しんげつ島には、まるで何かを外界から隠すかのようにいつになく濃い霧が立ち込めていた。元より生い茂る木々のせいで暗いその内部はいつにも増して視界が悪く、昼時だということが言われなければ分からない程だ。

 そんな島の最奥を漂う空気は鉛のように重く、ずっとそこにいたら気が滅入りそうな場所に、ダークライは静かに佇んでいた。


 ダークライは少し前に何者かがこのしんげつ島へとやって来たことに、とうに気がついていた。
 以前ならば、気配を察すると同時に誰にも見つからないよう足早に島を出ていたが、今はそんな気力もなく、ただこうして動かずにいる。何より島を一度出てしまえば、無意識の内にあの寂れた丘へ向かってしまいそうなのが恐ろしかったのだ。

 ──どうでもいいな。誰が来ようと、どんな人間がやって来たとしても、どうでもいい。

 この視界の悪い中、何者かの気配はゆっくりとした歩みで島の最奥に近づいて来ているようだが、ダークライはそんなことをぼんやりと考えていた。例え本当の姿を偽っていたからだとしても、たった一つのかけがえの無い存在を失ったという事実は、彼の心に闇のように深く大きな穴を開けてしまったのだ。

 ダークライは辺りを覆う空気と同じく重い溜め息を吐き出すと、そっと眼を閉じる。
 眼を閉じた時に瞼の裏に蘇るのは、もう二度と見ることのないの笑顔だ。しかし、その顔は決まってすぐに怯えたような表情へと変わってしまう。を眠らせるために手をかざした時の、彼女が初めて見せたあの表情。それを思い出したダークライは、慌てて眼を見開く。そして辛いその記憶を振り払うように、ふるりと首を振った。

 そうしている間にも、何者かの気配は確実に島の最奥へと近付いて来ていた。
 ──もういっそのこと、この島に来た人間がどんな人間なのかを見てやろうか。投げやりな気持ちでそう思いながら、ダークライは未だ動こうとせず、何もない地面に視線を落としていた。


 それからどれ程の時間が過ぎたのだろうか。やがて地面を覆うように落ちている小枝や枯れ葉を踏み締める音が聞こえてきたかと思うと、晴れることのない深い霧の向こうに誰かが立った。

 長いこと地面を見つめていたダークライが漸く顔を上げたのは、その時だった。視界の端でちらりと淡い光が揺れたように見えて、更に何故だかそれには見覚えのあるような気がしたのだ。
 顔を上げると、その何か柔らかな光が霧を淡く照らしているのが見えた。それでもここへ来た何者かの姿は、はっきりと見えない。

 ダークライは相手の動向を探るように、霧の向こうに鋭い眼差しを向ける。
 そして。


「……そこに、いるの?」

 霧の向こう、淡い光の元から聞こえたそれは、最早懐かしさすら感じる声だった。忘れもしない声であり、もう一度聞くことが出来たらと願っていた声。それを耳にしたダークライは浅葱色の眼を見開いて、はっと息を飲んだ。心臓が早鐘を打ち、体は一気に熱を持つ。

 彼女がここにいるなんて、信じられない。きっとこれは、夢だ。ダークライはそう思ったが、霧の向こうからはその考えを否定するように、ねえ、とどこか自信無さげな、けれどやはり懐かしい呼び声が響いた。

 ダークライは顔を苦しそうに歪めると、霧の中、淡く光るその場所を睨み付ける。そして重い口を開いた。

「……どうしてここに来た?」

 言葉を発するのはとても久しぶりのことで、からからに乾いた口から出た言葉は掠れていた。

「……また、騙されに来たのか」

 動揺を悟られないように、ダークライは先程よりも鋭い語気で言い放つ。本当なら、すぐにでもあの光の元へと飛び出してしまいたかった。それでもぐっと堪えて、本当の気持ちを押し殺す。
 ここでこの懐かしい声の主を──を追い返さなくては駄目なのだ、とダークライは自分に言い聞かせる。何のために彼女を傷付けて、遠ざけたのだ、と。

 しかしはダークライの言葉に答えなかった。冷たい、刺を含んだ言葉に怖じ気つく気配も見せず、その代わりに一歩踏み出したようだった。柔らかな光が揺らめく。朧気ではあるものの、漸く彼女の姿が見えた。

 そこでダークライは先程から霧を照らしていた柔らかな光の正体が、みかづきの羽が発する光であることを知った。御守りのように彼女の首から下げられたそれが、しんげつ島を包む闇の中でやけに眩く輝いて見える。

