たたん、たたん、という規則的なリズムに揺られながら、は窓の外をぼんやり眺めていた。車窓から見える景色に飽きることはない。けれど、それは別に楽しいと思えるものでもなかった。
 何故なら、見えるものといえば壁のようにそびえ立つ山ばかりなのだ。時刻は真夜中。冷たいガラスに頬を寄せて見上げることで漸く捉えられる夜空は、紺と黒を混ぜ合わせたような色をしていた。

 暫くすると、列車は山間から抜けたのだろう。景色は山続きだったものから一転、どこまでも広く続く海が見えるようになった。海は鏡で映したかのように暗い夜空と同じ色をしているが、丸い月の下、月明かりが散らばった海面だけは神秘的に輝いている。視界が一気に開けたことで、冷たい窓ガラスに頬を寄せずとも空に散らばる星が良く見えた。
 窓から頬を離したは、すっかり熱の奪われてしまったそこを何度か手のひらで擦ってから、再び窓に顔を近付けると夜空を覗き込んだ。
 瞬間、彼女は息を呑む。夜空に散らばる星の中で、一際美しく輝く星が目に入ったのだ。

 ――その星の名前を、は知らない。



 彼女はシンオウへ向かうための夜行列車に乗っていた。
 というのも、元々はシンオウに住んでいたのだが、色々な都合が重なってニ年程他の地方に移り住んでいたのだ。今日は約ニ年ぶりに、懐かしい故郷に帰る日だった。
 夜行列車に乗って、到着した駅から少し歩いて、船に乗って。そうすれば懐かしい故郷の地だ。

 車内の壁に掛けられた時計を確認したは、欠伸をひとつ漏らすと座席から立ち上がった。目的の駅に着くまではまだまだ時間があるので、一眠りしようと考えたのだ。乗客の疎らな車内の通路を、寝台のある部屋へと向かって歩いてゆく。
 部屋に辿り着き、寝台に寝そべると毛布を引き上げる。静かに目を閉じれば、列車の心地好い振動の助けもあって、すぐに眠ることができそうだった。

「――ぁ」

 瞼を閉じてから数分後、微睡んだは無意識にある名前を呟く。そのまま眠りに落ちた彼女は、自分が思わず「ある名前」を呟いたことに気付かなかった。

 夜行列車は、変わらず規則的なリズムを響かせシンオウを目指す。
 眠りに就いた彼女は、久しぶりの、それもひどく懐かしい夢を見た。


 ………



 二年前。はシンオウで暮らしていた際、仲の良い友人とテンガン山へと登ったことがあった。シンオウの中心に位置する霊峰で、珍しいポケモンを探そうと誘われたのだ。それに二つ返事で了承した彼女は、そこに生息する野生のポケモンの多様性に魅せられることとなる。

 テンガン山はシンオウの中心に位置するだけあって、様々な野生のポケモンが生息していたのだ。
 滅多に人前に姿を見せないというアブソルや、雪の降り積もる大地に生息するユキカブリ、小さなりゅうの子、ミニリュウ。それにハクリュー。星に乗ってやって来たと言われるピッピや、古代の道具に似ているらしいドーミラーなど、多種多様なポケモンは見ていて新鮮で、いくら眺めていても飽きなかった。
 それからも友人と何回かテンガン山を訪れたは、やがて、まとまった休暇を取ると一人でも登るようになった。珍しいポケモンを捕まえるだとかそういったことはなく、ただ、テンガン山が生み出す美しい風景をできるだけ見ていたかったのだ。
 そこに棲む様々なポケモン達の生き生きとした姿に、すっかり魅了されたのである。



 その日もは一人でテンガン山を訪れていた。
 いつの間にかすっかり慣れ親しんでしまった、いつも通りの道をゆったりと歩く。そうしてテンガン山の随分奥へと着いた時のことだった。
 どこか遠くで、地響きがしたのだ。唸るようなその音に、彼女はぴたりと足を止める。――戻るべきか、否か。答えを出すより先に、周りの景色が大きくぐらりと揺れた。

 辺りを見回すと、緩やかな坂のずっと奥からゴローンの大群が転がってくるのが見えた。
 どうやら彼等はこれから食事のようで、麓を目指しているらしい。は慌てて道の端の大きな岩の陰に隠れると、ゴローン達が通り過ぎるのを待った。
 ぐらぐらと洞窟全体が揺れ、同時に酷い轟音が響き、濛々と砂煙が立ち込める。堪らずが上げた悲鳴も、あっという間に掻き消された。

 しゃがみこんで、耳を塞いで、小さくなって。どれ程の間そうしていただろう。岩陰から立ち上がったは、目を丸くして言葉を失った。彼女がいた場所は開けた場所ではなく通路のような一本道だったのだが、なんと、来た道も進むはずの道も、天井が崩れて塞がっていたのだ。

