に「また来てね」と言われた日から、およそ二週間以上が過ぎた日のことだった。

 あの時のの言葉に対するダークライの返事は「考えておく」。たったそれだけで、また来るという確かな約束を交わした訳ではないのだから、別に律儀にの元を訪ねる必要もないだろう。ダークライはそう考えていたのだが、去り際に彼女が口にした「待ってるね」という言葉が、ずっと耳に残っていた。

 人間が自分の姿を目にした時の冷たい眼差しを忘れてしまったのか。人間に関わっても、自分が傷つくだけだろう。
 そう何度も自分に言い聞かせても、初めて言われたその言葉をどうしても思い出してしまうのだ。

 一体自分は何を期待しているのだ。そう自嘲しながらも、その日ダークライは気がつけばあの丘の上にある寂れた家へと向かっていた。



 寂れた家は、やっぱりその日も寂れて見えた。街の賑わいとは正反対にしんと静まり返っている。だからこそ誰にも見つからずにここまで来られる訳だが、こんな場所で何故というあの人間は暮らしているのだろう、とダークライは考えながら静かに家から少し離れた木の隣に降り立った。

 影へと姿を変えて、地面を滑るように用心しながら家に近づく。そうして僅かに開けられた窓の下まで移動すると影から元の姿に戻り、こっそりと家の中を覗いた。

 すると微かに風に揺れる白いカーテンの隙間から、窓のある方に背を向けてソファに座るが見えた。その隣には見覚えのある人間が座っている。初めてと出逢った日に見かけた、コリンクを連れていた彼女の友人だ。
 余程話が盛り上がっているのか、ダークライの元に二人の笑い声が届く。


 今日は友人が訪ねて来ていたのか。タイミングが悪かったな。そんなことを思いつつ、ふう、と小さく溜め息を吐いたダークライは一度窓から離れる。
 それからの友人がいるのなら日を改めた方がよさそうだと判断したダークライだったが、不意に耳に届いた声にぴたりと体の動きを止めた。

「──へえ、ダークライ?」

 の、興味深そうな声だ。

 ダークライは突如自分の名前を呼ばれたことに眼を丸くする。そしてもう一度窓へと近寄ると、窓の隙間からの様子を伺った。の隣で、彼女と同じく窓のある方へと背を向けている友人の手にはあまり厚くない一冊の本がある。
 深い紺色をしたその本の表紙には、金の文字で「ミオ神話」と書かれていた。

「うん。面白そうだから借りたんだけど、その中にクレセリアっていうポケモンと、ダークライっていうポケモンが出てくるの。それが見たこともないようなポケモンでさー。よかったらどんなポケモンか、少し読んでみようか?」

 友人の言葉に、が嬉しそうに笑った。

「本当?シンオウ神話は前に読んだことがあるけれど、ミオ神話は読んだことがないし、そのポケモンの名前も聞いたことがないから読んでみたいな」

 がお願いします、とおどけて両手を合わせると友人は私に任せなさい、とわざとらしく得意気に笑った。

「それじゃあ、読むね。えーっと、ミオ神話。ミオの街は……」

 の友人がゆっくりと本を読んでいく。ダークライはしんげつ島へと戻ろうとしていたはずなのに、その場を離れることができなかった。
 神話として自分がどう語られているのかは大体想像できるが、それでも気になったことは勿論、という人間がダークライというポケモンを知ってどんな反応をするのかが気になったのだ。



 そうしての友人が本を読んでいると、ボールから勝手に出ていたらしいあのコリンクが、玄関の方からのそのそと歩いて来るのが見えた。そしてぴょんとソファに飛び乗ると、おやであるの友人の手を甘噛みする。どうやら退屈で構ってほしくなったようだ。