「あなたと、約束したから」

 霧に隔たれて、の輪郭はぼやけている。それでも彼女が不意に口にしたその言葉だけは、はっきりとダークライの元に届いた。

「約束……?」

 ダークライが思わず呟く。するとは頷いたようだった。淡い光に照らされて浮かび上がる彼女のシルエットが、揺らめく。そして微かに笑ったのが、空気から伝わった。

「私の目がまた元の視力を取り戻したら、今度は私が逢いに行くよ、って、どんなに遠くてもいいから、絶対に逢いに行くって、そう言ったでしょう?」

 それはまだ、ダークライが「クレセリア」だった時にした会話の中で、が口にした言葉だった。思いもよらない彼女の返答に、ダークライは思わず言葉を失う。何故なら、あんな形で自分の正体がクレセリアではないということが明らかになった今、まさかその言葉をまだ彼女が守り、逢いに来るとは思わなかったのだ。

 ダークライは何とか言葉を絞り出そうとしたものの、生まれたのは戸惑いを含んだ吐息だけだった。戸惑いを誤魔化すように闇色の手をきつく握り締めると、鋭い指先が手のひらに食い込む。

 そうしている間にも、はまた踏み出す。ゆっくりとそのまま歩みを止めることなくダークライの前までやって来ると、不安そうに揺れる浅葱色の瞳を見上げた。

 二人の視線が交わるのは、「クレセリア」の正体が明らかになったあの日以来のことだった。島を覆うように立ち並ぶ木々が、海から運ばれてくる風にざわめく。は風に遊ぶ髪を押さえながら、悲しそうに目を伏せた。

「……私はあなたにまだ何一つ伝えられていないし、何一つ聞けていない」

 だからあの時、言おうとした言葉を教えて。

 その言葉と共にから再度向けられた、まっすぐな視線。ダークライはその瞳を、同じように見つめ返す。木々の葉の隙間から僅かに零れ落ちる木漏れ日とみかづきの羽の光が、彼女の瞳の中できらりと輝いた。


 ダークライは何度も迷う素振りを見せた。を遠ざけなければならないと頭では思っているのに、彼女から真っ直ぐに向けられる視線を見ると、心の奥底にある本当の気持ちを洗いざらい吐き出してしまいたい気持ちになるのだ。

 短いのか、長いのかも分からない時間が二人の間を過ぎていく。それからややあって、意を決したようにダークライは話し始めた。

「……私は、に言わなければならないことがある」

 あの時と同じ言葉には優しげな笑みを浮かべ、静かに「うん」とだけ言った。

「……ずっと隠していたんだ。本当は、私はクレセリアなどではなく、……ダークライであるということを」

 浅葱色の眼が、苦しそうに細められる。

「嫌われてしまうのが怖くて、どうしても言えなかった……」

 望まずに持った、悪夢を見せる力。そのせいで何からも遠ざけられていたダークライが、初めて知ることの出来たもの。それはいつだって温かく心地よいもので、安らぎすら覚えられた。だからこそ、本当のことを打ち明けて手放してしまうのが恐ろしかったのだ。

 闇色の手は、知らずの内に胸の痛みを押さえつけるように自身の心臓の辺りを握り締めていた。そのままダークライは言葉を続ける。

「……今更だと思うかもしれないが、ずっと騙していて、傷付けてしまって……すまない」

 そう言って俯いてしまったダークライの心中を表すかのように、木々が再びざわめく。するとその葉擦れの音の中で、は口を開いた。

「……私ね、あの時あなたに"ありがとう"って言いたかった」

 ダークライは俯いたまま、強く眼を瞑った。「あの時」という言葉はつまり、今はそうではないということなのだ。当然のことだと思いながらも、ダークライはの言葉の続きを待つ。


 そして一呼吸置いてから聞こえたのは、とても穏やかな声だった。

「その気持ちは、今も変わらない」

 木々のざわめきは止んでいないというのに、の声だけはダークライの耳にはっきりと届いた。驚きに眼を見開いたダークライは、ゆっくりと顔を上げる。そうして眼にした彼女の顔は、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。

 どんな顔をされるのだろう。どんな言葉を投げ掛けられるのだろう。そんなことを考えていたダークライにとって、彼女の泣きそうな顔や「その気持ちは今も変わらない」という言葉は予想だにしないものであった。

「何故……」

 嫌悪され、軽蔑されてもおかしくないようなこと──嘘をついて騙し、傷付けることも、逃げ出すこともしたというのに。まるで自身のことを蔑むかのように顔をしかめたダークライが尋ねると、は泣きそうな顔のまま微笑んだ。

「確かにダークライは嘘をついたけれど、……でもね、私を助けてくれたことも、私の傍にいてくれたことも全部、本当のことじゃない。それがどれ程私の支えになっていたか……どれ程私が救われていたか、分かる?何回ありがとうって伝えても伝えきれないくらい、私はあなたに助けられていたよ」

