「前に比べて、どうですか?」

 医師に尋ねられて、はゆっくりと周りを見回す。以前よりもずっと、視界ははっきりと鮮明に周りの様子を映していた。

「……とても、よく見えます」

 の返事に、医師とその隣に立っていた看護師が揃って目を細めた。




 今日この日、は診察のために病院を訪れていた。「クレセリア」といる時は自分の目が元のように治るまでは姿を見ないという約束を守るために瞼を閉じているのだが、それ以外ではもう瞼を閉じずに過ごしており、ここの所随分とよく見えるようになっていたのだ。


「それはよかった!それにしても、ここ最近のさんの回復は驚くほど早いですね。何かいいことでもあったのですか?」
「何かいいこと、ですか?」

 が首を傾げると、医師は笑顔で頷く。

「前向きな気持ちや明るい気持ちは治癒力を高めるといいます。ですから、さんに何かあったのではないかと思って」

 その言葉にはクレセリアのことを思い出した。
 キヅカとコリンク以外では初めてできた、姿を知らない友達。眠るまで傍にいてくれて、手を握ってくれた優しいポケモン。
 早くクレセリアの姿を見たいと思うその気持ちが、医師も驚く程の治癒力に繋がっているのだろうか。そんなことを考えて、は微笑む。

「……そうですね。いいことがあったんです。それも、たくさん」

 クレセリアと過ごしてきた時間を思い出すと、自然との胸は温かい気持ちで満たされる。医師と看護師はの顔を見ると、同じように穏やかに笑みを浮かべた。

「次の診察で特に問題がなければ、もうさんは大丈夫ですよ」

 医師のその言葉には満面の笑みで礼を言ったのだった。



 病院を後にして、とあるカフェには向かった。そしてテラスの一席に見慣れた後姿を見つけると近寄る。

「キヅカ!ごめんね。待った?」

 そう言いながら友人キヅカの向かいの席に座ると、本を読んでいたらしい彼女が顔を上げた。丸いテーブルを囲むように置かれた四つの椅子。キヅカの隣には相棒のコリンクが伏せており、彼女と同じように顔を上げるとに向かってくうんと鼻を鳴らした。そんなコリンクの頭を撫でながら、キヅカは「私も用事が終わって少し前に来たところだよ」と微笑んだ。

「それで、診察の結果はどうだったの?」

 キヅカが本を鞄にしまいながら尋ねる。その問いにはにっこりと笑うと、一呼吸おいてから口を開いた。

「次の診察で問題がなければ、もう大丈夫だって!」
「わっ、本当に?よかったじゃん!」

 コリンクもぱっと顔を輝かせると、一緒になって喜んでくれているようだった。椅子を下りたかと思うとの足元に駆け寄り、大きく尻尾を振っている。はコリンクを抱き上げると頬を寄せた。

「ふふ。コリンクも喜んでくれてありがとう」


 そうして他愛のない話をいくつかした後、午後の眩しい陽射しに照らされた石畳の通りを眺めていたは、よく冷えたアイスココアを一口飲むとキヅカへと目を向ける。キヅカは膝の上に座るコリンクへと視線を落としてその水色の頭を撫でながら、今日このカフェに来る前にしたというバトルの話をしていた。

「そこでコリンクが相手の突進を上手くかわしてくれてさ。スパークを決めてくれたお陰でいい感じに勝てたんだよね」

 そこまで話したところでキヅカはの視線に気がついたのか、顔を上げると首を傾げた。

「どうかした?」

 キヅカに尋ねられて、はふっと笑う。

「……ううん。いいなあって思って」
「ポケモンバトルのこと?」
「バトルも楽しそうだけど……。キヅカとコリンクを見ていると、お互い心が通じあっているんだなって感じがするんだよね。それがいいなあって思ったの」

