やりのはしらで夜空を眺めて過ごす時。今までずっと、はこの広い空間の隅で朽ち果ててしまった柱に座っていた。
だが、二人並んで星を見たあの日以来、彼女の定位置は変わった。パルキアの体に触れはしないものの、ほんの数十センチの隙間を空け、並んで座るようになったのだ。
彼女が隣に座ろうが、パルキアは嫌がったり、煩わしそうにする素振りを見せなかった。彼女にほんの僅かな視線を投げかけることすらない。
それは端から見れば今まで通り、パルキアにとっては隣に誰がいようがいなかろうが関係ない、どうでもいいことなのだと感じさせるような光景だ。だが、滑らかに星の光を照り返す尻尾は、を囲むように緩やかに弧を描き、吹き付ける夜風の冷たさを和らげている。
ふと、は星空に向けていた視線を、自身をぐるりと囲う尾の先に落とした。続いて尾の持ち主の輪郭をなぞるように、背から肩、そこから翼、最後に顔へと移動させる。
夜空の星もさることながら、すぐ隣で悠然と立つ姿は美しい。星屑のベールを纏ったように体躯は淡く煌めいて、けれどその光が星の瞬きの邪魔をすることはなく。たまらずがほう、と感嘆すると、パルキアがゆっくりとした動作で振り返った。
「……ううん、何でもないの」
薄紫の体から、夜空へ。視線を逸らして「綺麗だね」と呟く。
パルキアはが頭上に煌めく星の話をしているのだと思ったのだろう。夜の空気に溶けてしまいそうなほどの微かな声で、同意するかのように鳴いた。
──二人が並んで星を眺めるようになったこと以外に、変化がもう一つ。
そう、パルキアが前よりも少しだけ多く、の言葉に反応を示すようになった。
例えば、彼女がやりのはしらを訪れる度に口にする「こんにちは」や、去る時の「またね」という挨拶。以前は全くの無反応か、反応があったとしても、ちらりと視線を寄越す程度だった。
それが今では「また来たのか」とでも言いたげな顔をして、鳴いて応えるのである。
耳を澄ましていなければ聞き落としてしまいそうな程の微かな声だが、そこに嫌悪や拒絶といったものは感じられない──と、それはの勝手な想像だが、パルキアが彼女の挨拶に応えるのは確かだった。
また、挨拶の他にもが話し掛けると、頷いたり、溜め息をついたりと、出逢った頃よりもずっとたくさんの顔を見せるようになっていた。
「あっ、流れ星!」
白い光の尾を引いて、星が一つ落ちた。流星が消えた紺碧の空を指し、はパルキアの横顔を見上げる。
「ねえ、今の見た!?」
やりのはしら一帯を満たす静寂を壊してしまわないよう、彼女の声はいつも小さい。しかし流れ星を見た興奮からか、普段よりも少しばかり大きな声に、パルキアは目を丸くしながら頷いた。
「願い事をすればよかったなあ」
星のようにキラキラと輝く瞳を夜空へ戻したが、膝を抱えて呟く。続けて、びっくりしてそれどころじゃなかったけれど、とも。
──流れ星が消える前にね、願いを三回唱えると、その願いは叶うんだって。
いつだったか、今と同じように二人で星を眺めていた時、が口にした言葉をパルキアは思い出す。
星の流れる速度を考えれば、それは到底無理な話で、パルキアが思わず鼻で笑うと、は呆れたような表情を浮かべた。
「そんなの無理だって思ってるでしょ」
否定することもなく素直にパルキアが頷くと、はもう、と口を尖らせた。
「夢がないなあー。……いや、分かるけれどね。私だってそんなの無理だろうなって思うもの」
でもね、だからこそ。
夜空を仰ぎ、眩しそうに目を細め、口元にうっすらと笑みを浮かべて彼女は続ける。
そんな不可能だって思うようなことを、もしも可能に出来たのなら、願いを叶えることだって不可能じゃないかもしれないでしょう?と。
