野生のムックルに悪夢を見せてしまったその日の夜、棲み処に帰ったダークライはしんげつ島の上空に浮かんでいた。
 真っ黒に塗り潰された夜空には大きな三日月が淡く輝き、その周りを飾るように星達が散らばっている。

 夜空を見上げていたダークライは、ふと自分のせいで悪夢を見てしまったムックルのことを思い出した。
 それから、誰も傷つけたくないから、誰にも悪夢を見せたくないから、そう思ってこのしんげつ島へとやって来たのにこの島を出てうろついていたら意味が無いじゃないか、と自分を責める。その口からは自然と深く長い溜め息が漏れた。

 続いて、今回はたまたま近くで昼寝をしていたムックルだったが、もしも眠っていたのがだったらと考える。悪夢に魘される彼女の姿を想像すると、それはダークライをぞっとさせた。


 けれど、悪夢を誰にも見せたくないのならばどうすればいいのかをダークライは知っている。少し前までそうだったように、誰かがこの島を訪れた時やしんげつの夜以外はこの島から出ずに、閉じ籠っていればいいだけのことなのだ。

 しかし、次に思い浮かぶのはのことだった。
 初めて自分のことを友達だと言ってくれた彼女の笑顔を思い出したダークライの顔が、苦しそうに歪む。

 この島から出なければ誰にも悪夢を見せない。その代わりにには逢えなくなる。

 それは、嫌だった。ダークライは首を力なく振る。


 ダークライは今までずっと自分の心に「彼女の元を訪れるのは、彼女がまた来てねと言うからで、自分は気紛れにその言葉の通りにしているだけだ」と言い訳をしていた。
 しかしこの時、ダークライは漸く自分の心を認めたのだ。彼女の言葉は関係なく、自分自身がに逢いたいと思うからあの場所を訪れているのだ、と。


 一体どうしたらいいのか。頭を抱えて悩むダークライは、ふと顔を上げた。視界の端で、何かが眩く光ったような気がしたのだ。
 月明かりも届かない地平線の遥か向こう、まるで自身の心の奥底のように暗い夜空に眼を凝らす。よく見れば、それは一匹のポケモンであることが分かった。オーロラのような羽から光の粒子を生み出して夜空を渡り、しんげつ島のある方へと向かってくるそれは、三日月の化身と呼ばれるクレセリアだった。

 クレセリアはダークライの視線の遥か先を通り過ぎると、しんげつ島から少し離れた場所にある島へと吸い込まれるように姿を消した。その島の名前は、まんげつ島だ。クレセリアが棲み処にしている島である。

 近くにクレセリアが棲むまんげつ島があるというのは、ダークライがここ、しんげつ島を棲み処に選んだ理由の一つでもあった。
 しんげつ島へ誰かがやって来た時、もしも悪夢を見せてしまっても、近くには悪夢を振り払う力を持つクレセリアがいるお陰で大事に至ることはないのだ。


 ダークライはクレセリアが通った後の光の粒子が少しずつ散乱していく様子を眺めていたが、あることを思いつくとまんげつ島へと眼を向ける。そしてふわりと浮かんだまま暫くの間待っていると、まんげつ島から再び飛び立つクレセリアが見えた。どうやら羽休めをしに棲み処へと戻っただけのようだ。
 クレセリアが遠くに過ぎ去るのを見送ったダークライは、すぐにまんげつ島へと向かった。


 そうして初めて足を踏み入れたそこは、豊かな緑で溢れていた。しんげつ島とは違って島を隠すようには鬱蒼としておらず、月や星の明かりが地面を明るく照らしている。
 潮の香りを乗せて草木を揺らす心地好い夜風にダークライは眼を閉じる。そしてふう、と一息つくと、辺りを見回して目当てのものを探し始めた。

 数十分もしない内に、ダークライは目当てのものを見つけることができた。
 三日月のようにくるりと曲線を描き、淡い光を放つ美しいそれは悪夢を振り払う力を秘めているといわれるみかづきの羽だ。
 これから先自分がどうするべきかは分からないが、悪夢を払う力を秘めたこの羽が何かに役立つかもしれないと思って探していたのである。ダークライは羽を岩陰の隙間から拾い上げると、そっと握り締めた。


