初めてパルキアと出逢った日から数日後、大きめのリュックに荷物を詰めて、は再びテンガン山を訪れていた。

 あの日下山する際に通った道を、記憶を頼りに今度は逆に登る。その道は、パルキアが教えてくれたものだ。
 というのも、ゴローンの大移動というハプニングに巻き込まれてあの場所へ辿り着いたに帰り道が分かる訳もなく、どうしようもなくなった彼女はパルキアに恐る恐る尋ねたのである。ここから帰るにはどうしたらいいのか、と。
 それを聞いたパルキアは、ここにずっと居座られるよりはマシだと判断したのか――その真意は分からないが、面倒臭そうにしながらも、暗がりでが気付かなかった出口を指し示してくれた。そのお陰で漸く帰ることが出来たのだ。

 が曲がりくねったテンガン山の内部を歩いていると、遠くを数匹のズバットが飛んでゆくのが見えた。思わず足を止める。彼等はキイキイと声を上げてもつれ合うようにして飛んでいたが、やがて洞窟の奥に姿を消した。それから間もなく、今度は暗がりからドーミラーが現れて、くるくると回りながら彼女のすぐ傍を横切っていった。
 大自然の中で生き生きと活動する野生のポケモンたちの姿は、見ていて飽きることがない。それ故、そんな彼らの姿をできるだけ多く見ようと、の歩調はついゆっくりとしたものになる。

 コータスの歩みのような速度でテンガン山を歩いていただったが、前方に眩しい光が射していることに気が付くと、弾かれたように走り出した。
 走ったままの勢いで外へ出ると、外の眩しい光が洞窟内の薄暗さに慣れていた目を刺した。目を細めたは、一呼吸置いてから空を見上げた。この前とは違い、鮮やかな青が広がっている。雲ひとつ無い晴天だ。

 外の明るさに目が慣れると、空を見上げるのを止めて数段の石造りの階段を上る。階段の先は、この前パルキアと出逢った場所だ。

「わあ……」

 初めてここへ辿り着いた日は、夜が明けても心に余裕がなかった。
 だからこの場所の観察などとてもじゃなくてできなかったのだが、あの時とは違って穏やかな気持ちで明るい陽の光の下で辺りの様子を目にしたは感嘆を漏らす。
 石畳が敷き詰められた地面。周りを囲う、槍のように先が尖ったいくつもの柱。見たことのない、荘厳な空気が漂う神秘的な景色。先程上った階段と同じく白い石で造られた柱は、青い空によく映えて美しい。

 暫くの間は呆けたように立ち尽くしていたが、はっとすると柱で囲まれた場所の中央まで移動した。
 開けた場所の中央に立った彼女は深く息を吸い、周囲をゆっくりと見回す。彼女が探すのは、もちろんあの真珠のような美しい輝きを放っていたポケモン――パルキアだ。だが、いくら探してもその姿は見えなかった。

 この場所を訪れたら、もしかしたらまたパルキアに逢えるかもしれない。勝手ながらもそんな淡い期待を抱いていたは、思わず肩を落とす。
 しかしすぐにこの場所をじっくり散策するチャンスなのではと思い直すと、顔を上げた。一番近くにあった柱へ歩み寄り、リュックを下ろすとそこに触れる。それから、いくつもの柱が並ぶ様子から、「この場所には昔何か神殿のようなものがあったのだろうか」なんてことを考える。
 荘厳な空気も、神秘的な景色も、そうだったとしたらしっくりくる気がするのだ。

 あれこれ考えながら柱を見上げていると、不意に背後からバサバサと騒がしい音が聞こえたため彼女は振り返る。
 振り返った先にある柱の上には、一羽のムクホークが留まっていた。その姿を捉えたの目がまるくなる。テンガン山の頂上となるとかなりの標高だが、強靭な翼を持つムクホークならこのような場所にも難なく来られるのだろう。
 この場所に限らず、野生ではあまり見かけることのない姿をは物珍しげに観察する。ムクホークが、ふるりと翼を震わせた。


 羽休めを終えたムクホークが飛び去ってしまってから、どれ程の時間が過ぎただろう。

 の興味の対象は再びこの場所に移っていて、全部の柱はもちろん、この場所の最奥も余すところなく観察を終えた彼女は、腰を下ろすのに丁度良い岩の上に座っていた。
 その頃にはあんなに青かった空も暮れ始めており、遠くで紺色と橙色が混じり合って美しいグラデーションを作り出していた。そんな美しい空を眺めながらが思うのは、「なんて不思議な場所だろう」ということだ。まるで時間を操る神様でもいるかのように、ここにいると時間の経過が早く感じるのだ。