「ど、どうしよう……」

 長いこと呆然としていたが、何とか絞り出せた言葉はその一言だけだった。
 生憎彼女が連れているポケモンは力に長けてはいないので、道を塞いでいる岩を退かすことはできそうにないだろう。そう、は閉じ込められてしまったのだ。

 とにかく、どうにかしないと。
 このままここで立ち尽くしても仕方がない。そう自身を奮い立たせたは、どこか通ることのできる隙間がないかを探すことにした。
 出口を求めて、限られた範囲内を注意深く歩き回る。すると、ある一箇所だけ僅かな隙間が空いていることに気がついた。細くか細いものではあったが、風が吹き込んでいたのだ。
 その周りの岩を両手でどかしていく。そうしてできたのは、ぎりぎりで人が一人通れそうな程僅かな隙間だった。

 この隙間はどこに続いているのだろうか。
 岩の隙間を見つめたは少し迷った素振りを見せたものの、意を決すると、狭く暗いそこを縫うように進み始めた。崩れた岩の間にできた細い道は、自分のよく知る道などではなく、どこに向かっているのかすらも分からない。それでも、あの場所に何もできずに閉じ込められているのは嫌だったのだ。



 ひどく長い時間が過ぎた。もしかしたらがそう感じただけで、実際はもっと短い時間だったかもしれない。
 その間は何度も不安に押しつぶされそうになりながら、懸命に歩みを進めた。

 ややあって、一際狭い岩の隙間を何とか潜り抜けようとした時だ。
 ぴたりと動きを止めたはハッと息を呑んだあと、口元に弧を描いた。前方から何かの光が差し込んでいるのが見えたのだ。

 がやっとの思いで岩の隙間から転げるように飛び出すと、そこは先程の岩の隙間という狭い場所を忘れさせる程に、大きく開けた場所だった。それも頭上に目を向ければ岩の天井など無くて、満天の星空が広がっていたのだ。

「わあ……!」

 体のあちこちが痛くて、くたくたになったことも、服が泥と埃塗れになってしまったことも忘れて、は星空を見上げる。
 都会では決して見られない、この大自然の中だからこそ見ることのできる幻想的な星の海は、手を伸ばせば届きそうだと錯覚する程に眩い。暫しの間、見つめているだけで吸い込まれそうな美しさには見惚れていた。

 不意にどこからか物音がしたのは、彼女が星空を見上げてから随分と時間が過ぎた頃だ。
 それは、ずしりと重い何かが動くような音だった。慌てて夜空から視線を外したは、その物音の正体を探るように辺りを見回した。

「あ……!」

 声を上げたは身体を強張らせると後退りをする。自分が立つ場所から数メートル先の暗がりに、誰のものかも分からない赤いふたつの目が、地上よりも大分高い位置で光っていることに気が付いたからだ。
 夜空の星とはまた違う輝きを持った瞳。それは鋭く、爛々と輝いていた。
 眼光の位置から「随分と大きいポケモン」と予想することしかできず、正体を掴めないが固まっていると、赤いふたつの眼が揺れた。目の前の「随分と大きいポケモン」が、一歩踏み出したからだ。

 ――暗がりからゆっくりと現れたのは、真珠のように淡く薄紫に輝く姿だった。

 テンガン山に生息するポケモン達は数多く見てきたが、今までに一度も見たことのない姿はの目を惹き付けて離さない。
 こんなポケモンが、このテンガン山にいるなんて。そう驚いたまま、目の前の大きな存在が放つプレッシャーをひしひしと肌で感じて動けずにいる彼女を余所に、巨大なポケモンは再び一歩を踏み出した。先程と同じ、ずしりと重い音が空気を震わせる。

 は唯一動かすことのできる目を大きく見開いて、初めて目にするポケモンの姿をその目に焼き付けた。
 瞬間、燃えるように赤い目がぎょろりと動き、彼女の喉がごくりと鳴った。――自分は一体どうなってしまうのだろう。そう思うと手足の先が震えて今すぐにでも倒れそうになる。

 しかし。そのポケモンはの心配を他所に、興味なさげに背を向けると夜空を見上げた。
 てっきり威嚇されたり、最悪の場合攻撃されて……なんてことを想像していた彼女は、ポケモンの予想外の行動に安堵すると同時にへたり込む。張り詰めていた緊張の糸が切れて、とてもじゃないが立っていられなかったのだ。

 震える体を落ちつかせるために深呼吸を繰り返した後、は声を振り絞った。

「あ、あの……!」

 静かな夜の空気に溶けてしまいそうな程の、小さな声。だが、情けなく弱弱しい声はポケモンにしっかりと届いていたようで、星空を見上げていた大きな体が微かに反応を示す。

「追い出したり、しないの……?」

 それはこの不思議な場所がこのポケモンの棲み処であり、縄張りであるのならそうするのが当然だろう、そう思っての言葉だった。
 もしもそうならばすぐにでもこの場所を立ち去るべきなのだろうが、生憎は立ち上がることができそうにない。深呼吸を繰り返しても変わらず胸は早鐘を打ち、未だに足が震えて思うように力が入らず、立ち上がれないのだ。

