に「次の診察が最後かもしれない」と教えてもらった日からも変わらず、ダークライはの元を訪れていた。

 一緒に木の実を食べたり、ゴスの実の成長が楽しみだとか、今日はこんなことがあったのだという他愛のない話をする穏やかな日々が過ぎていく。そして、数週間が過ぎた日のことだ。

 この日は、「もしかしたら最後の診察かもしれない日」だった。



 彼女から診察の日時を聞いていたダークライがあの丘へとやって来たのは、午後の一時になる頃だった。少し早く着いてしまったな、そう思いながらふわりと軽やかに家の裏へと降り立つ。

 家の裏──菜園の前に降り立ったダークライは、長い溜め息を吐いた。ここ数日、は心が逸って仕方ないという様子で落ち着きがなかったが、それはダークライも同じだった。何度も長く息を吸ったり吐いたりしてみても、心がざわついて仕方ない。

 仕方なく他のことで気を紛れさせようと辺りを見回すと、ダークライの眼が菜園の木の実に留まった。この前来た時はまだ小さな実をつけているだけだったゴスの木が、枝もたわわに真ん丸で艶やかな木の実を付けていたのだ。

 美味しそうなゴスの実だが、これは一緒に食べる約束だったな。そう思い、ダークライが手を伸ばしたのはいつものモモンの実だった。



 それからゆっくりとモモンの実を食べ始めたダークライだったが、暫くして食べ終えても心はざわついたままだった。
 どうしようかと考えて、が帰ってくる時間までもう少しあるだろう、そう判断したダークライは寂れた丘に疎らに生える木の影の一つに溶け込むと、そのまま地面を滑るようにして影から影へと移動する。この場所にいては、余計なことばかりを考えてしまいそうだと思ったのだ。

 地面を音もなく滑り、丘を少し下った所にある林に辿り着くと、野生のポケモンに気を付けながら影から抜け出した。
 宙にふわりと浮かび、眼を閉じる。木々の間を走る風や緑の葉が揺れる音、それらに耳を傾けてじっといると、心が少しずつ落ち着きを取り戻していくのが分かった。


 暫くしてから、ダークライは意を決したように眼を開いた。闇色の横顔を、風が撫でる。心は随分と落ち着きを取り戻していた。
 そしてそろそろが帰って来る頃だろうかと考えた後、再び影へと姿を変えると、木々の影へと潜り込んだ。


 林の中を移動して丘へと戻ったダークライは、ガーデニングチェアに座って空を見上げているの姿を見つけた。見つかってしまわないように気を付けて、彼女の座るガーデニングチェアの後ろの方に生えている細い木の影まで移動する。

 の様子をそのまま背後から窺うと、どうやら彼女は空を流れる雲とその間を飛ぶムクホークを眺めているようだった。

 声を掛けていいか迷ったが、ダークライはごくりと喉を鳴らすと彼女の名前を呼んだ。

「……

 流れる雲とムクホークの行方を追っていたが、空を見上げるのを止める。

「こんにちは、クレセリア」

 そうして聞こえたのは、いつもと変わらない調子の彼女の声だった。だから、ダークライも同じようにいつもと変わらない調子を心掛けて、「ああ」とだけ返事を返す。そよ風が二人の間を駆けていった。

「クレセリア、私の前に来てくれる?」

 まだ、目は瞑っておくね。そうが笑ったので、ダークライは大人しく言われた通りに彼女の前へと移動する。すると、彼女がみかづきの羽を持っていることに気が付いた。渡した時から変わらない、美しい曲線を描くみかづきの羽は彼女の膝の上で淡い光を放っている。

 それから、ダークライはの言った「まだ」という言葉から悟った。今日の診察で、きっともう大丈夫だと言われたのだろう、と。
 それでも何も言わずにダークライがの言葉を待っていると、彼女はきゅっと口を結んだ。それはまるで、そうでもしていないと言葉が溢れてしまいそうに見えた。

 ダークライはが話し出すのを静かに待つ。きっと自分と同じように言いたいことがたくさんあるのだろう、そう思ったからだ。


 何かに迷うようにみかづきの羽の毛先をいじりながらが口を開いたのは、それから暫くしてからだった。

「……あのね」

 ん、とダークライが短く返事をすると、はみかづきの羽を持っていない方の手を、心を落ち着かせるかのように自分の胸に当てた。そして、きゅっと結んだままだった口を開く。

「……クレセリア、聞いて。私ね、今日の診察で問題ないって、もう大丈夫だって言われたの……!」

 目を閉じたまま笑う彼女の顔は、今まで見た笑顔で一番輝いて見えた。心からのその笑顔に、思わずダークライも眼を細める。

、おめでとう」

 ダークライの言葉にはより一層微笑んだ。

「本当は今すぐにでもお礼を言いたい。でも、ありがとうはあなたの顔を、眼を見てちゃんと伝えたいの」

 だから。がそう言って息を小さく吐く。ダークライには、彼女が次に言うであろう言葉がもう分かっていた。

「あなたの姿を、見てもいいかな……」


 予想はしていたものの、その言葉を聞いた瞬間、ダークライは一瞬周りが無音になったような錯覚を覚えた。それでもそれはやっぱり気のせいで、緑の草原が風に波立つ音が静かに響く。

