝉時雨が騒がしく聞こえる様になった。それらを聞きながら自分の背丈程ある草の間を歩いていると、不意に何かの気配を感じ、足を止める。
この叢を抜けると、両脇から木々の葉の垂れる小道へと出る。最初はそこにオドシシでもいるのだろうかと考えたが、オドシシは群れで移動する為、それならば複数の気配を感じる筈だ。私が感じた気配は、一つだった。鼻で匂いを嗅ぎとってみるも、嗅いだことの無い匂いが僅かにするだけだ。そうしている間に、テッカニンの蝉時雨が止んだかと思うとついに雨が降り出した。しかし空は晴天、先程仲間のキュウコンと話した通りの狐の嫁入りというやつである。
ぱらぱらと軽く降り出した雨は、あっという間に勢いを増した。先程嗅いだ正体の分からない匂いは雨によって薄れていく。得体の知れない気配に関わらない方が良いかと判断した私は引き返そうかとしたが、もう一度小道のある方を見詰めた。───先程の「何かに呼ばれた様な気がした」ことを思い出したのだ。一体何が私を呼んだのか、いや、呼んですらいないかもしれない。そう思いながらも、意を決して私は叢を飛び出した。
叢を飛び出し、小道へと出ると辺りを見回す。すると、その先に見た事の無い生き物を見付けた。だが、仲間達に昔聞いた特徴からそれが人間であると気付くのにそう時間は掛からなかった。人間を興味深く見詰めていると、人間も私が叢から飛び出した時の音で此方に気が付いたのか振り返る。振り返った人間は、女の様だ。髪が風に揺れている。仲間によれば人間という生き物は恐ろしい生き物らしいが、この時私は不思議と恐ろしいとは思わなかった。
それ所か、この時私は初めて見た人間に眼を奪われていたのだ。私と同じく先程の雨に濡れたのだろう、風に揺れる度太陽の陽射しを受けて光る髪や、こちらをじっと見詰める瞳を美しいと思った。そうして彼女をじっと見詰めていると、彼女は驚いたことに此方へと向かって来たのだ。そこで私が腰を下ろすと、彼女は何かに気が付いた様だった。それに対し一体どうしたのだろうと考える間に彼女は私の前にしゃがみ込み、そして手に持っていたハンカチを私の頭にそっと当てる。それが何だか擽ったくて、私は思わず眼を細めると声を漏らした。
「炎タイプなのに、雨に濡れちゃって大変だね」
そう言って、私の雨に濡れた頭や頬を拭き終えると彼女は笑った。それから彼女は立ち上がる。そしてどうするのかと思いきや、彼女は私を暫し見詰めた後、小道へと背を向けて歩き出した。彼女が行ってしまうのは、当然のことだ。私は彼女の仲間では無いし、それ所か野生に生きる身である。だが、どうしてか私はそれが酷く残念に思えて仕方が無かった。思わず下ろしていた腰が上がる。その時、此方に背を向けていた彼女が振り返った。遠い彼女と眼が合う。彼女は此方を見ると、片手を振った。私の心が決まったのは、その時だ。再び彼女が前を向いたのを確認すると、弾かれた様に駆け出す。雨上がりの道は走り難いが、そんな事は気にならなかった。私の駆ける音に気が付いたらしく、彼女が振り返る。振り返った彼女は、驚いた顔をしていた。
「どうしたの」
彼女に問われ、私は口を開こうとした。キュウコンは何百年も生きる。その為自然と言の葉を操ることが出来るようになっても可笑しくは無い。だが、人間に逢うのが初めてだった私は、人間の遣う「言葉」を知らなかった。仲間のキュウコン達と交わす、言わばポケモン同士で通じる言葉しか知らなかったのだ。その為私は、心の中で彼女の問いに答える。
(───私を連れていってくれませんか)
彼女は私をじっと見詰めていたが、軈て困ったようにはにかんだ。
「……おいで」
彼女がそう言ってくれたのが嬉しくて、思わず喉を鳴らして歩き始めた彼女の隣を跳びはねる様に歩く。そして私は、仲間に別れを告げる遠吠えを上げたのだった。
「……キュウコン」
名前を呼ばれてキュウコンがはっと飛び起きると、そこは見慣れた故郷の山でも無く、あのテッカニンの蝉時雨の降る小道でも無く、良く知る庭に面した引き戸のすぐ傍だった。
「……?」
「ああ、やっと起きた。おはよう」
どうやら随分と長い事眠っていたらしい、と、キュウコンは空を見て思った。眠る前は青色だった空が、もう橙色に染まりかけている。
「大分長い間、眠ってしまった様ですね」
「凄く気持ち良さそうに寝てたよ」
が笑うと、キュウコンも笑った。
「結構長い間キュウコンの身体を枕にしちゃってたけど、痛くなってない?」
「ええ、大丈夫です」
座っていたキュウコンが腰を上げて伸びをすると、キュウコンの背をが撫でる。そうしては暫くキュウコンの身体を撫でていたが、ふと口を開いた。
「そういえば、寝ている時に夢を見たんだ」
「おや、どんな夢を見たんです?」
「えーっと、キュウコンと出逢った時の事だったかな。懐かしかったよ」
そう言うとキュウコンは驚いた表情を浮かべたので、思わずは首を傾げる。そんなを見て、キュウコンは直ぐに驚いた表情を笑顔に変え、奇遇ですね、と笑った。
「私も、丁度同じ夢を見たのです」
「本当に?」
「ええ」
は可笑しそうに笑うと、キュウコンの首に抱き着いた。キュウコンも抱き着いたの身体に自分の身体を擦り寄せる。
「二人揃って同じ夢を見たなんて凄いね」
キュウコンの頬を人差し指の先で擽るように撫でながらが言うと、キュウコンは眼を細めた。
「まあ、心が通じ合っていれば其れ位あるのかもしれませんね」
「ふふ、確かにそうかも」
そう笑った後、少しの間を置いてからは声を上げた。
「……あっ、買い物に行かないといけないんだった!」
食材の尽きそうな冷蔵庫を思い浮かべたのか、が溜め息を吐いた。
「それなら急いで行かないと」
「うん。すっかり忘れてた」
立ち上がったは買い物に行く支度をしてくる、と、慌てた様子でリビングの方へと向かった。キュウコンはそんな慌ただしいの様子につい、小さく笑う。それから、といると本当に退屈する事が無い、と、思いながら、一緒に買い物に行く為にの元へと向かったのだった。