みかづきの羽をに渡してから暫く経つ。
元より人や野生のポケモンの気配には細心の注意を払っていたダークライだったが、あのムックルの一件があって以来、より一層注意を払うようになっていた。
身を隠していた地面から姿を現したダークライは、の住む家の周りをぐるりと回ると首を傾げた。何故なら家の周りのどこにも彼女の姿が見えず、また、いつもは大抵開けられている窓も閉まっていたのだ。
物音一つしない家を見て、ダークライは初めてこの場所へやって来た時のことを思い出す。生活感のあまりのなさや寂れた空気から、ここは廃墟なのだろうかと思ったことを。
少しも開く気配のない窓を見て、はキヅカと出掛けているのだろうか?そう考えたダークライは、家の裏の菜園へと移動した。
菜園ではいつも通り、それぞれ青と桃色の木の実が風に気持ち良さそうに揺れていた。菜園の前にふわりと浮かぶダークライの白い髪のような飾りも、風にゆらゆらと揺れる。
いつだったかは忘れてしまったが、以前から「ここに成っている木の実は好きに食べていいよ」と言われたので、ダークライはその言葉に甘えさせてもらうことにした。
モモンの実を一つもぐと、控え目にかじる。よく熟れて甘い果汁が、体に染み渡るようだ。モモンの実などここに来た時くらいしか口にする機会がないので、ダークライはあっという間にそれを平らげてしまった。
モモンの実を食べ終えたダークライは、することもないので空を見上げた。浅葱色の眼に映る空では、白く帯のような雲が風にゆっくりと流されていく。
暫くの間そうして呆けていたダークライだったが、このままでは首が痛くなりそうだ、と考えると再び菜園へと眼を向けた。
そしてもう一ついただくとするか、とモモンの実へ闇色の手を伸ばした時だ。
どうやらが帰って来たらしい、とダークライは思った。続いて予想通りキヅカと出掛けていたのか、とも。
その証拠に、ダークライがいる家の裏とは反対の方から、徐々に丘を上がってくる二つの声が聞こえたのだ。
「、よかったね」
「本当によかった。一緒に行ってくれてありがとう!」
とキヅカの声は家の扉の前で止まった。ダークライは家の壁にぴっとりとくっついて、息を殺して聞き耳を立てる。
「まだどうなるか分からないけれど、頑張るよ」
「なら大丈夫だよ。それじゃあ私は用事があるから、今日は失礼するね」
「うん。またね!」
少しの間を置いて地面に姿を消したダークライが、壁の影に身を潜めながら様子を伺うと、丘を下っていくキヅカの背が見えた。
もう大丈夫だろうと判断したダークライは一度姿を完全に消すと、家の前で友人が去っていった方向を向いたままのの傍に姿を現した。
「……あれ?もしかして、クレセリア?」
声を掛けるよりも先にがそう口にしたので、ダークライは「よく分かったな」と小さく笑った。
「まあね」
ダークライの方へ振り返り、目を閉じたまま少し得意気な顔をするの顔は、心なしかいつもよりも明るく見える。先程のキヅカとの会話に関係があるのだろうか?そう疑問に思ったダークライは、腕を組むと率直に尋ねた。
「……何かいいことでもあったのか?」
「分かる?」
はにこにこと笑顔を浮かべると、ここで立ったまま話すのもなんだし、と家の裏へと向かった。ダークライはその後ろをふわふわと浮かびながらついていく。
「それで、何があったんだ?」
家の裏に移動して早々、気になって仕方がないといった様子のダークライの声を聞くと、ガーデニングチェアに座ったが僅かに身を乗り出して口を開いた。
「ふふ。私ね、もしかしたら目が見えるようになるかもしれないの!」
が満面の笑みで告げた言葉に、ダークライの眼が丸くなる。それから今しがた告げられた言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
「……の目が、治るのか?」
驚きに何度も眼を瞬かせ、それから動揺を隠せない声色で尋ねると、は大きく頷いた。
「そういえば、クレセリアには話したことがなかったね。そもそも私の目が見えないのって、別に病気が原因で失明……とかじゃないんだ」
ダークライはてっきりの目は病気などにより失明したものと思っていたので、どういうことなんだ、と首を傾げた。
「まあ、色々あってさ。強いストレスを感じることがたくさん重なっちゃって……」
が苦笑する。曰く、その強いストレスの元をもう見たくないとずっと思い続けた結果、恐らく疲弊していた心を守るために、ある日を境に何も見えない程に視界がぼやけるようになってしまったらしい。
