開いたの目と、振り返ったダークライの浅葱色の眼が合う。今までたくさんの時間を過ごしてきて、二人の視線が交わったのはこの時が初めてだった。


 ずっと見たいと願い続けていた「クレセリア」の姿を見たは、目を丸くした。その目には恐怖というよりは、戸惑い、困惑、そんな色が見え隠れしている。それは決して以前キヅカに読んでもらったミオ神話に出てきた「ダークライ」がそこにいたからではなく、カラフルだと聞いて思い描いていた「クレセリア」の姿の予想が外れたからだった。


……!す、すぐに、そのポケモンから離れて……!」

 闇色の背中の向こうでガーデニングチェアに座ったままのに向かって、キヅカが震える声を張り上げる。それでも、はキヅカの言葉の意味を理解することが出来なかった。

「えっ、ど、どうして?このポケモンは……」

 がダークライを見る。その目は未だに戸惑いの色を隠しきれていない。

 その様子に、キヅカが後退りながら叫ぶ。

「そのポケモンはダークライなの!悪夢を見せるっていう……!」

 それを聞いて、混乱していたは漸く理解したようだった。今自分の目の前にいるこのポケモンが、クレセリアだと思っていたポケモンが、本当はダークライなのだということを。
 そして同じように戸惑いの滲む浅葱色の瞳に見つめられながら、は思い出す。ミオ神話をキヅカが読んでくれた時、彼女がダークライはクレセリアと違い、真っ黒な色をしていて怖いのだと言っていたこと、それから悪夢を見せると言っていたことも。


 何か合点がいった様子で、考え込むように視線を落としたを見つめながら、ダークライは僅かに顔をしかめた。
 この後はどうするのだろう。自分は何をするべきだろう。何が出来るだろう。そんな答えの見つからない問いばかりが、頭の中をぐるぐると渦巻いていた。

 自分の正体を知って、彼女は叫んだり怯えたりするのだろうか。そう思ったダークライがそのままを見つめていると、顔を上げた彼女はその予想に反して、ただ静かに見つめ返すだけだった。


 何故なら、は知っているからだ。

 目の前にいるこのポケモン──ダークライが今まで自分の元を訪れてくれた「クレセリア」であるのなら、ダークライというポケモンは、自分を何度も助けてくれた優しいポケモンであるということを。


「キヅカ、聞い……」

 が何かを言おうとしてガーデニングチェアから立ち上がる。しかしそれを遮るように、今まで震えるキヅカの後ろで同じように震えていたコリンクが、キヅカとダークライの間に勢いよく飛び出した。

「コリンク、待って!」

 キヅカが焦った声でコリンクを呼ぶ。しかしコリンクは振り返らない。危険を感じているのか、その全身は溜め込まれた電気によって眩く金色に光っていた。


 コリンクは自身のパートナーであるキヅカが震えているのを見て、自分まで震えている場合ではない。自分が彼女を守らねばならない。そう判断したのだ。そしてダークライをキヅカから遠ざけるために、威嚇として電撃を放った。

 パートナーを守るための底力なのか、その「ほうでん」は威嚇と言えど凄まじい威力だった。「これ以上こちらに近付くな」という意味を込められた電撃は、コリンクとダークライの間の草や地面を真っ黒に焦がす。まるで雷鳴のような音が鳴り響いて、丘の下の林からは何羽もの鳥ポケモン達が慌ただしく飛び立った。

 ややあってコリンクのほうでんが収まると、草や地面の焦げた臭いと共に静寂が訪れる。しんとした空気の中、この場にいる誰もが動かない。全員がこの状況をどうするべきか、次にどう動くべきかを考えていた。


 ダークライは大きく動いて眼の前のコリンクを刺激してしまわないよう気を付けながら、こっそりと半歩程後ろに立つの横顔を盗み見る。ダークライには、もう何が最善かが分からなかった。興奮したコリンクを静めようとしても今は逆効果なのは間違いないことであるし、自分に対して恐怖しか抱いておらず、怯えているキヅカは冷静に話を聞けそうにはないだろう。

 一体どうすれば。

 ダークライがそう思った瞬間、動いたのはだった。何とか話を聞いてもらおうと思ったのか、このポケモンは危険じゃないと知らせるためか、彼女はダークライの隣に並ぶ。それから、がダークライの手を握ろうとした時だった。


「……なあ、今の見た?」
「なんだったんだろう。こっちの方だったよね」
「誰かバトルでもしてるのかな?」

 事態はどんどん悪化していく。不運なことに、先程の凄まじい轟音を響かせたほうでんにより、関係のないポケモントレーナーが数人この丘へと様子をやって来たのである。

 そして丘へとやって来たトレーナー達は、先程のキヅカと同じようにダークライの姿を目にするとぴたりと動きを止めた。

「は……」

 この場にやって来たトレーナー達が、揃って呼吸を忘れたかのようだった。彼らが「そこにいるポケモンはダークライである」と理解するまで、そう時間は掛からず、驚きに目を見開いて誰もが言葉を失う。

 何故ならミオの街において、「ダークライ」という存在は悪い意味で有名過ぎたのだ。



 それを見て、が慌てて口を開く。

「待って!このポケモン、ダークライは……」

 しかしの言葉は、途中で途切れる。闇色の手が彼女の口を塞いだのだ。片手に肩を抱かれ、もう片方の手で口を塞がれたが、「どうして」と言いたげな顔でダークライへと僅かに振り返り、目を見開く。