どうだろうな、とパルキアが僅かに肩を竦めて喉を鳴らすと、先程よりもほんの少し大きく、けれど不機嫌ではない声色の「もう!」が響いたのだった。
そんな懐かしい記憶をなぞりながら、「願い事」という言葉がどうしてか気になったパルキアは、空を眺めるの顔を盗み見る。やわらかな星明かりに照らされた彼女の表情は、何処と無く物悲しそうなものだった。
何かあったのだろうかと僅かに気にはなったものの、自分には関係のないことであるし、何となく触れない方が良さそうだと結論付けて、パルキアは視線をまた夜空に投げかける。
その横で、小さな溜め息がひとつこぼれ落ちるのを聞いた。
季節がまた一つ二つと巡るに連れて、がやりのはしらを訪れる頻度が少しずつ減っていることに、パルキアは随分と前から気が付いていた。
けれどそれはパルキアにとって別にどうでもいいことで、彼女に尋ねようとも思わないし、仮に尋ねるにしても、人とポケモンという種族の壁を越えられる言葉を持ち合わせてはいない。
だが、日に日に色濃くなってゆくの目の下の隈は、さすがのパルキアも気になった。
夜風が「寒い」から「少し涼しい」と感じられる季節になったというのに、の周りで弧を描く癖のついてしまった尾をゆらゆらとしならせると、パルキアは彼女に紅い眼を向けて、ぐるるうと喉を震わせた。
パルキアからに声を掛けるのは、これが初めてのことだ。
思いもよらない出来事に目を丸くしたが、弾かれたようにパルキアを見上げた。
「パルキア……?」
首を傾げるを見下ろしながら、パルキアは思考する。その顔色は何だ、と問いたいが、どう伝えればいいのかが分からない。ひとまず右手で自分の右の目元を指差してみると、彼女は眉根を寄せた。
「えっと……パルキアの目が、どうかした?」
こういう時、言葉が通じないということは不便だと内心舌打ちをしながら、パルキアは巨体をゆっくりと屈めて手を伸ばす。驚愕の表情を浮かべて固まるの左の目元に、硬い爪が僅かに触れた。
「わわっ」
左瞼だけを閉じたが声を上げる。──気を付けないと、うっかり皮膚を裂いてしまいそうだ。そんなことを考えながら、パルキアはそこをちょん、ちょん、とゆっくり二度程つついた。
固まること数十秒、はっとした様子では口を開いた。
「……あー、うん。ええと……これね」
硬い爪でつつかれた所を擦りながら、どこか疲れを隠しきれない顔色では苦笑する。パルキアが頷くと、彼女は言葉を続けた。
「……ひどい隈だよね。ここ最近、仕事が忙しくて。完全に睡眠不足」
の深い溜め息が、夜のしじまに溶けていく。
「……本当はもっとここに来たいのに。どんどん時間がなくなっていくの」
いつぞやの、流れ星を見たあの日を思い起こさせるような表情でが呟く。けれどすぐに明るい表情を浮かべると、「パルキアは心配してくれたんだよね?」と笑った。
別に、そういう訳じゃない。とパルキアは思った。しかしの顔色が気になったことは事実で、それを認めてしまうと、何だかむず痒いような気持ちになってしまう。
パルキアが眉間に皺を寄せ、ぐう、と不機嫌そうな声を漏らすと、は今日一番の嬉しそうな声で言った。
「ありがとう。心配してくれたことは勿論、パルキアから話し掛けてくれて嬉しかったよ」
また一つの季節が巡った頃。
その日、はいつもと変わらずパルキアの隣に座っていた。パルキアの尾も当たり前のようにくるりと弧を描いていて、「いつも」と違うことを一つ挙げるならば、まだ空には煌めく宝石のような星たちの姿はなく、そこが明るい水色に染まっているということだ。
普段、パルキアは空間を行き来できる力を使い、ここではない場所──どこか別の空間に身を潜めている。そして夜のとばりが落ちるとそこからやりのはしらへと姿を現すのだ。
