それでも以前はそれすらも見えていなかったので、はぼんやりと月が見えるだけでも嬉しかった。かれこれ月を眺め出してから一時間は過ぎているのだが、飽きる気配は微塵も感じられない。
あの月は満月なのか、もう少しで満ちるのか、それとも少し欠けているのか。がそんなことを考えていると、不意にどこからか声がした。
「……?」
そのよく聞き慣れた声には驚いた表情を浮かべた後、慌てて目を閉じた。辺りは真っ暗で、何より明るい月すらはっきりと捉えることの出来ない彼女はクレセリアの姿が分かってしまうとは思えなかったが、それでも少しでもクレセリアの姿が見えてしまったらと思ったのだ。
「クレセリア、こんばんは!こんな時間に来てくれるとは思っていなかったら、びっくりしちゃった。どうしたの?」
すぐ傍の木陰から姿を現したダークライは、窓から顔を出しているが目を閉じていることを確認すると近寄る。時々昼前に来ることはあるものの、ここにやって来る時の殆どは昼過ぎで、こうして夜遅い時間にやって来るのは二回目のことだった。一回目は、彼女にみかづきの羽を渡した時である。
ダークライは驚き半分嬉しさ半分といった顔をしている彼女にもう一歩近寄ると、後ろ手に隠していたものを差し出した。
「……これを、に渡そうと思ったんだ」
そう言って夜の闇に似た色の手が差し出したのは、黄色やオレンジ色の明るい色の花で出来た花束だった。ダークライからそれを受け取ったが、右手で抱えるように花を持つと左手で確かめるようにそっと触れる。
「これは花……だよね?」
ダークライがそうだと肯定すると、の顔も花のように綻んだ。
「きっと素敵な色をしているんだろうなあ……。どうもありがとう。でも、どうして急に?」
彼女の質問に少しの間を置いて、「人間のことはよく知らないのだが」と前置きをしてからダークライは答えた。
「……怪我をした時や病気になった時、こうして花を贈ると早くよくなると聞いた」
話は今日の昼に遡る。しんげつ島を出てミオの街外れへとやって来たダークライは、いつものように人気のない砂浜に降り立つとすぐに近くの木々や草の影に身を隠した。それからすぐに道なりに移動しようとしたのだが、何者かの気配を感じてその動きを止める。そして辺りを警戒して見回すと、進行方向から人間が二人並んで歩いてくるのが見えた。
いつも人気のない場所を選んで慎重に移動しているので、人間とすれ違うことは滅多にない。珍しいな、と思いながらダークライは木の影からこっそりと顔だけを覗かせると、人間の様子を観察するように見つめる。
どうやら母娘らしいその二人は仲良く手を繋いで楽しそうに話しており、そのままダークライの潜む木のすぐ横をゆっくりと通り過ぎていった。
ダークライは気づくことも無く通り過ぎていった母娘にほっと息を吐き、立ち去ろうとした。しかしそこで思わず足を止めて振り返ってしまったのは、母親の手に眼を引くような美しい花束があったからだ。
「ねえ、このお花を見たらお父さんのけがも治るかなあ?」
「そうね、こんなに綺麗なお花だもの。きっとすぐに治るわよ」
そんな会話をしながら、母娘の背中はダークライの目的地とは反対方向に遠ざかっていく。美しい花の色が眩しい。ダークライはその背中を見送ると、花か、と呟いた。それから花を贈ったらもすぐによくなるのだろうか、と考える。
の目が早くよくなるということは、それだけ「クレセリア」でいられる時間が短くなるということだ。しかしダークライは自分の嘘を打ち明けると決めていたし、何より彼女には早くよくなってほしいと思っていたのである。
少し考えた末にに花を贈ろうと決めたダークライは、次に花をどう用意するかを考えた。生憎自分の棲み処のしんげつ島は花が咲くような環境ではないし、花が咲いているのも見たことがない。
続いて近くのまんげつ島を思い浮かべたが、そこも木々や草は茂っていても花が咲いていた覚えはなかった。そうして暫くの間あれこれと思案したダークライは、ここらの人気がない場所で調達することに決めるとすぐに影を伝って移動を始めたのだった。
あちこちの人気のない場所を野生のポケモンに気を付けながら回ると、いくつかの花を見つけることができた。それらの場所をしっかりと覚えたダークライは、陽が沈むのを待つ。花をすぐに摘んであの丘へと向かいたい所ではあったが、それは危険だと思ってのことだった。
