自分のものではない名前が、今は自分の名前なのだと理解するまでに時間が掛かった。



「……ねえ、クレセリアってば」

 ダークライがに自分の名前はクレセリアなのだと嘘をついた日から数週間が過ぎていた。

 その間に何度もからはクレセリアと呼ばれたが、それでも当然ながらその名前に慣れることはなかった。
 の呼びかけに「今はクレセリアという名前が自分のものだった」と、はっとしたダークライは、いつものガーデニングチェアに座る彼女を見遣る。その瞼は相変わらず閉じられているが、表情は少し不安そうなものだった。

「えーっと……大丈夫?話、続けても平気?」

 ダークライがああ、と短く返事をすると、彼女はほっとした様子を見せた。


 何の拍子でその話題になったのかは忘れてしまったが、の話の内容は彼女の友人についてだった。

 ダークライはこの場所を訪れた時に何度か見かけたことがあるので、その友人の名前がキヅカということも、その相棒がコリンクであることも知っている。しかし当然ながらはダークライが自分の友人について既知とは知らないので、ダークライに自分と仲のいい友人のことを話していた。

 曰く彼女自身も友人のキヅカも、ミオの出身ではないらしい。それを聞いてダークライは、以前「ミオ神話」の本をキヅカが持ってきた時、二人がクレセリアのこともダークライのことも知らなかったことに納得した。
 ミオ出身の者ならば、この二匹のポケモンのことについては知らない方が珍しいのだ。

 また、二人の付き合いはそこそこの長さらしい。時折一緒に街へ買い物にも行ったりしているそうだ。

「それでね、今日丁度キヅカが来るんだ。良かったら、クレセリアも会ってみない?」

 思わぬの提案に、ダークライは苦笑する。何故なら本当の自分はクレセリアではない。寧ろ友人が恐怖を感じていたダークライなのだ。

「……いや、それは止めておこう」

 人に騒がれるのは、好きではないんだ。そう付け足した言葉は、嘘ではなかった。姿を見られる度に恐れられ、拒絶され、疎まれてきた過去がまた、ダークライの心の奥底で燻るように呼び起こされる。
 は少しだけ残念そうに肩を竦めたが、それじゃあ、と言葉を続ける。

「私がクレセリアと友達だってことも、黙っていた方がいいってことだよね」

 ダークライはその言葉にきょとんとしてしまった。それからゆっくりと彼女の言葉を反芻する。
 友達。その言葉の意味は知っている。しかしと自分が友達だったとは、知らなかった。思いもしなかったのだ。

「友達……」

 ダークライが思わず呟くと、が「私、また何か変なこと言った?」と首を傾げた。

「私とお前は、その、友達……でいいのか?」

 ダークライの声はどこか頼りない、不安の滲む声だった。しかし本人はそんなことに構っていられなかった。気にするべきは、この次に返ってくるの答えなのだ。

「いいのか、って言うより、そうだと思ってたけれど……」

 今度はが苦笑する。

「こうしてたくさん話して、一緒においしいものを食べたりしていたら、もう友達でいいんじゃないのかなあ」

 なんだか私だけが一方的に友達だと思っていたみたいで恥ずかしいのだけど、とは顔を赤らめると俯いてしまった。それを見て、ダークライは慌てて声を上げる。

「いや、違うんだ!友達と言われたのは初めてで……」

 それを聞いたは、赤いままの顔をゆっくり上げる。

「……そっか。私も、あなたが野生のポケモンで初めての友達だよ」

 ダークライの言う「友達」を、人間の友達は初めてだということなのだと解釈した彼女はそうはにかんだ。


 ダークライにとって、友達という言葉はとても甘美な響きを持った言葉に聞こえた。今までたった一人だった自分に、明確な「友達」という繋がりが生まれたのだ。
 それはとても喜ばしいことで、ただ、同時に同じくらい虚しい気持ちを呼び起こさせる。何故なら、今の自分は「クレセリア」なのだ。

 ダークライは眼を伏せる。が友達と言ってくれて嬉しい気持ちと、彼女に自分は正体を偽ってこうして傍にいるのだという気持ちがぐるぐると渦巻いて、胸が苦しかった。
 そしてその苦しい胸の奥で、だから人間に関わるなと言っただろうと、冷静な自分自身の声が響く。