「──終わり」

 コリンクが甘噛みをしだしてから数分後、本を読み終えた友人は本を傍らに置くとコリンクを抱き上げた。

「もう、邪魔しないの」

 友人がコリンクの頭を撫でながら言う。

「私がキヅカを一人占めしちゃってたから、退屈させちゃったみたい。ごめんね、コリンク」

 の言葉から、あの友人の名前はキヅカというのをダークライは知った。コリンクはが指を差し出すと、ぺろりと舐める。

「退屈したって、してなくたっていつも悪戯ばかりしているんだから。あんまり悪戯をしてると、ダークライが来るかもよ?」

 キヅカがコリンクの顔を覗き込んでにやりと笑うと、焦った顔をしたコリンクの毛がぶわりと逆立った。

 というのも、キヅカが借りてきたミオ神話というこの本にはミオにまつわる様々な話が載っていたのだが、その中には「悪夢を見せるダークライ」、「悪夢を覚ますクレセリア」という伝承が載っていたのだ。
 その伝承の中で語られた、“悪さをする子供の所にはダークライがやってくる”という昔の戒めの部分を、コリンクも聞いていたのだろう。

 勿論それはただの戒めであり、実際に悪さをする子供のところへダークライが現れる訳でも無いのだが、このコリンクはそれを信じたようだ。

「それにしてもクレセリアとダークライかあ。聞いたことがないや。どんなポケモンなんだろう?逢ってみたいなあ」

 毛が逆立ったままのコリンクの背を撫でたがそう言うと、キヅカはさも当然と言うような口振りで「それはクレセリアに、だよね?」と尋ねた。

 するとはううん、と笑って首を振った。

「クレセリアとダークライのどっちにも、かな」

 の言葉に、キヅカがええ、と声を上げる。

はダークライが怖くないの?」

 キヅカが尋ねると、はダークライが悪夢を見せるのだという伝承部分を思い出したのか、少しだけ困ったように笑みを浮かべる。

「……どうだろうね。姿を実際に見た訳でもないから分からないなあ」
「でも悪夢を見せるっていうし……」
「うーん。悪夢を見るのは困っちゃうね。でも、目の前で寝なければ大丈夫なんじゃない?」

 が無邪気に笑う。するとキヅカは肩を竦めた。

「私はもしも逢えるとしたらクレセリアがいいなあ。このミオ神話にそれぞれ挿し絵が小さく載っているんだけど、ダークライは真っ黒で、クレセリアはカラフルなんだよね。だからやっぱり、ダークライはちょっと怖く感じちゃう」

 そうなんだ、とが相槌を打った時だった。退屈なのを我慢しきれなくなったコリンクが、キヅカの手を軽く引っ掻いたのだ。

「こら!」

 キヅカが声を上げると、が不思議そうに首を傾げる。

「コリンクが退屈で仕方ないみたい。ごめん、今日はそろそろ帰るね」
「うん、分かった。今日はいろいろとありがとう!また来てね」

 コリンクをボールに戻したキヅカとが揃ってソファから立ち上がる。そして二人は玄関でまた少しだけ言葉を交わすと、キヅカが手を振って出て行った。扉が閉まると、一気に家の中がしんと静まり返る。玄関から壁伝いにリビングのソファまで戻ると、は腰を下ろしてソファに体を預けた。


 窓の外に佇んだままのダークライは、ぼんやりとの様子を眺めていた。彼女の友人──キヅカはもうこの家を離れ、ミオの街がある方へと見えなくなったが、それでもダークライはに声を掛けるべきかどうか悩んでいたのだ。
 ダークライは考えた末に、やはり今日は帰ろうと窓に背を向ける。

 離れる寸前、ダークライが一度だけの様子を窺うように振り返ると、ソファに座っていた彼女もまた、窓のある方へと振り返ったのが見えた。そして驚くことに、はっきりとした声でこう言ったのだ。

「もしかして、この前のポケモン?」


 ソファから立ち上がり、すこし焦った様子のはソファの背凭れや棚を頼りに窓の方へと向かってくる。
 まさかまたしても彼女に気付かれるとは思わなかったダークライは、窓から一メートル程離れた場所で、まるで体が固まってしまったかのように動けずにいた。その間には窓まで辿り着くと、僅かに開いていただけの窓を全開にした。そして窓から顔を出すと、そっと口を開く。

「そこにいるの?」

 の言葉に、ダークライははっとしたが返事をしなかった。その代わりに、窓の方へと少しだけ近寄る。すると彼女はその気配を感じ取ったのか、いるのね、と嬉しそうに笑った。

「いつ来たの?」
「……たった今、来たところだ」

 いるのがばれてしまったのに黙っているわけにもいかず、ダークライはそう答えた。ここに来てから時間は経っていたが、わざわざそれを伝える必要も無いだろうと判断したダークライは嘘をつく。すると、彼女がほっとした様子で息を小さく吐いた。