 目当てのものを手に入れてすぐにしんげつ島に戻ったダークライは、島の森の最奥、いつも深いもやが立ち込めるその場所でみかづきの羽をしげしげと眺めた。
 月や星の明かりも届かない闇の中でも、みかづきの羽は神秘的な光を放っていた。そうしてその様子を観察しながら、自分はいつまでクレセリアであると嘘をつき続けるのだろうと考える。しかしいくら考えても、その答えは見つかりそうになかった。

△▽△


 みかづきの羽を手に入れたダークライがあの寂れた丘へ向かったのは、それからおよそ一ヶ月が過ぎた日のことだ。
 あの野生のムックルに偶然とはいえど悪夢を見せてしまったことがずっと頭にちらついて、また誰かに悪夢を見せてしまうのではないか、どうすればいいのかと悩んでいる内にどんどん日が経ってしまったのである。
 それでもこのまま何も言わずにの前に姿を現さずにいる訳にもいかず、ひとまずに会ってからどうするべきか決めようと考えて漸くしんげつ島から出たのだった。

 そしてダークライが丘へと向かう一方で、は珍しく夕方前に訪れたキヅカに顔を覗き込まれていた。

、元気ないね。どうしたの?何かあった?」

 親友とも言える友人、キヅカの声にははっとすると首を振る。

「ううん。ちょっと、考え事をしていたの」
「それならいいけれど……」

 ソファに座り、自分の膝の上で頬杖をついたキヅカは隣に座るの顔を見つめた。そしてやっぱりどこか元気がないなあ、と考える。
 いつもはにこやかにしている彼女の顔が、本人は気づいていないようだがしょんぼりとしているのだ。
 キヅカの相棒のコリンクもそのことに気づいているようで、ソファの前で足を揃えて座り、心配そうに尻尾を垂らしてのことを見つめている。

「……なんて言うか、さみしそうに見える」

 頬杖をつくのを止め、腕を組んだキヅカはそう口にする。

「……そうかな?」


 友人の言葉に、はどきりとした。彼女の言葉は、図星だったのだ。
 その原因はやはり、およそ一ヶ月も姿を見せない「クレセリア」にあった。今まではこんなにも姿を見せないことは無かったので、もしかして知らずの内にクレセリアを傷つけてしまうようなことをしたのではないだろうか。それともクレセリアの身に何かあったのではないか。と、心配で仕方がないのである。
 あれこれと考え始めると切りがなくて、の心はどんどん暗く沈んでいくのだ。


 時折こうしてキヅカが遊びに来てくれるとは言えど、今まで殆どの時間を一人で過ごしていたは一人の時間が嫌いではなかった。勿論さみしいと思うことはあっても、「これが当たり前なのだから」と思っていた。
 しかしここ最近はクレセリアと過ごす時間が増えていたので、そのためかは一人で過ごす時間へのさみしさを余計に感じるようになっていたのである。

 自分はこんなに弱かったっけ。そんなことをはぼんやりと考えた。


「まあ、無理には聞かないけれどね。話せるようになったら話してよ」

 聞こえた友人の声には頷く。それと同時に、彼女のこの無理強いをしない距離感をありがたく思った。

「うん……ありがとう」

 コリンクもを元気付けるように立ち上がってソファに飛び乗ると、その頬をぺろりと舐める。
 突然の擽ったさにが楽しそうに声を上げると、キヅカとコリンクも顔を見合わせから安心したように微笑んだのだった。


 キヅカとコリンクが帰ってから数時間が経ち、辺りがとっぷりと闇に包まれた頃だ。家の中でじっとしているのが何となく嫌で、は外に出た。家の外に立った彼女の髪を、涼やかな夜風が撫でて走り去っていく。
 ぐっと伸びをしたは、家の壁に手を伸ばすと裏の菜園へと向かった。


