▽△▽

 沈んでいた意識が浮上して、はっとしたは目を見開いて辺りを見回す。すると、すぐ傍から可笑しそうな声が聞こえた。

、どうしたの?」

 そんなにきょろきょろしちゃって、と続けた声の主は、友人であるキヅカだった。辺りを見回すのことを、訝しそうに見つめている。そこで漸くは、今自分はキヅカとカフェに来ていたのだということを理解した。今いるのは、前にも来たことのあるカフェのテラス席だ。

「……ううん、何でもない」

 それを聞いての目の前の席に座るキヅカは訝しそうな顔のまま、「それならいいけれど」と言うと隣の椅子に丸くなるコリンクの背を撫でた。キヅカの指先が、水色の毛並みを優しく撫でる。


 暫くしてから、くあ、と欠伸をしたコリンクの様子を見ていたは、口を開いた。

「……ねえ、どうしてカフェに来たんだっけ」

 が尋ねると、コリンクの背を撫でていたキヅカの手が止まった。コリンクに落とされていた視線が、へ移る。

「どうしてって言われても……街に買い物に来て、ちょっと休憩しようかってなったからじゃない?」

 キヅカが「ねえ?」とコリンクに尋ねると、コリンクもきゃうんと鳴く。それでもが何かを言いたそうな顔をしていると、そのことにキヅカは気付いたようだった。

、何か変だよ?」

 そう言われて、は「私もそう思う」と苦笑した。何故かは分からないが、先程からずっと心がざわついて落ち着かないのだ。は「自分でも変だと思う理由」を上手く伝えられる言葉を探すようにしながら、ゆっくりと話す。

「何だろう。よく、分からないのだけれど」
「うん」
「すごく、もやもやする……」

 そう告げると、キヅカは眉間に皺を寄せた。

「……もやもや?具合でも悪いの?」

 キヅカが心配そうな瞳を向ける。それに対し、はゆっくりと首を振った。

「具合が悪い訳じゃ、ないと思う。ただ……何だろう。何か、大切なことを忘れているような気がする……」

 何かを忘れていることすら正しいのかも分からないけれど、気のせいなのかなあ。そう呟いてはテーブルの上のグラスに手を添える。からん、と氷が涼しげな音を立てた。

 するとテーブルに頬杖をついてのことをじっと見つめていたキヅカが、うーん、と唸る。そして頬杖をつくのをやめた彼女は、困ったように眉を下げた。

が何かを忘れているのか、私には分からないけれど……なんて言うか、さみしそうに見える」
「そう、かな……」

 キヅカの言葉に、はどきりとした。彼女の言葉は、何となく図星のような気がしたのだ。


 自分は寂しいのかな。だとしたら、どうして寂しいのだろう。友達のキヅカと、コリンクがこうして一緒にいてくれているのに。

 がそんなことを考えていると、どこからかふわりと甘い香りが漂ってきた。嗅いだことのあるその匂いに、は辺りを見回す。

 すると少し離れた席で、自分のポケモンに木の実を与えているトレーナーの姿が目に入った。桃色のその木の実に、の目が釘付けになる。
 それはモモンの実だった。何の変哲もない、どこにでもある木の実。しかしそれをまじまじと見つめていたは、ひどく懐かしい気持ちになるような声を不意に思い出した。


『誰かからこうして、ものをもらうのは初めてだったんだ』


 その嬉しそうな声は、不思議との中の「もやもやしていた何か」を晴らしていく。朧気だった何かが、少しずつ鮮明になっていくような感覚。そしては、はっと息を飲んだ。

 は思い出したのだ。自分にはもう一人、とても大切な友達がいたということを。どうしてこんなにも大切なことを忘れていたんだろう。そう思うと同時に、まるでそれが引き金になったかのように、彼女は続け様にたくさんのことを思い出した。


 クレセリアだと思っていたポケモンが、クレセリアではなかったこと。そのポケモンといるところにキヅカとコリンクがやって来て、コリンクがキヅカを守ろうとして威嚇をしたこと。それからその時のほうでんを目にして、他のトレーナー達がやって来てしまったこと。
 そして、最後に闇色の手が自分の眼前にかざされた瞬間を、は鮮明に思い出した。