そして病院に行って分かったのは、失明した訳ではなく、見えているはずなのに脳がその光景を認識できていないということだったらしい。
「クレセリアと初めて逢った日から、どれくらい前だったかなあ。正確には覚えてないけれど……」
が指折り数える。その様子を見つめながら、ダークライは前から気になっていたことを尋ねた。
「……がこんな場所で暮らしているのも、それに関係があるのか?」
はゆっくりと頷くと、目を閉じたまま家の方へと顔を向ける。
「ここって、すっごく辺鄙な場所だよね」
肩を竦めてそう言う彼女に、ダークライは少し迷ったが素直に肯定した。
「……そうだな。初めてここに来た時にはこんな場所に家があるとは思わなくて、廃墟なのかと思った」
ダークライの言葉にが声を上げて笑う。
「こんな所に住んでいるのも、その色々あったことが理由なの。ストレスの原因から離れるのがまず先決ってことで、住んでいた街からここに引っ越したんだよね。ここの家、私のおばあちゃんの家なんだ」
今は違う地方にいるけれどね、という彼女の言葉にダークライは相槌を打った。は話を続ける。
「この家は使っていないから、目がよくなるまで住んだらって貸してくれたんだよね。……それで話は戻るのだけど、さっきキヅカに病院まで一緒に行ってもらったんだ」
は風に遊ぶ髪をそっと抑えながら、穏やかな口調で話す。
「今までは、また見えるようになることはないって言われたらどうしようって思っちゃって、行くのが怖かったんだよね。ここで暮らすようになってストレスの原因から離れたからって何度か目を開いたこともあるけれど、一度もはっきりと見えたことはなかったし……。でも今日病院で、また見えるようになる可能性は充分にありますって言われたんだ」
明るい口調で語る彼女の様子を見つめながら、ダークライは質問する。
「……でも、今まで怖いと思っていたのに、何故今日は病院に行こうと思ったんだ?」
するとは穏やかに笑って、はっきりとした口調で言った。
「それはね、あなたにみかづきの羽をもらったからだよ」
ダークライの驚いた顔に当然ながらが気づくこともなく、穏やかな表情のまま彼女は続ける。
「出逢った時から、私を助けてくれたポケモンはどんな姿をしているんだろうってずっと気になっていたの。でも、どうせ目は見えないからって諦めてた。けれどみかづきの羽を貰って、それに触れる度にやっぱりこの羽の持ち主を……クレセリアのことを知りたいって思ったんだ。だから、勇気を出して前に進まなきゃいけないなって」
の真っ直ぐな言葉に、ダークライは思わず黙り込んだ。彼女の「どうせ目は見えないからって諦めていた」「勇気を出して前に進まなきゃいけない」という言葉が、やけに胸に響く。
ダークライは最初から諦めていたという彼女の姿が、まるで今の自分のようだと思った。
に本当のことを言わなければならないと思う一方で、心の奥底ではこのまま黙っていれば彼女の傍にいられると思う自分もいた。それは、ただ傷つくことを恐れて最初から「本当の自分を認めてもらうこと」を諦めているだけだったのだ。
が勇気を出して前に進んでいるのに自分ばかり立ち止まってはいられない、と、ダークライは暗い気持ちを振り払うように首を振る。
前を向く彼女の姿が、いつまでも同じ場所で足踏みをしているダークライの背中を確かに押したのだ。
──の目がまた元のように見えるようになった時、彼女に自分がついた嘘のことを打ち明けよう。
そう意を決したダークライは、に眼を向けると口を開いた。
「、一つ頼みたいことがある」
突然沈黙を破ったかと思えばそんなことを言ったからか、は少し驚いたようだった。しかしすぐに口角を上げると、「どうしたの?」と首を傾げる。
「……の目がまた元のように治るまでは、私の前では目を閉じていてもらえないだろうか」
ダークライの言葉に彼女は不思議そうな表情をしたが、特に深く考える素振りも見せず、素直に頷いた。
「うん、分かった。クレセリアがそうしてほしいなら、そうするよ。それにクレセリアの姿を見られるのは、ちゃんと見えるようになった時のご褒美なんだって思えば、もっと早く治りそうな気がするしね」
無邪気に笑った彼女に、ダークライは少し安心した様子で息を吐いた。それから晴れ渡る青空を見上げる。
に自分のついた嘘を打ち明けて、例えそれがどんな結果になろうとしても、後悔だけはしたくない。そう思いながら、ダークライは静かに眼を閉じた。その瞼の裏に、今までの臆病な自分の姿が映る。
そしてその姿は、ふっと笑うとやがて見えなくなった。