ダークライは体を影のように変えることで地面や壁に潜り込むことができる。ただし潜り込むことができるのは「ダークライ自身」のみであり、例えばダークライが何かを手にしていたら、それは当然ながら地面や壁に溶け込むことはできない。
仮に花を持って地面に身を潜めようとしたら、花を手にしている手だけが地面から生えている状態になってしまうだろう。
以前みかづきの羽をに渡した時、ダークライが珍しく遅い時間にあの丘を訪れたのは、それが理由だった。みかづきの羽を持っている以上身を潜められないので、姿を隠すことなくあの丘へと行かなくてはならなかったのだ。その上みかづきの羽自体が淡い光を放つので、羽をできるだけ両手で隠しながらやって来たのである。
やがて陽が沈むと、ダークライは行動を開始した。明るい内に眼をつけていたいくつかの場所へと向かうと、手際よく花を摘んでいく。そうして出来上がったのが、に渡したあの花束だったのだ。
「ふふ。クレセリアのお陰で、本当にすぐによくなりそうな気がするよ」
花束など作ったことがなかったダークライが渡したそれは、花束と呼ぶには少し拙いものだった。それでも、は心から嬉しそうに顔を綻ばせる。彼女のその笑顔に、ダークライもどこか安心した様子でほっと息を吐いた。
それからがもらった花束を活けるために窓から離れたので、ダークライはふわりと窓よりも高い位置に浮かび上がると夜空を見上げた。真っ暗な夜空に、少し欠けた月が浮かんでいる。
そのまま月を眺めてぼんやりとしていると、数分後に戻ってきたがクレセリア、と呼ぶ声が聞こえたので、ダークライは窓の前に戻った。
彼女が欠伸を漏らしたのは、二人が話し始めて暫くした頃だった。
「……少し話しすぎてしまったな。もう日付が変わろうとしている」
窓の外から室内に飾られた時計へと眼を向けたダークライの言葉に、は驚いた様子でもうそんな時間かあ、と口にした。
「そろそろ眠った方がいい」
「うん、そうしようかな。……クレセリアはもう帰っちゃう……よね?」
の少し元気のない声に、ダークライは首を傾げた。それから何かあったのか、と尋ねると、彼女はぎこちなく笑ってから口を開いた。
「その……、最近、眠る時間がすごく寂しくて……」
恥ずかしそうに俯いたの声はごにょごにょと小さなものだったが、ダークライにしっかりと届いていた。そしてそれを聞いたダークライは、ぱちぱちと眼を瞬かせた後にふっと穏やかに笑う。
「それなら、今日はが眠るまで私が隣にいよう。……それならどうだ?」
みかづきの羽もあるので、彼女に悪夢を見せてしまう心配もない。そう考えたダークライの提案に、の顔が分かりやすい程に輝いた。
「いいの?」
「ああ」
ダークライが頷くと、は小さくやったあ、と声を上げた。その姿に、ダークライの浅葱色の眼がすっと細められる。それからは窓から数歩離れると、口を開いた。
「ええと、この窓からクレセリアは入ることが出来るのかな?それとも、玄関を開けた方がいい?」
「いや、開けなくても平気だ」
その返答にクレセリアの体はあまり大きくないの?とが尋ねたので、ダークライは「壁をすり抜けることができる」と返すと、その言葉通りに壁をすり抜けて室内に入り込む。すると微かに風が吹き、ダークライが室内に移動したことを理解したは感心した様子で、へえ、と声を漏らしてから窓を閉めた。
室内に移動したダークライは、ぐるりと部屋の中を見回す。そしてベッドの横のサイドテーブルに置かれたボードにみかづきの羽がちゃんと飾られていることを確認すると、安心した様子で肩から力を抜いた。
その間には壁伝いに部屋の明かりのスイッチまで移動すると、明かりを消した。闇に包まれた部屋の中を、みかづきの羽の放つ光と窓から射し込む月明かりだけが微かに照らしている。
それからはベッドに辿り着くと、横になった。そのすぐ傍に、窓の前に佇んだままだったダークライは近寄る。はダークライが傍に来てくれたことを気配で感じ取ったのか、穏やかな笑みを浮かべた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」
おやすみ、の言葉をお互いに口にしてどれ程の時間が過ぎたのだろうか。時計の秒針が刻む音が静かに響く中、ダークライはが眠っていないことに気がついていた。しかし彼女は何も言わないし、変にこちらから話しかけて眠気を奪ってしまっても申し訳ないな、と思ってただ沈黙を貫いている。