 あの後、彼は一体どうなったのだろう。そう考えたは身を乗り出すと、自身のことを心配そうに見つめていたキヅカに問いかけた。

「ねえ、キヅカ。そういえば     はどこへ行ったのか、知らない?」

 そう口にした瞬間、は自分の言葉に信じられないといった表情を浮かべた。何故なら「大切な友達」の名前を確かに口にしたはずなのに、不思議と言葉にならなかったのだ。

 まるで言葉にした瞬間、どこかにぽっかりと穴が開いて、そこに口にしたはずの名前が吸い込まれてしまったかのようだった。目の前にいるキヅカにもその部分だけが届かなかったようで、彼女とコリンクは不思議そうに顔を見合わせている。

「なんて言ったの?」
「えっと、私と一緒にいた     は……?知らない?」
「……ごめん、もう一回言ってくれる?」

 何度口にしても、あの闇色のポケモンの名前だけがどうしてか、言葉にならない。それはまるで、この世界からあのポケモンの存在そのものが消えてしまったようだった。
 は座っていた椅子から勢いよく立ち上がった。椅子が乱暴に音を立て、カフェにいる他の客達の視線がに注がれる。

……?」
「キヅカ。私ね、大切なことを思い出したの。だから、行かなきゃ」
「何を思い出したの?行くって、どこに?」
「どこに行けばいいのかは、分からない。でもきっと、このままここでじっとしていたら駄目な気がするの……」

 目の前のキヅカとコリンクは困惑した表情を浮かべていたが、再び顔を見合わせると笑った。

「うーん。よく分からないけれど、が忘れていたことを思い出したのならよかった。だから、いつかその話を聞かせてね」
「うん!」
「いってらっしゃい」


 どこに行くべきかも分からないまま、それでもはカフェを飛び出した。それからカフェの前の広場を抜けて、目についた細い小道に入る。人通りの少ないその道はひっそりとしていて薄暗い。
 そんな薄暗い中をがむしゃらに走り続けていると、前方で何かが淡い光を放っていることには気が付いた。慌てて近寄ると、それは美しい曲線を描く羽だということが分かる。

「みかづきの羽……」

 そう呟いて、がみかづきの羽を手に取ろうとした瞬間だった。

 辺りの景色がぐにゃりと歪んだのだ。そして薄暗かった通路が、周りの景色が、 真っ暗な闇に飲み込まれてゆく。思わずは叫んだ。先程 確かに口にしたはずなのに、何故か言葉にならなかったその名前に、どこにいるの、そう呼び掛けるように。

「──ダークライっ!」


 視界が、世界が暗転する。


△▽△


 気が付けばは一人、佇んでいた。

 そこは真っ暗で何も無い世界だった。辺りを見回しても周りにあるのは底知れぬ闇ばかりで、方角も何も分からない。

 よく見知ったミオの街のカフェにいて、自分は何故かダークライのことを忘れていて、そしてカフェを飛び出してみかづきの羽を見つけたと思ったらこの訳の分からない世界にいた。それらのことを思い出すと彼女は顔をしかめる。
 自分自身に何が起こっているのかを理解出来ず、頭の中はぐちゃぐちゃだった。しかしこのままここで何もせずに立ち止まっている訳にもいかず、は暫く悩んだ末に、仕方なく歩き出す。


 どれ程歩いたのだろう。暫く歩いても、は何も見付けられずにいた。まるでまた目が視力を失ってしまったみたいだ。そんなことを考えたは、続けて数か月前の、目が視力を失った日のことを思い出す。


 が視力を失った原因は、以前ダークライにほんの少しだけ漏らしたことがあるが、ストレスを溜め込みすぎてしまったことが原因だった。

 様々な要因が運悪く重なってしまい、心が疲弊していたはストレスになる原因を「もう見たくない」と思った。毎日のようにそう思い続けていると、限界を迎えた心身を守るためか、脳が目の前の光景を認識しなくなったのだ。
 病院では「ストレスの原因となるものから離れることが先決」と言われ、それを聞きつけた祖母がずっと空けたままの家があるからもしよければ、とあの丘の上の家を貸してくれたのである。


 それからあの寂れた丘の上で暮らすようになっただったが、何も見えなくなった当初は当然ながら不安だらけだった。世界はどこに行っても真っ暗で、恐ろしい闇の中にただ一人置いていかれたような気持ちになったのだ。

 そんな彼女のことを励ましてくれたのが、同じようにミオの街に越してきた友人のキヅカとコリンクだった。時間がある時は顔を出してくれて、が少しでも明るい気持ちになるようにとたくさんの話をしてくれた。
 キヅカとコリンクに支えられて、目が見えないながらも前向きになったは、見えなくなったものは仕方ないと諦め半分、またいつか見えるはずと諦めきれない気持ちも持つようになったのだ。