「そういえば、言いたいことがあるんだった」

 の声に、ダークライは知らずのうちに下を向いていた顔を上げた。

「……なんだ?」
「その、クレセリアは私の名前を知っているよね?」

 ダークライはその質問に眼を瞬かせる。当然ながら、彼女の名前は知っていた。初めて逢った日にも名乗っていたのだから。
 。それが彼女の名前だ。しかしそれがどうしたのだろう、とダークライは首を傾げる。

「知っているが」
「良かった!……初めて逢った時に教えたの、覚えていないのかと思ってた。それじゃあさ、クレセリアに名前で呼んでほしいなあって」

 私のこと、お前って言うんだもん。と、は口を尖らせた。彼女にしては、珍しく子供っぽい表情だ。

「……分かった」

 ダークライが素直に頷くと、の顔がぱっと輝く。その顔を見たダークライは、知らずの内に口を開いていた。

「……なあ、もしも……」


 私がクレセリアではなく、本当はダークライなのだと言ったら、どうする?


 しかしダークライのその言葉が最後まで形になっての耳に届くことは無かった。言い終える前に、丘を上ってくる何者かの気配を察したのだ。
 ダークライはすぐに家の影へと溶けるように姿を消した。

「もしも……?」

 は言葉の続きを待ったがいつまでも聞こえないので、クレセリア?と名を呼んだ。しかしダークライは沈黙したままだ。そこへ、聞き覚えのある声が届く。

ー!」

 丘を上ってきたのは、の友人のキヅカだった。その隣では、コリンクが元気よく飛び跳ねるように歩いている。
 キヅカの声を耳にするとは勢いよくガーデニングチェアから立ち上がり、それから辺りを見回した。
 クレセリアはどこに行ったのだろう。人に騒がれたくないと言っていたけれど、上手く隠れたのだろうか?そう思ってのことだった。

「ごめんね、予定の時間より遅くなっちゃった。びっくりしたことがあって……」

 急ぎ足での元にやって来たキヅカは、何かを探るようにきょろきょろしている彼女を見て不思議そうな顔をした。

「どうしたの?そんなにきょろきょろしちゃって」
「あー……、ううん。何でもない」

 は「クレセリアは姿を見られなかっただろうか」と心配に思ったが、どうやらキヅカの様子から察するに、上手く隠れたようだと判断すると曖昧に誤魔化した。

「そう?それならいいけれど」
「とりあえず、家に入ろっか」

 が促すと、キヅカはそうしようかと頷く。そして二人と一匹は並んで歩くと家の中へと姿を消した。


 ぱたんと家の扉が閉まる音を確認したダークライは、そろりと家の影から抜け出した。そしていつも開け放たれている窓の近くへ移動して、こっそりと中の様子を伺う。

 大丈夫だとは思うが、自分の姿をキヅカやコリンクが目にしていないかが気になったのである。そうしてこっそりと盗み見たキヅカやコリンクの様子からして、自分の姿は目撃されていないようだ、と安堵したダークライはほっと息を吐いた。
 それからキヅカが来たのならば帰ろうかと思ったが、先程「もしも」とに言いかけたままだったことを思い出す。


 もしも私がクレセリアではなく、本当はダークライなのだと言ったらどうするのか。

 その質問の答えは知りたいような気もするし、知りたくないような気もした。答えを知るのは恐ろしいが、それと同時にあの嘘をついた日からずっと胸の奥底で鎮座する、この痛みから開放されるのならば、とも思ってしまうのだ。

 そよそよと優しい風が吹き、ダークライは空を見上げた。自分の胸中とは正反対の晴れ晴れとした青空が眩しくて、眼を細めると溜め息を吐く。


「そういえば、さっき言っていたびっくりしたことがあって……って、何があったの?」

 窓から聞こえたのは、の声だった。続いてキヅカの声が届く。

「それがねー……、ここに来る途中の道で、野生のムックルが倒れててさ。とても苦しそうだったから放っておくことも出来ないし、ポケモンセンターに連れていったの」
「へえ。どうしたんだろう。他のポケモンと争って怪我したとか?」

 の問いに、キヅカがううん、と少し暗い声で答える。そして次に聞こえたのは、ダークライに衝撃を与えるには充分な言葉だった。

「ムックルは眠っていただけだったから、ポケモンセンターに連れていったら少ししてから眼を覚ましたんだ。でもね、どうやら悪夢を見てそれに魘されていたみたい。ジョーイさん曰く、これはナイトメアによるものかもしれませんねって……」

