しんげつ島の鬱蒼とした森の奥深く、深いもやが立ち込める場所。眩しい陽射しを幾重にも重なった木々の葉が遮ってくれるそこで、ダークライは珍しくまどろんでいた。
 誰もいない、誰かに恐ろしい夢を見せる心配もないこの場所は、ダークライが唯一こうして眠ることができる場所である。



 浅い眠りに就いていたダークライの体が、何かを感じ取ったかのようにぴくりと動いたのは、昼にはまだ早い時間のことだった。静かに眼を開くと、その浅葱色の瞳で警戒するように森のある一点を見据える。ダークライの鼓動に合わせるように、木々の葉がざわめいた。
 久しぶりに何者かがこのしんげつ島へとやって来たのだ。

 ふう、と小さく溜息を吐いたダークライは、あっという間に辺りを覆う闇に姿を消すと、振り返ることも無くその場を立ち去った。どんな人間がやってきたのかなど、どうでもいいことだった。


 しんげつ島からミオの街外れの小高い丘へ行く道には、すっかり慣れてしまっていた。
 細心の注意を払って人気のない海岸に降り立つと、草むらや木々、海岸沿いに伸びる道路のガードレールの影を伝って移動する。そうしてどんどん街外れに向かうと、あの小高い丘に着いた。

 小高い丘の上のが暮らす小さな家を眼にしたダークライは、おや、と思った。
 家の傍の細い木と木の間には細いロープが張られているのだが、が丁度そこに洗濯物を干していたのだ。

 目が見えないということを忘れてしまうような、慣れた手つきでは足元に置いた籠からタオルを取ると、ぱんと音を立てて広げる。そして着ているワンピースのポケットからクリップを取り出すと、手際よく留めた。
 真っ白なタオルが、丘の上を駆けるそよ風にぱたぱたとはためく。

 暫しの間の様子を観察していたダークライは、ふと彼女の足元にクリップが一つ落ちていることに気が付いた。丘に生える短い緑の草の間で、銀色のクリップがきらりと太陽の光を反射しているのだ。


「……おい。一つ、落としているぞ」

 の元に近寄ったダークライが口を開く。すると洗濯物を干すのに夢中になっていた彼女は、突然声を掛けられたことに驚いて声を上げた。その声にダークライまでもが驚いて、闇の色の肩が小さく跳ねる。

「……び、びっくりした……!」
「……驚かせるつもりは無かったんだが」

 驚かせてすまないとダークライが謝ると、は考え事をしていて全然気がつかなかったのだと言った。それから、こんにちは、と微笑んだ。

「クリップ、落としていたんだね。気がつかなかったなあ」

 ほら、と言いながらダークライがクリップを拾うと、は礼を言いながら手を差し出した。当然ダークライは彼女の手のひらにクリップを置こうとしたが、それを止めるとクリップを握る。そして視線を左右に泳がせると、ややあってから意を決した様子で口を開いた。

「……どうせなら、手伝おうか」

 思わぬダークライの提案に、は驚いた様子を見せた。

「えー!?いいよいいよ。遊びに来てくれたお客さんにこんなことさせられないもの」

 その言葉を聞きながら、ダークライはの足元に置いてある籠を覗く。多くはないが、まだ何枚かの洗濯物が残っているのが見えた。

「二人でやった方が早いだろう」

 ダークライはひょいと籠からハンカチを取る。そして先程のの見様見真似でぱんと音を立てて皺を伸ばすと、彼女は申し訳なさそうな顔で「それじゃあよろしくお願いします」と言ったのだった。



「あなたのお陰で、すぐに終わって助かっちゃった」

 昼に差し掛かり、空になった籠を片付けたはいつものガーデニングチェアに座るとそう言って笑った。

「それは良かった」

 そう答えてから、ダークライはにもらったモモンの実をかじる。そして、オレンの実もすっきりとした後味で美味しいのだが、モモンの実の方が好みだな。などと考えながら、空を見上げた。高く澄んだ青空を、白い雲がゆったりとした速度で流れていく。
 そこでふと思い出したのは、しんげつ島にやって来た「誰か」のことだった。島に来た人間は、もう帰っただろうか。それともまだ探索をしているのだろうか。何にせよ、早い所帰ってくれるといいのだが……。


 ぼんやりと考えを巡らせるダークライの意識を引き戻したのは、の「あのね」という少し控えめな声だった。

「……どうした?」

 ダークライが不思議そうな声色で聞き返すと、は迷う素振りを見せる。一体どうしたのか、と観察するように眺めていると、彼女は漸く口を開いた。

「前にも聞いたことがあるけれど……やっぱり、あなたの名前を聞いたらだめかなあ」

 寂れた丘の上を、そよ風が駆ける。その風は疎らに生えた木々の葉を揺らして音を立てた。ダークライの心もまた、同じようにざわめく。


「私の名前……」

 ダークライは眼を見開いて思わず呟く。するとはうん、と静かに頷いた。


 前にも尋ねられ、はぐらかしたことをダークライは思い出す。それからの顔をまっすぐに見つめた。

 ──私が「ダークライ」だと正体を明かしたら、彼女は一体どうするのだろう。彼女ならば、今までと変わらずに接してくれるのではないだろうか?
 そう、自分の正体が人々に悪夢を見せると伝えられ、恐れられているダークライだとしても……。