 キヅカとコリンクが揃って目を丸くするので、はくすくすと笑い声を漏らした。そんなに、キヅカとコリンクの二人は顔を見合わせてから顔を綻ばせる。

「そうだね。心は通じあってると思う。この子は私の友達で、何より一番大切なパートナーだし」

 悪戯好きな所に困ることもあるけれど。最後に付け足されたキヅカの言葉にコリンクは頬を膨らませると、自身の顎を撫でていたキヅカの指をかぷりと軽く噛んだ。

「こら!」

 友人とそのパートナーの微笑ましいやり取りを穏やかな気持ちで眺めながら、は少し残っていたアイスココアを飲み干す。それからふと、今日はクレセリアは来てくれるだろうかと考えた。もしも来てくれたら、次の診察で最後かもしれないのだと伝えたかったのだ。



 それからお互いに満足するまで話した所で、とキヅカはカフェを出て別れた。時刻は三時を過ぎたところで、陽射しはまだまだ弱まりそうにない。

 キヅカは家まで送らなくて大丈夫かと言ったが、はそれに礼を言うと断った。家まで何となく遠回りをしたい気分だったので、それに付き合わせてしまうのは申し訳ないと思ったのだ。


 大通りを少し外れ、細い路地を歩く。一つ道を変えただけで街の賑わいが少し遠くに聞こえて、まるで別世界のようだ。は道に沿って植えられた花などを、じっくりと楽しむように見ながら歩く。そしてそのまま路地を抜けて暫く歩くと、海沿いの道に出た。

 通ってきた路地と同じで、そこの砂浜も人気はなかった。閑散としていて、潮騒だけがよく響いている。陽射しを受けてきらきらと輝く眩しい海に目を細めながら、は道路に沿って設けられたガードレールに近づくとそこに手をついた。潮風が髪を揺らす。

 海を眺めながら、が考えるのはクレセリアのことだった。次の診察で何もなければクレセリアの姿を見ることができるのだからと自分に言い聞かせても、心が逸って仕方がないのだ。

 どこからかやって来たキャモメの群れが波の上で軽やかに潮風に浮かぶのを見ながら、は三日月の化身の姿を想像で描く。
 以前キヅカがミオ神話の本を読んでくれた時、挿し絵のクレセリアの姿はカラフルだと言っていたけれど、一体どんな姿をしているのだろう。そんなことを考えながら、海を心ゆくまで眺めたは家への帰路を辿った。


 カフェを出た時には三時頃だったが、が家に着いた時には四時を迎えるところだった。
 腕時計を目に、思ったよりも帰り道でのんびりしすぎたな、そう思いながらは家に入り、持っていた鞄を置くとホエルコの形の如雨露を手に取り再び外に出た。

▽△▽


 昼過ぎに丘へとやって来たダークライは、家の外のどこにもの姿が見えないこと、家の中からも人の気配が感じられないことから、彼女は街に出掛けているのだろうと考えた。
 菜園の前へふわりと移動すると、オレンとモモンの実を一つずつもぐ。ゴスの木は、実をつけるにはまだ少し時間が掛かりそうだ。そんなことを考えながら目立たないように家の陰に立つと、オレンの実を齧った。オレンの実を食べ終えると、続いてモモンの実に口をつける。

 そうして木の実を齧り、遠くの青い空をムックルかポッポのように見える鳥ポケモンが数羽飛んでいくのをぼんやりと眺めていると、ゆっくりと時間が過ぎていく。


 四時を過ぎる頃になって、何やら人の気配を感じたダークライはぱっと近くの影へと身を潜めた。それから影を伝い、気配を感じた方をこっそりと窺う。すると、が家に入るのが見えた。
 そのまま暫く待っていると如雨露を手に彼女が外へと出てきたので、ダークライは家の影から近くの木の影へと移動する。

 水の入った如雨露を抱えるようにしてやって来たの姿を眼で追いながら、声を掛けるタイミングを計る。そして菜園までがやって来て、ゴスの木の前にしゃがんだ所でダークライは声を掛けた。



 背後から名を呼ばれ、は驚いたらしい。少し肩に力が入ったのが見えた。しかしそれもほんの束の間で、聞こえた声がよく知っている声だと分かったからか、すぐに肩から力が抜けるのが分かった。