「そうなんだ。来てくれてありがとう」
「……」

 があまり嬉しそうに頬を緩めるので、ダークライは実はたった今帰ろうとしたところなのだとは言えなかった。

「それにしても、よく気が付いたな」

 気配を隠していた訳でもなかったが、目が見えないにも関わらず鋭い彼女にダークライが感心した様子でそう言うと、はああ、と声を漏らした。

「……なんとなく、ね。ほら私、目が見えないでしょう?だからその代わりに、気配とかには敏感な方なの」

 失った視力を補うためにその他の能力が優れているのだろうか、そんなことを考えながらダークライは初めて逢った日のことや、その次に逢った時のことを思い出した。
 それらの日も、確かに目は見えていないはずなのにこちらの気配に気が付いていたな、と。

「せっかくあなたが来てくれたのだから、外に行こうかな。ちょっと待っててね」

 そうダークライに告げるとは窓から離れ、壁伝いに玄関へと向かう。そして数分後には、ダークライのすぐ近くへとやって来た。

「待っててくれてありがとう」

 近くに来ていきなりそんなことを言うものだから、ダークライはありがとう?と聞き返してしまった。待っててと言ったのはであって、その通りに待っていただけなのだ。

「私、何か変なことを言った?」

 聞き返されたが不思議そうな声色で尋ねる。
 今まで他者から忌み嫌われてきたダークライからしてみれば、自分の姿が見えないとは言えどこうしてすぐ傍に誰かがいることもそうだし、ましてやありがとうとお礼を言われることも全ておかしなことに思えた。

「そうだな。私からしてみれば、お前は変だ」

 ダークライがきっぱりと言うと、はええ、と不服そうな声を上げた。
 それから変なのかなあ、と首を傾げながらがら彼女はあの菜園がある家の裏へと壁伝いに向かったので、ダークライは思わず小さく笑ってしまいながらその後を追った。



 菜園に置かれたガーデニングチェアに座ったは、あれこれとダークライに話を振った。ダークライは時々短く相槌を打つだけだったが、それでも彼女は楽しそうだ。

 そうして暫くすると、辺りは少しずつ薄暗さを増していく。

「それでね……」

 まだまだ話したいことがあるらしいがそう話を続けようとした時、ダークライは「待て」と言ってその言葉を遮った。彼女がどうしたの、と尋ねると、ダークライは辺りを見回した後、彼女へと視線を戻す。

「もう夕方だ。そろそろ中に戻った方がいい」

 ダークライの言葉に、はひどく驚いたようだった。えっと声を上げると、慌ててガーデニングチェアから立ち上がる。

「もうそんな時間なの?」

 ああ、とダークライが短く返事をすると、が困ったように笑った。

「それじゃあ中に戻ろうかな。……何だか時間が経つのがあっという間に感じるけれど、きっとあなたと話すのが楽しかったからだね」

 が言い放った言葉に、今度はダークライが驚く番だった。当然ながら、今までに他者からそんな言葉をかけられたことはなかったのだ。
 ダークライがまるで固まってしまったように動けずにいることにが気が付くはずもなく、そんなダークライを置いて彼女は壁伝いに玄関の方へと向かってゆっくり歩いていく。

 が玄関に辿り着く二、三メートル手前で、漸くダークライは彼女の後を追った。玄関前でダークライがに追いつくと、丁度彼女が後ろへと振り返る。

 その瞼で閉ざされた彼女の視線の先には、どんどん辺りを覆っていく闇に溶けてしまいそうなダークライが浮かんでいる。目が見えずともは何となく感じられる気配から、そこに「名前は知らない、けれど優しいポケモン」がいるということがちゃんと分かっているようで、にこりと笑みを浮かべた。

「今日はありがとう。また、来てくれると嬉しいな」

 ダークライはこの間と同じように「考えておく」と答えようとした。だが、ダークライの思いとは裏腹に、その口をついて出た言葉は。

「……分かった」

 その一言だった。


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