 ポケモンが振り返り、に視線を落とす。相も変わらず爛々と煌めく赤い瞳の持ち主は、彼女が腰を抜かしてしまって立つことが出来ないことに気が付くと、ふん、と鼻で笑った。嘲笑されたことだけは理解できたの口から、「はは……」と乾いた声が漏れた。地面にへたり込んで震える姿は、自分からしても間抜けだなと思ったのだ。

「……ありがとう」

 追い出さないでくれて。
 再び背を向けて星を眺めたポケモンに、は俯いたまま告げる。ポケモンは視線を頭上に向けたまま、再び鼻で笑ったようだった。



 がへたり込んでいるからか、はたまた敵意はないことが分かっているからか、大きなポケモンはいくら時間が流れても彼女に向かって「何も」しなかった。
 出ていけと威嚇する素振りも、追い出そうと攻撃することも、そこにいるだけで邪魔だと邪険にすることない。ほんのひとかけらの興味を持つ素振りすらなく、ただ静かに星を見つめているだけだ。

 その様子を眺め始めてから暫くした頃、は漸く立ち上がることができた。とは言っても、足はまだ僅かに震えている。ふらつきながら、全身の砂を払う。ここに辿り着くまでに無理をしたからか、長いこと同じ姿勢でへたり込んでいたからか、体中が痛かった。
 それでもは、恐る恐るポケモンへと向かって足を踏み出した。
 ――きっとこの場所から立ち去るべきなのだろう。と、彼女は思った。けれども、この美しい宝石を散りばめたような夜空を、目の前に立つ見たことのない神秘的な存在を、どうしても、あと一秒だけでも長く見ていたいと思ってしまったのだ。

 彼女が更に近付こうとも、ポケモンは微動だにしなかった。
 先程の腰を抜かして震えていた様子から、敵ではないと判断してくれたのかもしれない。
 そんな都合のいいことを考えるのすぐ近くで、太い尻尾がゆらりと揺れている。間違っても尾に触れてしまわないように気を付けながら、ポケモンの背後から横へ移動したは、目の前の巨体を見上げた。

 夜空を背景に淡く輝く体は圧倒的な存在感を放ち、間近で見るとより一層神秘的に思えた。そんなポケモンの横顔を眺め、がっしりとした体、翼、そして肩を観察したは、思わず「あっ」と声を上げる。
 以前に一度だけシンオウ神話という本を読んだことがあるのだが、その時「肩に真珠のような装飾を持ち、空間を司るポケモンがいる」という頁を目にしたことを思い出したのだ。肩に真珠のような装飾があるという特徴は、今まさに目の前に立つポケモンの特徴と一致していた。

 が突然声を上げたからか、ポケモンは眉間にしわを寄せて彼女へと赤い瞳を向ける。僅かな光の下でも輝く目をは見つめ返しながら、先程の恐怖や驚きとは違う、まるで難しいクイズの答え合わせでもするような気持ちで口を開いた。

「あなたは、もしかして……。……パルキア?」

 するとポケモンはどこか面倒くさそうにしながらも、「それがどうした」とでも言うかのように、静寂の中よく響く低い声で短く反応を示した。
 反応を示したこと。それを肯定の意として受け取ったは、とんでもないポケモンに遭遇してしまったと思うと同時に、このポケモン――パルキアのことをもっと知ってみたいと思ってしまった。まるで深い水の底にゆっくりと沈んでいくような、見えない何かに引き込まれてしまうような感覚が彼女を支配する。

 心を高鳴らせながら、は口を開く。

「誰かに、ここであなたと出逢ったことは絶対……絶対に、言ったりしないから」

 射るような視線が、を貫いた。

「だから、その……。……また、ここに来ても良いかな……」

 テンガン山という神秘に満ちた霊峰を彼女が度々訪れる理由。それはポケモンを捕まえたいからでは無く、ただ純粋に、もっと様々なポケモンの姿を見たい、知りたい、そう思っていたからだ。
 だが今は、今までに見てきたどんなポケモンたちよりも、目の前にいるパルキアのことをもっとよく知ってみたいと思えてならなかった。

 彼は今度こそ追い出そうとするだろうか。もうここに来るなと威嚇するだろうか。そう考えながら、は祈るような気持ちでパルキアのことを見つめる。

 随分と長い時間を置いてパルキアが見せた反応は、意外なものだった。特に否定をする素振りも見せず、鼻で笑ったのだ。それは、「勝手にしろ」「どうでもいい」そう吐き捨てたように見えた。
 だから。も勝手にまたここへ来ることを決めると、パルキアから少し離れた場所で夜を明かし、それから何とか元来た道とは違う道から下山したのである。


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