 そうして「目が見えないこと」に慣れてから暫くした頃に出逢ったのが、「クレセリア」だ。たくさん助けてもらって、同じ時間を過ごすようになって、そして「またいつか見えるはず」、ではなくて「見えるようになりたい」と強く思わせてくれた存在。そこまで思い出して、は歩みを止める。

 ほんの少ししか目にしていないというのに、ダークライの姿は不思議と鮮明に思い出すことが出来た。
 ダークライ。自分をクレセリアだと偽っていたポケモン。お人好しだと、騙すのは簡単だったと言われた時は、その声のあまりの冷たさに衝撃を受けた。
 けれど、本当にダークライは人を騙したりして傷つけるようなポケモンなのだろうか?そうは自問する。

 そうするとすぐに思い浮かぶのは、今まで過ごしてきたダークライとの時間だった。
 木の棘に服の裾を引っかけてしまった所を助けてくれたこと。「また来てね」という言葉通りに訪ねてきてくれたこと。モモンの実をあげた時の、「誰かからこうして、ものをもらうのは初めてだったんだ」という嬉しそうな声。洗濯物を干すのを二人でやった方が早いから、という理由で手伝ってくれたこと。みかづきの羽をくれたこと。眠るまで手を繋いでいてくれた時の心地好さ。
 それらを思い返すの目に、涙が滲む。そして、ぱたぱたと真っ暗な足元に落ちていった。


「嘘をつくのが、下手すぎるよ……」

 は誰に言うでもなくそう呟いて、小さく笑い声を漏らす。
 見知らぬトレーナー達が集まってしまったあの時、「もしかしてあの人がダークライをここに連れてきたんじゃ」「ダークライを街に入れるなんて、嘘だろ?」そう、蔑むような視線を向けられた自分のことを庇って、ダークライが悪者になったのだということは、嫌でも分かってしまった。

 本当のお人好しはダークライじゃないか。そう思うと涙は止まるどころか次々と溢れてくる。

 涙は暫くしても止まりそうになかったが、この訳の分からない場所を抜けてダークライに逢わなければ、そう決意したは手の甲で涙を拭うと、再び歩き出した。


 長いこと歩いて、足が棒のようになった頃。は俯きがちだった顔を上げた。ずっと先の方に、光り輝く何かが見えたような気がしたのだ。は弾かれたように走り出す。

 走って辿り着いた先にあったのは、あのみかづきの羽だった。淡い光を放つそれを、は恐る恐る拾い上げる。みかづきの羽の放つ光を見つめた彼女は、小さく息を吐いた。この何もない世界で自分以外のものを見つけられたことが嬉しかったこともあるが、また先程のように景色が歪んでしまったら、とも思ったのだ。

 そうしてみかづきの羽を手に更に歩いていると、不意に羽が強い光を放った。今までに見たことがないような眩い光に、慌てては目を瞑る。そして光が収まった後にゆっくりと瞼を開くと、前方に揺らめく何かを見つけた。

 それを目にしたは、再び走る。そして少しずつはっきりと見えるようになるその姿に、漸く止まった涙がまた溢れそうになった。

 そこにいたのは、周りの景色に溶け込んでしまいそうな、闇色の姿をしたポケモンだったからだ。


「ダークライ!」

 が呼んでも、ダークライは無反応だった。ただ、彼女に背を向けてゆらゆらと不安定に揺れている。

「……ずっと探していたの。……私まだ、あなたと何も話せていないよ」

 ダークライは答えない。どうしたものかと考えて、は闇色の体に手を伸ばした。しかし彼女の指先は、ダークライの体をすり抜ける。驚いてが目を見開くと、ダークライが微かに振り返った。

「ダークライ……?」

 が呼び掛けても反応を示さず、ダークライは再び彼女に背を向けると少しずつ遠ざかっていく。慌ててはその背中を追った。しかし、次第にダークライとの間に距離が出来ていく。

「待って!」

 歩いて、走って、カラカラに乾いた喉で叫んだ。しかし闇色の後ろ姿は振り返ることはなく、どんどん遠ざかっていく。ダークライのふわふわと揺れる白い髪のような飾りも、赤い牙のような飾りも、どんどん周りの闇に飲まれていって、もうどこまでがダークライでどこからが闇なのかが分からない。

「置いていかないで……!」


 は必死に叫ぶ。ダークライが見えなくなる寸前、みかづきの羽がまた、強く光った。

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