「……そろそろ、波止場に向かわないとね」
何せ一ヶ月にたった一本の船なのだ。その船を逃したら、次に船が来るのはまた一ヶ月後になってしまう。そのことをから聞いたダークライは頷くと、優しく彼女の手を取る。二人は顔を見合わせると、歩き出した。
がここ、しんげつ島に着いた時よりも太陽は高い位置にある。だというのにしんげつ島の内部は幾重にも重なる木々の葉のせいで薄暗く、視界は悪い。それでもダークライにとってしんげつ島は言うなれば庭のようなもので、その視界の悪さが障害になることはなかった。少しも迷わずに、の手を引いて森の中を進んでいく。
そうして数十分も歩いていればあっという間に森を抜け、波止場に辿り着くことが出来た。眼は薄暗さに慣れていたために太陽の陽射しが眩しく、ダークライとは二人揃って空いている方の手で陽射しを遮る。
「そういえば」
片手で陽射しを遮ったままダークライが切り出す。するとが、眩しそうに細めた目を向ける。向けられたその目を見つめ返しながら、ダークライは気になっていたことを尋ねた。
「キヅカとは……」
キヅカには、あの丘の上でと一緒にいたのを見られてしまったことを思い出したのだ。そして「ダークライ」という存在に怯えていた彼女とが、あの後どうなったのか。そのことがダークライはずっと気掛かりだったのだ。
「キヅカ?キヅカとは、別に今まで通りだよ」
はそう言って柔らかく微笑むと、「それに」と続けた。
「私が今日、しんげつ島に行くっていうのも知ってるよ。朝も見送りに来てくれたんだ」
その言葉に、ダークライは思わず眼を丸くした。自身のことを恐れていた彼女は、友人であるがしんげつ島へ行くなんて言ったら止めると思うが……。そう思ったのが伝わったのか、は口を開く。
「キヅカには、ダークライとのことを全部話したんだ。あの時あなたが私を庇って嘘をついたんだってことは分かったし、もしかしたらそれを無駄にしてしまうんじゃないかって悩んだけれど、キヅカは大切な友達だから……だからこそ、ダークライの本当のことを知ってほしいなって思って」
彼女の静かな声に重なるように、波が岸に寄せては返す。ざんざんと音を立てて、白い水飛沫が上がる。繰り返されるその光景を見ながら、ダークライはの手を強く握った。
「……それなら良かった」
と離れていた間、「もしも自分のせいでが大切な友人を失ってしまっていたら」ということを気にしていたダークライは、ほっと胸を撫で下ろす。
それから二人は船が来るまでの間、まるで離れていた時間を埋めるかのようにずっと話し続けた。離れていた間にあったことや、これからのこと。それらの話が終わったのは、大分時間が経ち、しんげつ島の沖に船が見えた頃だった。
ダークライはと繋いでいた手を放すとその場から少し離れ、島の地面に落ちる木々の影の一つに溶け込んだ。そして顔だけを覗かせると、しんげつ島へと少しずつ近付く船を見つめた。
「私は見つかる訳にはいかないからな……。船が来て出航するまでは、姿を隠しておく」
「うん、分かった」
そう言葉を交わしている間にも船はぐんぐん近付き、数分もするとしんげつ島の波止場に停まった。白い船体が陽射しを受けてきらりと輝く。その眩しさにが思わず目を瞑っていると、波止場へと降りた船乗りは彼女に声を掛けた。
「しんげつ島はどうだったんだ?何もいなかっただろう」
「はい。残念ながら」
が肩を竦めて見せると、船乗りはだよなあ、と笑った。それからすぐに彼女から船へと視線を移すと声を上げた。
「よし、すぐに出発するぞ!さあ乗った乗った!」
船乗りは僅かに顔をしかめて鬱蒼と茂る木々を見上げた後、足早に船に乗り込んだ。その後をも追う。ダークライは木の影からこっそりと顔を出すと、一度だけしんげつ島を振り返った。しかしすぐに再び影のように姿を変えると、地面を滑るようにしての元に向かう。船が出航したのは、その直後のことだった。
船の後部で手摺に寄り掛かるの隣にダークライが姿を現すと、彼女は微笑んだ。ダークライも釣られたように眼を細める。二人の背後で少しずつしんげつ島が遠ざかってゆき、しんげつ島を包むように茂り、その内部に暗い影を落としていた木々の葉が大きくざわめく。それはまるでこの船を、旅立つ島の主を見送るかのようだった。
波を立てて、船は青い海を進んでいく。二人はただ、段々と小さくなるしんげつ島を見つめていた。
「もうあんなに新月島が遠くなっちゃった」
「……そうだな」
ダークライはの声を聞きながら、その言葉通り地平線の彼方に消えようとする「自分の居場所だった」そこを見つめていた。
悪夢を見せてしまうのが恐ろしくて、何より誰かに嫌われてしまうのが、疎まれるのが恐ろしかった自分を隠していた場所。薄暗いそこは自分以外誰もいなくて、居心地のいい場所だった。けれど、今は。
「やっぱり棲み処を離れるのは、名残惜しい?」
しんげつ島のある方をじっと見つめていたからか、手摺に肘を乗せて頬杖をついたがそう尋ねた。
「いいや」
ダークライは即答する。名残惜しいとは微塵も思わなかった。何故なら、今はしんげつ島よりも温かで居心地のいい、新しい居場所をがくれたのだから。
「そっか」
潮風に靡く髪を押さえながら、再び地平線の彼方に目を向けてが笑う。
しんげつ島はもう、見えなくなっていた。