 菜園に置かれたガーデニングチェアへと無事に辿り着いたは、そこに腰を下ろすと木々の葉の揺れる音に耳を澄ます。それから小さな声で呟いた。

「……今日も、逢えないのかな」


 その言葉と共に、が残念そうな顔で小さく息を吐いた時だった。彼女の溜息を攫うように風が吹き、彼女の傍に降り立ったダークライが控えめな声で「」と呼んだのは。それは、ダークライが初めて彼女を名前で呼んだ瞬間でもあった。

「クレセリアっ!?」

 が勢いよく顔を上げる。久し振りだな、とダークライが返事をすると、彼女は驚愕した様子から一転、心底ほっとしたような表情を見せる。そして肩から力を抜くと、小さな声で呟いた。もうここに来てくれないのかと思った、と。

 の呟きにダークライが申し訳なさそうな声で謝ると、彼女は慌てて両手を振る。

「ううん、別に謝らなくていいよ!それよりも、また来てくれてありがとう」

 そうはにかんだを見つめながら、ダークライは自分の右手に眼を落とす。右手には薄暗い闇の中でも光を放つ、あのみかづきの羽があった。

「……手を出してもらえるか」
「手を?」

 は不思議そうに首を傾げたが、素直に片手をゆっくりと差し出した。その差し出された手のひらに、ダークライはみかづきの羽をそっと乗せる。

「……何だろう?ふわふわしてるけれど」

 がみかづきの羽を左手に持ち、右手の指先で形を確かめるように触る。

「何かの羽、かな……?」
「そう、みかづきの羽。悪夢を振り払う力を秘めている羽だ」

 ダークライが頷いて言うと、彼女はみかづきの羽、と繰り返す。それから「悪夢を振り払う力を秘めている」という言葉の意味に気がついたのか、驚いた表情を浮かべた。

「それじゃあ、この羽はクレセリアの……」
「ああ。が悪夢を見ないようにと思ってな」

 はみかづきの羽を大切そうに胸に抱くと、心から嬉しそうに笑った。

「ありがとう、すごく嬉しい。大切にするね!」

 彼女の笑顔に、ダークライはまんげつ島へみかづきの羽を探しに行ってよかったと思った。
 が喜んでくれただけでも探しに行った価値はあるが、何よりこのみかづきの羽があれば、自分の忌々しい力「ナイトメア」で少なくとも彼女には悪夢を見せてしまうことはないのである。

「喜んでくれて良かった」

 ダークライの浅葱色の眼がすっと細められる。それからみかづきの羽の形を確かめるように、指先で羽の輪郭をなぞるを顔を見ると口を開いた。

「……何だか元気が無さそうに見えたのだが、気のせいだったか。大丈夫そうだな」

 この暗闇の中でも夜目のきくダークライは、の傍に降り立った瞬間、彼女の表情が暗く沈んでいたことに気がついていたのだ。の、羽の輪郭をなぞっていた指が止まる。そしてうん、と頷くと彼女は口を開いた。

「ここ最近、クレセリアに逢えなくてさみしかったんだ。もしかして何かしちゃったかな、とか、何かあったのかなって心配もしたし……だから、あなたが来てくれて暗い気分も吹き飛んじゃったみたい」

 照れくさそうに頬を緩めたの言葉は、同じようにここ最近暗く沈んでいたダークライの心の暗いもやを、そっと晴らしていくようだった。


 そしてダークライは何かに気が付いたようにはっとすると、穏やかな眼差しでを真っすぐに見つめた。
 ──誰かに悪夢を見せてしまうのは望まないことだが、何よりも望まないことは、を悲しませることだ。
 あれもこれもと望む必要は無くて、たった一つだけ。そう、例え不特定多数の誰かに嫌われ、疎まれようとも、自分のことを「友達」だと言ってくれた彼女が笑ってくれるのならば、それでいいじゃないか。だったら自分は今までと変わらず、ここへに会いに来よう。
 

 そう決意するダークライの強い意志を秘めた瞳の中で、みかづきの羽が放つ淡い月のような光がきらりと輝いた。


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