 ダークライはの期待と不安が入り混じったような表情を見つめ返すと、少し待ってくれるか、と告げた。

「うん、分かった」

 は素直に頷いて、僅かに口元を緩めた。ダークライは空を見上げると、その抜けるような青さに眼を細めて一呼吸置く。それから、遂にこの時が来てしまったのだと眼を閉じた。


 という人間はダークライにとって、最早特別な存在だ。例え目が見えなかったからだとしても、自分の正体をクレセリアだと偽ったからだとしても、一匹のポケモンとして、対等な存在として、友達として扱ってくれた初めての人間。そんなだからこそ、ダークライはこれ以上嘘をつかないで、「クレセリア」ではなく「ダークライ」として、本当の自分で彼女と向き合いたいと思った。

 この嘘を明かして、その結末がどうなるのかは分からない。それでもまず、に謝ろう。そう決心してダークライは眼を開く。


「……。私は、に言わなければならないことがある」

 が不思議そうに首を傾げた。ダークライは思わず俯きながら、恐る恐る言葉を探るように紡いでいく。

「ずっと隠していたんだ。本当は……」



 ダークライは気付かなかった。いや、気付けなかった。「嫌われてしまうのが怖くて、どうしても言えなかった」「本当はクレセリアではなく、ダークライなんだ」「騙していてすまない」そんなに告げるべき言葉で頭の中はいっぱいで、この場所に近付く複数の足音は耳に届かなかったのだ。


 そして。


ー!」

 私はクレセリアではなく、そうダークライが続けるより先に、聞き覚えのある声が辺りに響く。そしてそれと同時に家の向こうから現れたのは、の友人のキヅカだった。その隣には彼女の相棒であるコリンクもいる。

「思ったよりもずっと早く……来れた、よ……」

 菜園のあるここ、家の裏へと元気よく姿を現したキヅカはぴたりと凍り付いたように動きを止めた。何故なら、そこで目にしたのは闇のような色のポケモンの背中だったからだ。

 そして慌てて振り返ったダークライもまた、凍り付いたように動けなくなった。まさかキヅカがやって来るとは思わなくて、突然のことに驚いてしまったのだ。


「……えっ、キヅカ!?随分早く用事が終わったんだね……?」

 一方のは、酷く驚いた。というのも、キヅカに今日で診察が最後かもしれないと伝えてはあったが、彼女は用事があると言っていたため、会うのはその用事が終わった後の夜の予定だったのだ。
 それからクレセリアはキヅカに姿を見られてしまったのでは、と思ったが、「少し待ってくれるか」と言われた手前、目を開けていいのか分からず、ひとまず目を閉じたままそう尋ねた。

 しかしの言葉にキヅカは答えず、そのかわりに大きく見開いた目で、ダークライの闇そのもののような姿をただ映していた。



 そしてダークライはキヅカとその隣で同じように固まったコリンクを見つめ返しながら、どうすべきかを考えていた。

 ──この場から逃げるのは容易いことだ。だが、に本当のことを告げると決めたのに、逃げ出してしまうのか?今ここで逃げ出せば、キヅカはに「ダークライがいた」と告げるだろう。そしたらも、クレセリアだと思っていたポケモンが実はダークライだったと知ることになる。

 ダークライは思わず手のひらをきつく握り締めた。自分のついた嘘が、自分以外の口から謝罪も無しに明らかになる。それだけは嫌だったのだ。


「あ……、あ、ああ、ダークライが……!」


 そうしている間に、遂にキヅカが青ざめた顔で呟く。恐怖により上手く言葉が見つからないらしく、その声はひどく震えている。そしてその声を耳にしたは、困惑した様子で首を傾げた。

「キヅカ?どうしたの?」

 一体自分の目の前で何が起きているのか分からず、が訝しそうにキヅカの名を呼ぶ。しかしキヅカは答えない。


「クレセリア……?まだ、いる?ごめんね。目を開けるよ……?」

 ダークライはどうすべきか最善の答えを見つけられないまま、の言葉に答えることも出来ずにただ彼女の前で立ち尽くしていた。


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