 そうしている間にも空は少しずつ夜の帳を下ろしてゆく。
 パルキアと逢えなかったことは残念だけれども、少し冷えてきたしそろそろ帰ろうかな。空に昇った月を眺めながらそう考えたは、この前は切らしてしまっていたあなぬけのヒモを取り出そうとした。正に、その時だ。

 例えて言うのなら、卵の殻にひびが入るような音だった。
 ぴし、とひとつ大きな音が、静寂に響いたのだ。聞き慣れない音に、挙動を止めたは目だけを動かして辺りの様子を伺う。しかし音の正体は掴めない。そうこうしている間にまたひとつ、それも先程よりも大きな音が響いて、いよいよは飛び上がった。慌てて近くの柱の陰に隠れると、音がした方向へ目を凝らす。
 すると驚くべきことに、開けた場所の奥の方、何もない空中に亀裂が入っていた。亀裂が宙に浮かんでいるようにしか見えないという、全くもって理解し難い光景にの眉間にしわが寄る。

「何あれ……」

 の見ている目の前で、まるで氷の張った湖がひび割れるように、空間の亀裂が広がっていく。それはみるみる内に広がって、やがてひびの中心に大きな穴が開いたかと思うと、何かが姿を現した。ずしん。重い音がすると同時に、地面からビリビリと振動が伝わった。
 頭上から降り注ぐ月明かりに淡く照らされた「何か」を目にしたは、ほんの数秒前には震えていたことも忘れて柱の陰から飛び出した。

「パルキア……!」

 その声に、空間の穴から現れたポケモン――パルキアは驚いたようだった。月明かりの下で美しい宝石のように輝く赤い双眼が、微かに見開かれる。だが、パルキアの表情の些細な変化にが気がつくことはなく、彼女は少し落ち着かない様子で口を開いた。

「ええっと、こんばんは」

 それ以上、言葉は続かなかった。
 あの日パルキアと別れた後も、ここに来るまでの間も、この場所で待つ間にも。パルキアと話したいことをあれこれと考えていたはずなのに、いざ彼を目の前にするとの頭の中は真っ白になってしまったのだ。
 何を言おうか、何を伝えようか考えて、思わず俯きがちになる。そんな彼女の様子を、パルキアは呆れたような色の瞳で見下ろしていた。

 数分後に漸く顔を上げたが発したのは、「あ」という、たった一声だった。
 とうに彼女へと視線を向けるのを止めていたパルキアが、再び目を向ける。の目は、彼女よりも遥かに大きなパルキアの、それよりもずっと高い位置に向けられていた。その視線を辿るように、パルキアも空を仰ぐ。

「……素敵。こんなにも綺麗な星空、見たことない」

 地上よりも遥かに高い山の上は空気が澄んでいるからだろう。ここから見える夜空はやけに美しかった。海の底のような濃紺に、眩い光の粒がふんだんに散りばめられている。
 の言葉は、パルキアに向けた言葉ではなかった。会話を試みたとかそういったものではなく、ただ満天の星空を眺めていたら、自然と口から漏れていたのだ。
 しかし意外だったのは、彼女の言葉に同意するかのようにパルキアが声を発したことだ。ぐるるう、と低い声が空気を震わせる。
 反応が返ってくるとは思わなかったは驚いて、夜空からパルキアへと視線を移すと数回瞬きを繰り返した。けれども、またすぐに夜空を見上げると、笑みを浮かべる。

「ずっと見ていたいくらい……」

 頭上で一際明るく瞬く星を見つめながら、は目を細める。 パルキアもまた、夜空を静かに眺めていた。



 それからというもの、は暇を見つけさえすればあの場所を訪れるようになっていた。

 テンガン山という場所が、ポケモンの力を借りても登ることが楽ではない場所でも。訪れる度にパルキアから呆れられようとも。それでもそこは、何度も通い詰めたくなる不思議な何かを持っていたのだ。
 後に分かったことだが、テンガン山の頂上の、石畳が敷き詰められて石柱が立ち並ぶあの場所はやりのはしらというらしい。
 また、どうやらパルキアは昼時にはやりのはしらにはおらず、辺りが薄暗くなってから姿を現すようだった。そのため、がやりのはしらを訪れるのは必然的に夕方頃になっていた。