「クレセリア!来てくれていたんだね」

 はゴスの木に顔を向けたままだが、明るい声色から笑ったのがダークライには分かった。

「驚かせてしまったな。すまない」

 近くの木の影から少し体を覗かせてそう言うと、は如雨露を傾けて水を撒きながらううん、と小さく首を振った。

「クレセリアに驚かされるのには、もう慣れちゃったよ」

 冗談めかしてそう言うに、ダークライはつい吹き出すように笑う。そしてもダークライのその声に釣られたように笑った。

「それで、今日はいつ頃来たの?……もしかして、結構待たせちゃった?」
「少し前だから大丈夫だ。それと、木の実をいくつかもらった」

 昼過ぎにここへ来て今はもう四時を過ぎる頃だが、ダークライはそう答える。
 正直に数時間前にはいたのだという必要もない。それに別に待つのは嫌いじゃないし、待っている間に退屈していた訳でもないのだから、そう思っての返事だった。

 もしも長い時間待たせてしまっていたのなら申し訳ないな、とは思っていたので、本当のことを知らない彼女はダークライの返答に安心したように小さく息を吐いた。


「……今日は病院に行っていたのか?」

 ダークライの質問に、はぴたりと動きを止めた。それから、そしてその事なんだけれど、と前置きをして話を続ける。

「ちょっと、如雨露を片付けてくるね。そのまま姿を隠していてくれる?」
「分かった」

 ダークライは影の中へと完全に姿を隠すと、もう大丈夫だ、と声を掛ける。そうして振り返ったは、誰もいないように見える丘の上をぐるりと見回すと、空になった如雨露を手に家の中へと戻った。

 暫くして菜園まで戻ってきたは、いつものガーデニングチェアに腰を下ろすと目を閉じた。今度はが「もう大丈夫」と笑う。近くの木の影からすっと音も無く姿を現すと、ダークライはの元へと近寄った。

「……それで?」

 目の前に移動したことを知らせるように、ダークライが声を掛ける。するとは一呼吸置いてから、口を開いた。

「次の診察で問題がなければ、もう大丈夫だって……!」
 
 目を閉じたままではあるが、の顔が綻ぶ。そしてそれを聞いたダークライは、はっと息を飲んだものの、すぐに穏やかな笑みをこぼした。

、良かったな」
「うん!」

 彼女の目が元のように治ったら、自分の姿を、自分のついた嘘を明かさなければならない。その事を忘れた訳ではなかったが、の目がもうすぐ完治するということは、ダークライも素直に嬉しいと思った。

「次の診察が終わったら、クレセリアの顔をちゃんと見てお礼を言わせてね」
「……お礼?」

 ダークライが思わず首を傾げると、は今日の診察の時のことを話した。医師にここ最近の回復が早いと驚かれたこと。その原因の一つに、前向きな気持ちや明るい気持ちがそうさせることもあるのだと教えてもらったこと。

 それらを話して、は宙に手を伸ばした。ダークライは話を聞きながら、彼女の指先を眼で追う。そしての指は少し彷徨って、闇色の指先を優しく捕まえた。

「クレセリアがいなかったら、きっとここまでこんなに回復しなかったよ」

 ぎゅう、との手がダークライの指先を握った。丘の艶やかな緑の草を、そよ風が揺らしていく。草木がさざめく音を聞きながら、ダークライは眼を細めた。

「……私は、少しでもの助けになれたということだろうか」

 それを聞いて、はゆっくりと首を横に振る。

「少しなんてものじゃない。とっても助けられてるよ」


 生まれ持った恐ろしい悪夢を見せる力のせいで誰からも必要とされなかった自分が、例え姿を偽っているからだとしても、たった一人の大切な人を助けられたのだという事実にダークライは泣きたくなった。
 その時、いつの間にか見慣れてしまったこの緑の丘が、高く澄んだ青空が、遥か遠くで太陽の陽射しに輝く海原が、いつもより少し眩しく見えたのは、きっと気のせいではないのだろう。


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