船の前方にミオの街が見えたのは、太陽が地平線の彼方に殆ど沈んでしまった頃だった。もうすぐだね。手摺から少しだけ身を乗り出して、船の進行方向を眺めながらが言う。ダークライは相槌を打つと、同じようにミオの街を見つめた。
に逢う前は滅多に訪れることのなかった街であり、彼女に逢ってからは度々訪れるようになったその場所は、眼にすると懐かしいような気持ちが湧き上がる。
「先に私は船を離れて、あの丘に向かうとしよう」
海の上では身を隠すことのできるものがないので、このまま船にいる訳にはいかない。ダークライがそう告げると、は頷いた後に「またあとでね」と微笑んだ。その表情を見て、ダークライは昔が「また来てね」と言って笑った顔を思い出した。
「また、あとでな」
ふ、と柔らかく笑い、浅葱色の眼を細めてダークライもそう告げる。そしてあっという間に船の進行方向とは反対に離れると、大きく旋回するように人気のない海岸の方へと向かった。
▽△▽
太陽はもう地平線の向こうへと沈んでいた。それはダークライにとって好都合で、人気のない海岸に誰にも見つからずに辿り着くことは容易いものだった。それでも辺りの様子を注意深く窺うと、地面に沈むように音もなく姿を消す。それから海岸沿いの道を泳ぐように移動して、暫く進んだところでひっそりと静まり返る林を抜けた。林の先にある丘を上れば、そこには最後に見た時から変わらない、やはり少し寂れた小さな家があった。
家の前に辿り着いたダークライが地面から姿を現すと、ふわりと風が舞って細かな草が散る。ダークライはすっかり夜の帳を下ろした空に眼を向けると、のことを待った。
ダークライがこの丘の家に向かってくる気配を感じ取ったのは、星を眺め始めてから数十分が経った頃だった。頭上に向けていた視線を、気配を感じた方へと移す。か。そう思ったダークライだったが、この場所へと向かってくる気配が一つではないことに気が付くと、地面へと姿を消して家から距離を取った。
少しの間を置いて地面から僅かに顔を出すと、疎らに生える木々の間から眩い光がちらちらと見えた。その光には、見覚えがある。の友人、キヅカのコリンクのものだ。どうしたものかと考えて、ひとまずダークライは姿を消したまま、少しずつ近付いてくる光を見つめる。すると予想通り、とキヅカ、コリンクが並んで歩いてくるのが見えた。そして家の前までやってきた三人の足が止まる。
がしんげつ島に行くということを聞いたキヅカは、帰りの船を迎えに行ったのだろうな。そうダークライが考えていると、が不安そうな顔で辺りを見回しながら口を開いた。
「ダークライ、いる……?」
ダークライはどうすべきか悩んだが、がキヅカ達の前で当然のように自分の名を口にしたことと、しんげつ島で「キヅカには本当のことを話した」と言っていたことを思い出すと、静かにその場に姿を現した。
「ダークライ!」
その姿を目にするや否や、が安堵した表情を浮かべて駆け寄ってくる。待たせちゃってごめんね。そう小声で言いながら彼女はダークライの隣に並ぶと、驚きに目を見開いて固まっているキヅカとコリンクに向き直った。
「キヅカ、コリンク。ええと……改めて紹介するね。私の友達の、ダークライだよ」
ダークライはの紹介に合わせて軽い会釈をしてみる。しかしキヅカとコリンクは固まったままだ。これは自分も何か言った方がいいのだろうか?とダークライがに眼を向けると、彼女が何かを言うよりも先にキヅカが勢いよく頭を下げた。
「そのっ……!ごめんなさい!」
唐突な謝罪にダークライは眼を丸くする。それから困惑した様子でキヅカと、同じように頭を垂れたコリンクを見遣った。すると、キヅカが頭を下げたまま言葉を発する。
「あなたが……私の友達のことを何度も助けてくれていたなんて知らなくて……あの日、申し訳ないことをしてしまった」
コリンクも落ち込んだ様子でくうんと鼻を鳴らす。まさか謝罪をされるとは思ってもいなかったダークライは、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。しかしいつまでも顔を上げようとしない二人に、ふうと息を吐くと口を開いた。
「いいんだ。気にしていない」
ダークライの言葉に、キヅカが勢いよく顔を上げる。その表情は苦しそうで、泣きそうにも見えた。
「でも……!」
「それに、から聞いた」
キヅカの言おうとした言葉を遮って、ダークライは喋る。
「の元に落としたみかづきの羽を届けたり、私の棲み処を調べるのを手伝ってくれたのだろう」
彼女に本当のことを打ち明けることも出来たし、こうして再び一緒にいられるのだから、それでいいんだ。そうダークライが笑うと、キヅカはまだ何かを言おうとたが、それを飲み込むと泣きそうな顔のまま「ありがとう」と微笑んだ。そしてコリンクを抱き上げると、ほっとした様子で肩の力を抜いて水色の体を抱き締める。
ダークライがとキヅカの仲を引き裂いてしまったのでは、と思っていたように、キヅカもまた、ずっと気にしていたのだ。あの時自分がもう少し遅く来ていれば、とダークライの両方から大切な友人を奪ってしまうことにはならなかったのではないかと。
「本当に、ありがとう……。二人がまた逢えて、よかった……」
震えるキヅカの言葉をさらっていくように、丘の上を夜風が吹き抜けていく。それはとても穏やかで、優しいものだった。