 の涙ぐんだ声に、知らず知らずのうちにダークライは涙を一つ落としていた。胸の奥に鎮座していた痛みが、まるで涙と共に流れ出していくように、少しずつ和らいでいく。

「私が一緒に笑っていたいのも、手を繋いでいたいのも、何より傍にいてほしいと思うのは、クレセリアじゃない。ダークライ、あなただよ」

 ダークライは信じられない、とでも言うかのように眼を瞬かせた。そんなダークライの涙に濡れる浅葱色の瞳に真っ直ぐな視線を向けたまま、彼女は言葉を続けた。

「……私ね、ミオの街を出ようと思う」

 思いもよらない唐突な言葉にダークライが困惑した様子で「ミオの街を、か」と呟くと、は頷いた。

「うん。……だから、ダークライも一緒にこの島を、ミオの街を出よう」

 は、と息を飲んだダークライの声が、静かな空気の中で震えた。「ダークライ」という存在に怯える者が多く暮らすミオの街をと出る。それは正直なところ、ダークライにとって嬉しい提案だった。彼女とずっと一緒にいられるのならば、それはどんなに素晴らしいことだろう。
 だが、ダークライは悲しそうな顔をすると静かに首を横に振った。

「ありがとう、。だがそれは……駄目だ」
「……どうして?」
「私といたら、きっとは私を見る目と同じように、偏見の目で見られてしまう」

 そう言ってダークライは眼を伏せながら、自分が「クレセリア」ではないということが明らかになってしまった日のことを思い出す。コリンクのほうでんで集まったトレーナー達がへと向けた「もしかしてあの人がダークライをここに連れてきたのでは」という言葉や、軽蔑するような冷たい視線は、今でもはっきりと覚えていた。
 あんな冷たい言葉や視線を向けられるのは、自分一人だけでいいのだとダークライは眼を伏せる。

「……私」

 ぽつりとが言葉を紡ぐ。ダークライが顔を上げると、少し言いにくそうな表情を浮かべた彼女は続けた。

「あの時ダークライに眠らされて、悪夢を見たの」

 ダークライは眼を丸くする。そして自分の顔から、さっと血の気が引いていくのを感じた。

「みかづきの羽は……」

 あの時確かにはみかづきの羽を持っていたはずで、だからこそ大丈夫だと判断して眠らせたのだ。そうダークライが思ったのが伝わったのか、彼女は苦笑した。

「ダークホールは力が強すぎて駄目みたい。ナイトメアは平気だと思うけれど」
「それは本当にすまないことをした。悪夢など、には絶対に見せたくはなかったというのに……」

 深く沈んだ声に、はううん、と笑った。

「ダークライが私を庇ってそうしたって分かっているから、気にしていないの」

 そう告げてから、は自分の見た悪夢のことを話した。

 いつもと変わらない世界に見えて、夢の中の自分はダークライのことを忘れてしまっていたこと。思い出してから名前を呼ぼうとしても、まるでその世界には存在しないとでもいうかのように「ダークライ」の名前だけが言葉にならないこと。そして、真っ暗な世界で漸くダークライのことを見つけたと思ったら、どんどん遠ざかってしまって一人になったこと。
 それら全てを話し終えると、は木々の葉で覆われた天井を見上げ、それからダークライのことを見つめ直した。

「悪夢の世界は不気味で確かに怖かった。でもね、何より怖かったのは、ダークライがいないこと、ダークライがどんどん遠くに行ってしまって、一人にされることだった……」

 俯き、再び涙ぐんだ彼女の名を思わずダークライは呼んだ。手の甲で目元を拭ったが顔を上げる。

「……私は誰が何と言おうといい。ダークライに傍にいてほしい」

 告げられたその言葉を皮切りに、一度は止まっていたはずの涙が、浅葱色の眼からはらはらと落ちた。大粒の涙はみかづきの羽の光に何度も煌めいて、地面に静かに落ちていく。いつの間にか木々のざわめきは止んでいて、あんなに晴れそうになかった濃霧も薄れていた。

 ダークライは溢れては落ちる涙もそのままに、涙の膜でぼやけて見えるのことを真っ直ぐに見つめて口を開いた。

「……私も、と一緒にいたい」

 それは嫌われるのが、拒まれて傷つくのが恐ろしくて言えなかった言葉であり、それを願うことで、彼女が傷付くことになるならと胸の奥底にずっとしまい込んでいた本当の気持ちだった。
 そしてダークライの嘘偽りのない言葉を聞いたは嬉しそうに何度も頷くと、拭ったはずの涙をまた一つ流して笑った。

「ずっと、私の傍にいて」
「……ああ」


 ダークライは短い返事と共にの体を引き寄せると、優しく抱き締める。途端に堪えていた緊張が解けたのか、彼女は肩の力を抜くと声を上げて泣いた。

、泣くな」

 とはたくさんの時間を共有してきたというのに、彼女がこうして涙を流すのを見るのは今日が初めてだった。そのため、こんな時どうするべきかダークライには分からず、ただその体を優しく抱き締めることしか出来ない。

 泣くな。もう一度そう困ったようにダークライが告げると、闇色の体に同じように手を伸ばしたが、涙の滲む声で言う。

「……ダークライも、泣いているじゃない」
「……そうだな」


 二人は顔を見合わせて、思わず小さく笑いあった。そんな二人の間で、みかづきの羽は変わらずに淡く輝く。その優しい光は互いの頬を伝う涙に反射して、きらきらと星のように輝いた。


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