 いつものようにやりのはしらを訪れたは、これもまたいつも通り、隅に横たわる石柱へ腰を下ろして夜空を眺めていた。
 やりのはしらの中央には、彼女がここへ来ることに驚くことも呆れることすらも止めたパルキアがいる。二人が眺める夜空は相も変わらず穏やかで、無数にきらめく星達はただひたすらに美しい。

「あの星は、なんて名前の星なんだろう」

 音ひとつない空気の中で、ふとはそんな言葉を口にした。彼女の言う「あの星」は、ふたりが初めて出逢った日にも遥か頭上で一際眩い光を放っていた星のことだ。
 ふたりがここで特に言葉を交わしたり、触れ合ったりなんて交流をすることもなく、ただ共に星を見るようになってからいくつかの季節が過ぎ去った。それでもその星は季節の流れと共に移ろうことなく、ほぼ同じ場所で光り輝いている。

 パルキアからの反応は特にない。
 けれど、そもそもは何か反応があると期待していた訳ではなかった。ただ、何の気なしにそう思い、気づいたら口からそのまま、言葉となって溢れていただけだ。なので、しんとした空気が辺りを包もうとも、気にはならなかった。

 それからどれ程の時間が過ぎた頃だろうか。随分と着込んで来たものの、それでも少し冷たい風に、がくしゅ、と鼻を鳴らした時だ。
 それまで何の反応も示さなかったパルキアが、夜空へ向けていた赤い目を彼女へと向けた。それに気が付いたもまた彼のことを見つめ返す。
 パルキアは何も言わず、太い尾をゆらりと揺らし――そして。自身の隣にちらりと視線を落とすと、ぐる、と短く鳴いたのだ。思わず彼女の目が丸くなる。

「……。……パルキア?」

 戸惑いながらもゆっくりと柱から腰を上げたは、一歩だけ足を踏み出した。
 宝石の如く輝く赤い目はもう元のように星空へ向けられていて、彼女がいくら困惑の色を滲ませた視線を投げ掛けても、そのふたつが交わることはなかった。

 立ち上がったはいいものの、ここからどうすべきかと悩んだ末にはパルキアに歩み寄った。赤い目は、未だ彼女を映さない。恐る恐る、もう一歩を踏み出す。真珠のように淡く薄紫に輝く体はもう目の前だ。
 パルキアの先程の行動を思い出しながら、何が正解なのかを考えてがとった行動。

「し、失礼します……」

 それは、パルキアが視線を落とした場所――つまり、彼の隣に腰を下ろすことだった。

 さっき、確かにここを見ていたよね? 違っていたらどうしよう。
 隣から放たれるプレッシャーで圧し潰されそうになりながら、ぐるぐると思考を巡らせるの横でパルキアは星を眺めたまま動かない。

 何とも言えない、長い沈黙の後。
 駄目だ。きっと彼が言いたかった、伝えようとしたことは違っていたのだ。そう考えたは立ち上がろうとして、止めた。パルキアの尾が僅かにしなり、隣に座る自分を囲うようにしていることに気が付いたからだ。

 ひゅう、とまた冷たい風が吹いて、は小さく「ああ」と声を漏らす。
 さっきよりもずっと、ずっと寒くなかった。パルキアの大きな体が、太い尾が、冷たい風を遮ってくれているからだ。その事実に気が付いて、の胸がじわじわと温まる。

 長いこと同じ時間を過ごしてきた。けれどそれは、お互いが歩み寄った結果ではない。ただ勝手に、がパルキアの近くにいただけだ。
 やりのはしらを訪れる度に「こんばんは」「またね」なんて一方的に声を掛けていたけれど、言葉を交わしたことなどなく。だからパルキアからの反応があるかもしれないと期待を抱くこともない。
 だって、それらは全て、自分が一方的にしていたことなのだから。彼にとって、自分がここにいようが、いまいがどうでもいいのだと思っていた。なのに。

「……ありがとう。次からはもっと暖かい恰好をして来なきゃだめだね」

 パルキアの横顔を見上げて、は下手くそな笑顔を浮かべる。
 美しい赤い瞳が、夜空を彩る眩い星が、滲んで見える夜だった。


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