 いつだったか、友人のキヅカと「ミオ神話」を読んだ時のの様子をダークライは思い出す。しかし、すぐにその都合のいい考えを払うように首を振った。

 ──いざ本物のダークライというポケモンを目の前にして、はたして彼女はそのまま変わらない態度でいてくれるのだろうか。
 そもそもこんなことで悩むくらいなら、どうして人間に自ら関わってしまったんだ。
 人間が自分の姿を目にした時の冷たい目を忘れてしまったのか。人間に関わっても、自分が傷つくだけだろう。何度もそうやって自分に言い聞かせてきたというのに。


 そう、あれこれと考えるダークライの思考を塗り潰していくように、昔、偶然にも人間に姿を見られた時の嫌な記憶がじわじわと蘇る。思わず顔をしかめると、が口を開いた。

「えっと……どうかした?」

 ダークライが突然黙り込んでしまったからか、は心配そうな表情を浮かべていた。はっとしたダークライは、彼女を見つめ返すと慌てて言葉を紡ぐ。

「私の名は……」


 ──私はもしも逢えるとしたらクレセリアがいいなあ。
 ──やっぱり、ダークライはちょっと怖く感じちゃう。

 不意に思い出したのは、の友人キヅカの言葉だった。浅葱色の瞳に、暗い影が差す。

「……クレセリア、だ」

 もしも彼女がダークライという名を聞いて怯えたり騒いだりするのなら、もう二度とこの場所を訪れなければいい話だ。
 その時はというこの人間も所詮、今まで見てきた人間と同じだったのだと思えばそれで終わりじゃないか。

 そう思ったというのに、最後の瞬間で躊躇したダークライは思わず嘘をついてしまった。


 ダークライは人間のことが好きでも嫌いでもない。ただ姿を目にする度に怯えられ、騒がれ、そして疎まれるのが面倒だった。
 だから自ら人間には関わらないようにただ一人ひっそりと生きてきたし、今まで他者に拒絶されても平気な振りをしてきた。

 それなのに確かに今、ダークライは「に怯えられ、拒絶されること」を面倒だと思うよりも、心の奥底で恐ろしいと思ってしまったのである。

 俯いたダークライの手は知らずの内にきつく握り締められていて、鋭い指先がぎりぎりと手のひらに食い込んでいた。それなのに不思議と痛むのは、手のひらよりも心臓の方だった。何かに握り潰されそうな錯覚を覚える程に、胸が苦しいのだ。


 しかしそんなことを知らないは少しの間を置いてから、俯くダークライの前ではっと息を飲む。

「クレセリアって、あの、悪夢を払う力があるって伝えられるポケモン……?」

 ダークライはゆっくりと顔を上げる。胸の痛みに耐えるその顔はしかめられていて、浅葱色の眼は苦し気に細められていた。

「ま、まさかあなたが、クレセリアだったなんて……!私、一度でいいからクレセリアに逢ってみたいと思っていたの!」

 の瞼が閉じられていなかったのなら、きっとその瞳はきらきらと輝いていたことだろう。余程驚いたのか、彼女の手は微かに震えている。

 が驚き、そして感動する一方で、ダークライはひどく後悔した。いくらに拒絶されることへの恐れがあったとしても、どうしてこんな嘘をついてしまったのか。彼女が心から喜んでいる様子を見てしまった今、実はクレセリアではなくダークライなのだとはもう、言えそうになかった。


 そうして悩んだダークライは、一つの答えを導き出す。
 それは、このどうしようもない嘘を貫き通すことだった。


「……あんまり感動されると、照れてしまうな」

 微かに震える声で、そう答える。胸の痛みは治まるどころか増してゆくばかりだ。思わずダークライが自分の右手で心臓の辺りをきつく握るも、彼の異変には気が付かず、変わらずきらきらとした表情で口を開いた。

「前にね、友達がミオ神話って本を読んでくれたことがあって……、その時にあなたについて少しだけ知ることができたの。クレセリアは三日月の化身で、悪夢を払う力があって……それから、体の色はカラフルなんだっけ。どう?合ってる?」
「……そうだな」

 ダークライは自分の体に視線を落とす。眼に映るのは、本物のクレセリアとは全く違う闇に溶けそうな色の体だ。顔をしかめたダークライは、再びへと視線を戻す。すると彼女は、ああ、と声を漏らした。

「そうそう。もう一つ、あなたについて知ってることがあるよ」

 ダークライが黙ったままを見つめると、はふっと柔らかな表情を浮かべ、「優しいポケモンだってこと、ね」と笑った。その言葉に、ダークライの眼が大きく見開かれる。

「……どうして、そう思う?」

 黙っている訳にもいかず、ダークライは何とか声を絞り出す。

「だって、初めて逢った日にあなたは困っていた私を助けてくれたし、それにまた来てねって言ったら約束通りまた会いに来てくれたでしょう」

 さっき洗濯物を干すのも手伝ってくれたしね。そう楽しそうに話すのことを、ダークライは見つめ返すことしかできない。

 心の中では違う、優しくなどない。今だって自分自身が傷つくことを恐れて、嘘をついているのだ、と叫んでいるのに、言葉が出てこないのだ。


 一方のは、目の前にいる姿の見えないポケモンがクレセリアであるということに、何の疑いも持たなかった。
 勿論神話や昔話に出てくるようなポケモンだということに驚きはしたが、この優しいポケモンが嘘をつくとは微塵も思っていなかったのである。
 何より漸く目の前にいるポケモンの名を知れたことが、とても嬉しかったのだ。


 「ねえ、クレセリア。あなたの名前を私に教えてくれてありがとう。すごく……、すごく、嬉しい」

 の笑顔は、未だ痛みの引かないダークライの胸を刺す。思わず顔を背けたダークライは、短く「そうか」とだけ返すのが精一杯だった。


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