 ダークライの眼が見開かれる。そしてぎこちなく首を動かすと、開け放たれている窓に眼を向けた。

「ナイトメア……?」

 の不思議そうな声。キヅカがうん、と言葉を続ける。

「ほら、前に読んだミオ神話。あれに出てきたダークライってポケモンの、悪夢を見せる力だって」
「それが、ナイトメアって言うんだ」
「私もジョーイさんに聞いて初めて知ったんだけれどね」


 ダークライは顔をしかめた。姿を隠し辛い危険があるのは分かっていても、この場所を訪れる時に昼間を選んでいるのは、出来るだけナイトメアの力が誰にも及ばないようにするためだったのだ。だというのに。

 不運なことに、そのムックルはダークライがここにやって来る時、ナイトメアの力が及んでしまう範囲内で眠っていたのだ。

 ここら一帯で野生のポケモンを滅多に見掛けたことが無いから油断していた、と、ダークライは右手で顔を覆った。



「本当にダークライのせいなのかなあ」

 不意に聞こえたの声は、不思議そうな声色だった。

「普段から悪い夢を見ないってこともないしさ」

 がうーん、と首を捻ると、キヅカが苦笑いを浮かべる。

「私も最初はそう思ったんだけどね……。そのムックルは体力も減ってたみたい」

 バトル中に相手に「あくむ」の技で無理矢理悪夢を見せられれば話は別だが、ただ単に眠っていてたまたま悪夢を見ただけでは、寝覚めは悪いだろうが体力を削られることはない。
 「あくむ」の技を自然と覚えられるポケモンは少なく、何よりもこの辺りの野生のポケモンでその技を使えるポケモンはいないのだ。

「なるほどね。それで、そのムックルは元気になったの?」
「うん。元気になって、放されてた」
「そうなんだ、良かったね!」

 の明るい声に、キヅカも笑ったのが聞こえた。そうして二人は全く別の話題を話しだす。



 深く沈んだ心のダークライは呆然としていたが、暫くしてから聞こえた声に息を飲むと耳を澄ませた。

「──それじゃあ、今日はちょっと早いけど帰ろうかな」

 どうやらキヅカはの様子を見に来ただけだったようで、もう帰るらしい。ダークライが姿を消すと、数秒後に玄関の扉が開く音がした。

「今日も来てくれてありがとう。気を付けてね」
「また来るね。も気を付けなよ」

 外に出た二人のそんなやり取りがダークライの耳に届く。

「ダークライが近くにいたかもしれないんだからさ」

 そう付け足したキヅカの声は、心からを心配するような声だった。

「大丈夫だって!心配しすぎだよ」
「いつもそう言うんだから!」

 キヅカがの髪をわしわしと手荒に撫でると、がきゃあと楽しそうに声を上げた。ボールから出ていたらしいコリンクまでもが楽しそうな声で鳴いている。

 ややあって、キヅカとコリンクが丘を下っていくのが見えた。途端に訪れる静寂。


 は友人が去っていった方を向いて名残惜しそうに立っていたが、暫くすると家の裏の菜園の方へとやって来た。

「……クレセリア。まだ、いる?」

 ダークライが完全に気配を消しているからか、には分からないようだ。そこでダークライが地面に伸びる家の影からそうっと姿を現して「ああ」と短く返事をすると、彼女はほっとした様子で口角を上げた。

「帰っちゃったかなって思った。ほら、さっき何かを言いかけてたから」

 何だったのか、教えてくれる?というの言葉に、ダークライは言葉を詰まらせた。


 ダークライの頭の中では、先程思わず口にしそうになった質問がぐるぐると回っている。
 しかしついさっき、この近くで悪夢を見せられたポケモンがいると知ったに自分がダークライであると明かすのは、とても出来そうになかった。

「……いや、何でも……ないんだ」

 結果、からからに乾いた口から出てきたのは歯切れの悪い返事だった。しかしはさして気にした様子も見せず、そう?と首を傾げただけだ。

「まあ、何か聞きたいことがあるんだったら聞いてね」


 彼女の口元が弧を描く。その笑顔に何となくほっとしたダークライは、それと同時に心の奥底で自分を軽蔑する声を聞いた。

 その声は確かに自分の声でこう言っていた。お前は臆病者だ、と。


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