何か考え事でもしているのだろうか?そんなことを考えた時だった。が静かな声でダークライに話しかけたのだ。
「ねえ、クレセリア」
「……どうした?」
仰向けになっていたは、目を閉じたまま寝返りを打った。彼女の体が、ダークライの方へ向けられる。
「クレセリアに、手はあるの?」
何の脈絡もない突然のその質問に、思わずダークライは首を傾げた。しかし素直にあると答える。それから今度は逆にに質問をした。
「……手が、どうかしたのか」
その質問に、はうーん、と小さく唸った。何かを言おうとして悩んでいる彼女のその様子に、ダークライの眉間に皺が寄る。しかしダークライは急かすことはせずに、が喋るのを大人しく待った。時計の秒針が刻む音が、相変わらず静かに部屋に響いている。
それからややあって彼女が口にしたのは、ダークライが思いもよらない言葉だった。
「……クレセリアと手を繋いで寝てもいい?」
ダークライは眼を丸くすると、ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返す。そして思わず、手を?と聞き返した。
「うん」
返事をしたの顔は穏やかだ。一方で、ダークライは声色こそ落ち着いたものではあったが、内心は焦っていた。
人間と手を繋いだことなどは一度もないし、何よりはクレセリアの姿を知らないと言えど、仮に彼女に触れたとして、これがクレセリアの手なのか?と疑問に思われたら、とも思ったのだ。浅葱色の眼が、自分の鋭い指先を映す。
どうするべきかと逡巡していると、目を閉じたままどこか不安そうな表情を浮かべるの顔が目に入った。その表情を眼にしたダークライは、悩んだ末に決心した様子で「構わない」と短く返事をした。
不安そうな表情を浮かべていたは一転、どこかほっとしたようにも見える顔で微笑んだ。
「ありがとう」
が手を伸ばしたので、ダークライも恐る恐る手を伸ばした。自分から触れる勇気は無かったので、ゆっくりと探るように彷徨う彼女の指先が触れるのを待つ。
そうしてそのままじっとしていると、やがての指先が闇色の手にそっと触れた。
身構えてはいたが、それでもダークライの体が強張る。するとにもそれが伝わったのか、彼女は一度手を離し、それから少しの間を置いてから再びダークライの手に触れた。ダークライは息を飲む。
の指が、闇に溶けそうな色の指先をそっと握った。彼女の指を自分の鋭い指先で傷つけてしまうのではないか、とダークライは心配そうに見つめていたが、やがて肩の力を抜くと眼と閉じた。
「クレセリアの手は、ひんやりしてるね」
二人の手のひらが合わさる。その言葉通り、体温の低いダークライの手はの体温に比べてひんやりとしていた。眼を閉じたまま、ダークライはふっと笑う。
「の手は、温かいな」
ダークライは自分の手を握るの手を優しく握り返した。と出逢い、少しずつ一緒に過ごすようになってから随分と経つ。それでもこうして触れ合うのは初めてのことで、たった今知った自分とは全く違う柔らかい皮膚の感触と体温が、素直に心地よいと思った。
「……寝ないといけないのにね」
不意にそう呟いたがダークライの手を少しだけ強く握る。眠気が覚めてしまったのか、と閉じていた眼を開いたダークライが尋ねると、彼女は微かに首を振った。そういう訳じゃないけれど、とは小さく欠伸をしてから口にする。
「このまま寝ちゃうのが、勿体ないような気がして……。このまま起きていたら、クレセリアはここにいてくれるのかな、なんて思ったりしちゃった」
先程のように再び欠伸を漏らしたが笑みを浮かべる。
それなら、今日はが眠るまで私が隣にいよう。自分が言ったその言葉を思い出しながら、ダークライも釣られたように笑った。
「が眠った後に帰ったとしても、また来るさ」
「それは、嬉しいな……」
睡魔と戦っているのか、の言葉尻は掠れていた。そんな彼女にダークライは二度目の「おやすみ」を告げる。うん、と消えそうな声ではなんとか返事をすると、やがて眠りに就いた。
ダークライはが眠りに就いた後も暫くの間そこにいて、彼女が穏やかな寝息を立てて眠る様子を眺めていたが、どこか名残惜しそうにそっと手を離すと壁をすり抜けて外へと出た。そして空高くに浮かび上がると、棲み処のしんげつ島がある方へと向かう。
体を撫でる夜風は自身の体温と同じようにひんやりとしていたが、それでも手のひらだけはどこか温かいような気がしていた。