朝靄が立ち込める中、微睡んでいたダークライは眼を覚ました。
何か夢を見たはずなのだが、内容を思い出すことが出来ない。どうでもいいかと首を振ると、ダークライはぐっと伸びをしてから両の手のひらを何度か握ったり開いたりした。
人間と──と手を初めて繋いだあの日から数日が過ぎている。それでもダークライは、あの時の彼女の手のひらの温かさや感触を忘れられずにいた。
それからややあって、寝床にしている森の最奥を離れたダークライは、しんげつ島を囲む森を抜けて島の絶壁に立った。そして絶壁にぶつかっては弾ける波の音を聞きながら、空を仰ぐ。地平線の彼方に沸き上がる入道雲の白が眩しい。
空の青さと太陽に照らされた雲の眩しさに眼を奪われながらも、ダークライはふわりと浮かび上がるとしんげつ島を離れた。
ダークライがの暮らす寂れた丘についたのは、昼よりも少し早い時間だった。
この時間だと、は洗濯物を干しているだろうか?そう考えたダークライは、少しずつ視力を取り戻しつつある彼女に間違っても見つかってしまわないよう、疎らに生える細い木の影を伝うようにしながら丘の上の家へと近付く。すると、あのオレンとモモンの実が植えられている小さな菜園の端の方でしゃがみこむの後ろ姿が見えた。
何をしているのだろうかと思いながら、ダークライはに一番近い木の影に身を潜めると、そうっと声を掛けた。
「……」
ダークライが名を呼ぶと、は驚いたのかびくりと肩を揺らす。それからすぐに嬉しそうな声で「こんにちは、クレセリア」と返事をした。
「目の具合はどうだ?」
木の影から抜け出したダークライがの傍に近寄ると、きっちり目を閉じた彼女がしゃがんだままダークライの方へと振り返った。
「ありがとう。目の調子はとてもいいよ。前よりもよく見えるんだ」
「それは良かった。……今は何をしていたんだ?」
「前よりも目がよく見えるようになってきたから、オレンとモモン以外の木の実を育てようと思って」
しゃがんだの前に眼を向けると、確かに新しく木の実を植えたらしい様子が見てとれた。菜園の端の水をよく含んだ土が少し盛り上がっており、その傍らにはホエルコの形を模した如雨露も置かれている。
「それはいいな。今度は一体何を育てるんだ?」
「ふふ。何だと思う?」
立ち上がり、服の裾を払いながらが楽しそうに口元を緩める。
「……何だろう。検討もつかないな」
思わず肩を竦めながらダークライが笑うと、は少しだけ勿体ぶる様子を見せた。
「……正解は、ゴスの実でした!」
彼女にそうは言われても、ダークライはゴスの実を見たことも口にしたこともなかったのでどんな木の実なのか想像できず、ゴスの実?と首を傾げた。
「ゴスの実は、甘い木の実なんだって。この前街に行って買ってきたんだ」
「甘い木の実……」
甘い木の実という所にダークライが反応すると、甘い木の実が好きだったよね?とは笑った。
「新しく他の木の実を育てるにしても、どうせならクレセリアと一緒に美味しく食べたいなって思って」
はにかむの顔を見つめ、ダークライも釣られたように眼を細める。彼女が、自分のことを思って木の実を選んでくれたことが嬉しかった。
「ありがとう。今から実が成るのが楽しみだ」
「美味しい木の実が成るように頑張るね。食べ頃になったら、一緒に食べようよ」
それからホエルコの如雨露を拾い上げたは、片付けてくるね、と言って家の中へと一度戻った。そして暫くして戻ってきたを眼にしたダークライは、彼女の右手に視線を留める。左手で家の壁を伝うの右手には、何やら硝子の器があったからだ。
「お待たせ」
菜園まで戻ってきたが壁を離れていつものガーデニングチェアに座ろうとしたので、ダークライは椅子の位置を探ろうと宙を彷徨う彼女の左手を取ると、そっと椅子まで誘導して座らせた。
「ありがとう」
礼を言われて、ダークライは「いや」と照れくさそうに眼を逸らす。それから、たった今の手を引いた自分の手をまじまじと見つめた。
考えるよりも先に動き、気付けば彼女の手を自然と引いていた。自分がしたことだというのに、ダークライにはそれが信じられなかった。ついこの間までは誰かに触れられることに怯えていたというのに、まさか自分から誰かに触れられるとは。そんなことを考えていると、ガーデニングチェアに座ったが、抱えていた硝子の器をダークライの前へと差し出した。
「ねえ、クレセリア。もしよかったら食べてみてくれる?」
差し出された硝子の器には、見たところ菓子と思われるものがいくつか盛られていた。桃色に橙色、茶色に緑とカラフルなそれらはダークライの眼を引く。
「……これは?」
橙色のそれを一つ手に取ったダークライが尋ねると、は目を閉じたまま笑みを浮かべた。
「ポフレっていうお菓子だよ。昨日作ってみたんだ」
「が作ったのか」
感心した声色で呟くと、は照れたように少しだけ俯いた。
「お菓子とかあまり作ったことがなくて、ちょっと見た目が歪になっちゃったんだけどね。クレセリアの口にあうといいなあ」
ポフレというらしいそのお菓子は、よくよく見れば彼女の言う通り確かに少し歪な形をしている。しかしダークライはそんなことは気にもならなかった。それどころか、手のひらの上で甘い匂いを漂わせるそれはとても美味しそうに眼に映る。そして橙色のポフレを観察するように眺めた後、ありがたくもらうとしよう、そう告げると一口齧った。