しかし、今日は珍しくも真っ昼間から人の気配を感じた上、それがよく知ったものだった。だから、パルキアは「こんな時間からここを訪れるなんて、一体どうしたというのか」などと考えながら姿を現した。この前のように彼女に心配をしたと思われるのは癪だったが、それよりも純粋に興味が勝ったのである。
ところがはいつも通り「パルキア、こんにちは」と挨拶をすると、自身のことを訝しそうに見下ろすの視線を他所に、薄紫色の足元に腰を下ろした。パルキアが少し拍子抜けした様子でを見つめるも、彼女はそよぐ風の心地よさに目を閉じている。
「……私ね。あと数日でシンオウを離れるんだ」
の様子を伺うのを止めて、空高く飛んでいたムクホークを見送り、随分と時間が過ぎた頃。西の空には太陽が傾き初めていた。橙色に染まる空に、ぼんやりとした様子で視線を投げ掛けていた彼女が不意に呟く。
珍しく早い時間からここに来たのには、何かしら訳があるのだろうと思っていた。だから突然のその言葉にも、パルキアは驚かなかった。
別に、だからどうしたという話だ。ただ、偶然同じ時間を過ごすようになった一人の人間が、ここからいなくなるだけのことである。
ぐるる、と相槌の代わりに響く短い鳴き声。それはやはりいつも通り何一つ変わらないもので、もまたいつものように微笑むと、ここ最近のことを話し始めた。
仕事がどんどん忙しくなり、その分精一杯頑張ったこと。努力が認められて大きなプロジェクトを任されるようになったこと。結果、シンオウを離れ遠い土地に行かなければならなくなったこと。
仕事のことなど話しても、パルキアにはきっと分からないだろうし、そもそも興味もないだろうということを、は理解していた。それでも話すのを止めないのは、ただ、聞いてほしかったからだ。
「……シンオウを離れるの、すごく寂しい」
話の最後で、そう小さく溢したを、パルキアは見つめる。その視線を受け止めながら、戻って来られないって訳じゃないんだけどね? と、おどけたように肩を竦めるの目元には、涙が滲んでいた。地平の彼方に今にも沈んでしまいそうな太陽の、僅かな光が彼女の目元できらりと輝いて散る。
「二年は確実に戻って来られないの。もしかしたら、もっと長い時間。……でも。でもね。挫けそうになったらあの星を見上げて、テンガン山で、パルキアと過ごした時間を思い出すから」
自分に言い聞かせるように語りながら、立ち上がったが目元の涙を拭う。
「きっと、大丈夫だと思う」
完全に日が落ちて空が夜の色へと染まると、さあ出番だと言うかの如く、夜空で順々に星たちがその存在を主張していく。
「あの星を、また、パルキアと一緒に見られますように」
一等明るい星を指差して、不意にが口にした言葉。それを耳にしながらパルキアも空を仰ぐ。
あの星──北の空に浮かぶ、一年中の殆どで見ることのできる星。二人が過ごした時間の中、いつだってそこにあった瞬きをその眼に捉えながら、パルキアはひっそりと笑った。
生憎星は流れていなかったが、今、口にした願いならまあ、叶いそうだな、と。
何故なら、並んで星を眺めたり、言葉を交わしたり、いつもと違う様子を見せれば多少の心配をするくらいには、に心を許しているのだから。
引き留めることはしない。別れを惜しむようなこともない。だが、もし彼女がまたここに戻ってきたその時は、「いつも通り」出迎えようじゃないか。
そんなパルキアの思いをが知る由もなく。
「……あれ。パルキア、笑ってる?」
さあな。そう言うようにパルキアがハッ、と息を吐くと、彼女は不思議そうに何度か瞬きを繰り返した後、口元を緩めた。
がシンオウからいなくなったのは、それから数日後のことだった。