 そんなのことを、ダークライは何も言わずに静かに見遣る。
 ──は自分のことを庇おうとしてくれたのだろう。それはとても嬉しいことだ。けれど、こんな状況になってしまった今、彼女一人が声を上げたところで周りの者達は素直にその言葉を信じることが出来ないだろう。何より、ここでが自分のことを庇ってしまえば、彼女は良く思われないだろう。
 そう、思ってのことだった。

 しかしも黙っている訳にはいかず、自分の口を塞ぐダークライの手を両手で剥がそうとした。それでも闇色の手はびくともせず、彼女は眉間に皺を寄せる。


 この時ダークライは迷っていた。この状況で、自分に出来ること。それはもう見付けていたのだ。けれど、その選択はきっとを傷付けるということも分かっていたのである。

「ダークライ!その人を離せ!」
を離して……!」

 自分が選択する行動が正しいのかを悩み、ぴたりと固まってしまったかのように動きを見せないダークライに、手持ちのポケモンが入っているであろうボールに手をそっと伸ばしたトレーナー達や、キヅカが叫んだ。コリンクも歯を剥き出しにして、キヅカの隣で唸り声を上げている。

 の口を塞いだまま、トレーナー達をダークライは一瞥する。するとトレーナーの一人が、はっと何かに気が付いた様子で他のトレーナーやキヅカに向かって口を開いた。

「な、なあ……もしかして、あの人がダークライをここに連れてきたんじゃ……」

 その一言に、他のトレーナー達が彼に視線を向ける。

「……はあ?ダークライを街に入れるなんて、嘘だろ?」
「だって、あのダークライがいるのにだぞ!?全然怖がってないっていうか……平気そうだし……」
「いや、まさか……」

 そのやり取りを聞きながら、ダークライは静かに眼を閉じる。それからゆっくりと何かを決心した様子で眼を開くと、を見つめた。
 彼女は何か言いたげな顔で闇色の手を剥がそうとしていたが、浅葱色の妖しく輝く瞳に見つめられていることに気が付くと、困惑した表情を浮かべてその手を止める。

 そして周りのトレーナー達やキヅカが、ダークライが何をするのかと焦った様子で息を飲んだ時だった。


「馬鹿だな。……どうしようもないくらい、本当に、馬鹿だ」

 ダークライの声が、緊迫する空気を震わせる。まさかこの状況でダークライが言葉を発するとは思わなかったのか、トレーナー達が体を強張らせた。その様子を見たダークライは妖しく輝いたままの眼を細める。それから、心の中で自分自身を嘲笑った。

 ──どうしようもないくらい馬鹿なのも、臆病なのも。そう、すべては自分だ。


 ふっと息を吐くと、ダークライはを見つめ直して言葉を続ける。

「……本当にお人好しだよな。お陰で騙すのは簡単だった。楽しかったよ、

 の目の中で、浅葱色の瞳が放つ光がゆらゆらと揺れた。
 そして今まで長い時間を共にしてきた中で一度も聞いたことがないような、闇の底のような冷たい声で告げられたその言葉に、が一瞬唖然とする。それからほんの少しの間を置いて、彼女の顔が悲しそうに歪んだ。その表情を見て、ダークライは苦しそうに眉間に皺を寄せる。
 本当はこんな顔をさせたかった訳ではなくて、ただ笑っていて欲しかったはずなのに。そう思っていても、もう後には引けなかった。


「……丁度いい。この下らない嘘も、もう止めようと思っていたところだった」


 ダークライの本心とは裏腹に、その口からはたった一人の大切な人を傷付けるような言葉ばかりが出てくる。
 それでもの立場を悪くしないよう、彼女を「ダークライを街に呼び寄せた人間」ではなく「ダークライに騙された人間」だということにするには、今ここで冷たく突き放さなければならないのだ。そう自分に言い聞かせて、ダークライは刺すように痛む胸に気が付かない振りをしながら、の口から手を離した。


 咄嗟にが口を開く。しかしそれよりもずっと早く、まるで彼女の視界を遮るようにダークライが手を再びかざした。一瞬、初めて彼女がダークライに対して怯えたような表情を見せる。

 全てがスローモーションのようだった。


 ダークライは手のひらから小さな黒い球体を一つ生み出すと、ほんの僅かな隙にその黒い球体をに向けて放った。に触れた球体は大きく広がり、とぷん、というまるで水に何かが沈むような音を立てて彼女のことを包み込む。すると、たった数秒で力が抜けたようには膝をついて倒れてしまった。

っ!」

 駆け寄ろうとするキヅカを、トレーナーの一人が「君まで眠らされるぞ!」と叫んで制する。その瞬間にダークライは姿を影のように変えると、音も無く地面に姿を消した。




 すまない。その言葉ばかりをダークライは心の中で繰り返す。
 嘘をついて。本当のことを自分の口から伝えられず、こんな形で知らせることになってしまって。そして何より傷付けて。そんな後悔ばかりが次から次へと押し寄せる。

 丘を下り、林を抜けて、人気のない海沿いの道から海へ飛び出したダークライは、痛む胸を手で押さえ付けるようにしながらしんげつ島を目指す。
 早くあの光の届かない薄暗い島へ戻らないと、どこからかやって来る、真っ黒な虚無感や絶望に飲み込まれてしまいそうだった。


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