一口齧ってゆっくりと咀嚼してから、ダークライはぱちぱちと眼を瞬かせた。そして残りも食べてしまうと一言、「美味しいな」と呟く。するとそれを耳にしたが、自信なさ気に俯いたままだった顔を上げて顔を綻ばせた。
「……本当!?」
「ああ。もう一つ、もらってもいいか?」
「もちろん!」
ポフレはこの菜園で育てたオレンやモモンの実を使って作ったらしく、程よい甘さと木の実の酸味がダークライは好きだと思った。硝子の器から今度は緑色のポフレを手に取ると、口に運ぶ。は目を閉じていてもダークライが美味しそうに食べているのが何となく分かるのか、嬉しそうに微笑んでいた。
その後、いつものように他愛のない話をしながらダークライがポフレを摘まんでいると、硝子の器は空っぽになった。
「……つい、夢中になって食べてしまった」
話の途中でダークライが苦笑して謝ると、空になった硝子の器を膝に乗せたは、ううんと首を振った。
「美味しそうに食べてくれたのが伝わって、すっごく嬉しかったよ!それに、クレセリアに食べてもらおうと思って作ったものだし」
の嬉しそうな顔に、ダークライの頬も微かに緩む。それからダークライは少し考えると、「図々しい頼みだと思うが」と前置きをしてから言葉を続けた。
「また、このポフレを作ってはもらえないだろうか」
ダークライの頼みには一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに快く頷いた。
「図々しい頼み……なんて言うから、どんなことをお願いされるのかと思っちゃった」
「木の実を育てるのも、こうして菓子を作るのも手間が掛かっているだろう」
の言葉にダークライがそう返すと、彼女は硝子の器を持つ手に少しだけ力を込めた。
「そんなこと、気にしなくていいのに。むしろ私に出来ることがあったら、もっと言ってほしいくらいだよ」
いつも我が儘を聞いてくれているお礼にしては全然足りないくらいだもの。
がそう言うので、ダークライはきょとんとした顔つきで彼女の顔を見つめた。それからすぐに「我が儘?」と尋ねる。の言う「我が儘」に、考えても心当たりが無かったのだ。
「うん。いつもあなたが帰る時、また来てほしいって言ってるでしょう」
ダークライは眼を見開いたが、すぐに呆れたようにふっと息を吐いた。
「はもしかして、私がここに来るのは自分がまた来てほしいと頼むからだと思っていたのか?」
は小さく頷く。それを見て、ダークライは穏やかな表情を浮かべると、の手に優しく触れる。彼女は少しだけ驚いたように肩を跳ねさせた。
「……それこそ、気にしなくていいことだと思うけどな」
ダークライははそう告げて目を閉じるの顔を真っすぐに見つめた。浅葱色の瞳が、太陽の光にきらりと輝く。
と出逢ったのは、偶然の出来事だった。それから彼女に「また来てね」と言われて再び逢いに行ったことも、ほんの気紛れだった。でも今は、違う。ダークライ自身がに逢いたいと思うから、彼女の傍にいたいと思うから、この場所を訪れているのだ。
「私は私がに逢いたいと思うから、ここに来ているんだ」
とたくさんの時間を過ごすようになっていたものの、ダークライがここに来る理由をはっきりと口にしたのはこれが初めてのことだった。そしてそれを聞いたが、自分の手に触れていたダークライの指先を優しく握る。
「……それ、本当?」
「本当、だ」
ダークライが頷くと、はまるで陽だまりのような温かな笑顔を見せた。
「ありがとう。とっても、嬉しいや」
ダークライがに逢いたいと思うこと、話をしたいと思うこと。そしてが笑えば同じように心が弾むように、彼女もまた同じだったのだ。「クレセリア」に逢いたいと思うこと、話したいと思うこと。そして「クレセリア」が笑ってくれれば同じように楽しいと思うことも。
そのため「私は私がに逢いたいと思うから、ここに来ているんだ」と言われて、は少しだけほっとしたような気持ちを覚えた。
クレセリアというポケモンが三日月の化身と呼ばれるような存在であるということは知っている。それに以前、「人に騒がれるのはあまり好きではない」と言っていたことも覚えていた。
そんなポケモンが、いくらここが人気のない場所だからと言えど誰にも見つからずやって来る苦労は計り知れない。
それなのにここへとこうして何度も足を運んでくれるのは、「クレセリア」は優しいポケモンだから、もしかして自分がいつも言う「また来てほしい」という我が儘を聞いてくれているからなのでは、と思ってしまうことが時々あったのだ。
それを「クレセリア」は今、我が儘を聞いているからではなく、自分の意思でここを訪れているのだと言ってくれた。「クレセリア」が自分と同じ気持ちだということ。そのことを知れて、は心が温まるような心地を覚える。
「私の目が元の視力を取り戻したら、今度は私がクレセリアに逢いに行くね」
微笑んでいたが口を開いたかと思えばそんなことを言ったので、ダークライは驚いたように浅葱色の眼を瞬かせ、それからすぐに細めた。
「……そうか。でも、私は空を飛べるからまだいいが、が私に逢いに来るとなると大変かもしれないな」
「そうなの?」
「海を越えなければいけないからな」
はそうなんだ、と相槌を打ち、それからすぐに「それでも」と言葉を続けた。
「どんなに遠くてもいいの。絶対に逢いに行くよ」
の言葉を耳にしながら、ふとダークライはいつか来る自分のついた嘘を彼女に明かす日のことを考えた。
どんな結末を迎えるかも分からない、避けては通れないその日は、何となく近いような気がしていた。