からだの錆が落ちたことに浮かれたニダンギルが、大量のきのみを切ってしまった日の数日後。その日、食堂のテーブルには普段よりもたくさんのお菓子が並んでいた。
山のように盛られた焼き立てのスコーンと、きのみをたっぷり練り込んだパウンドケーキ、カットされたきのみが盛り付けられたカップケーキに、きのみのジュース。ジャムに至っては何種類もある。
椅子に座ったはカシブのみのジャムをたっぷりとスコーンに乗せると、ゴースの大きな口に放り込んだ。その隣で双子の刀剣の鞘をバシッと叩いたゲンガーが、ゲラゲラと声を上げて笑った。その様子はまるで、「よくやった!」とでも言っているように見える。
お菓子が大好きなゲンガーからしたら、食堂のテーブルにたくさんのお菓子が並ぶこの光景は、夢のような光景なのだろう。そう思いながら苦笑いを浮かべたは、明らかに落ち込んでいるニダンギルに声を掛けた。
「別に悪気があってやった訳じゃないし……。そこまで気にしなくても」
桃色の布を力なく垂らし、涙目になっている双子の柄頭を指先で撫でる。
「それよりもさ、本当にすごい切れ味だったね。びっくりしちゃった! また、困った時には頼りにさせてね」
に褒められて、長いことしょぼくれていたニダンギルはようやく元気を取り戻したようだった。ギィ! と鳴き声を上げて、軽やかにくるくると回る。桃色の布も、風になびく旗のようにひらひらと舞った。
屋敷の仲間たちが集合し、パーティーさながらの盛り上がりを見せる食堂を眺めながら、はすぐ傍でパウンドケーキを啄むチルタリスに話しかけた。
「チルタリス、そろそろいいかな?」
パウンドケーキを飲み込んだチルタリスがこくりと頷いたのを見て、は椅子から立ち上がるとキッチンに向かった。キッチンのカウンターに置いておいた大きなバスケットを手に取ると、すぐに食堂に戻る。すると一番近いところにいたミカルゲがの手の荷物に気が付いたようで、口の端を下げて不思議そうな表情を浮かべた。
「たくさんあるし、美味しく作れたから。よかったら食べてもらおうかなーって」
の言う相手が誰のことか、ミカルゲはすぐに分かったらしい。緑色の口の端を持ち上げると、からだ全体で大きく頷いた。薄紫色の不安定なからだの輪郭が、燃える炎のようにゆらゆらと大きく揺れる。は自身の考えを肯定してくれたミカルゲに目を細め、バスケットの持ち手を握り直した。
「よし。ちょっと出掛けてくるね。お菓子を渡しに行ってきまーす」
この騒ぎの中でも聞こえるように、と張り上げた声。は一斉に集まった視線を受け止めながら、屋敷の仲間たちによく見えるよう、少し重たいバスケットを両手で胸の辺りの高さまで持ち上げる。数秒の間を置いて、ミカルゲと同じくお菓子を渡しに行く相手を把握した屋敷の仲間たちは頷いた。
屋敷から離れた場所にある、木々に囲まれた湖。そこへチルタリスとやって来たは、辺りを見回してから柔らかい草の上にバスケットを下ろした。なかなかの重さだったな。そんなことを思いながら息を吐くと、チルタリスに大丈夫かと気遣うような目を向けられる。ここまでが荷物を手に歩いてきたので、疲れていないか気になったようだった。
これくらい、大丈夫。そう答えてからぐうっと伸びをしたは、湖の岸に近寄った。鏡のような水面に、無数の木々の葉が花弁のように散っている。周囲の景色を映して、緑色に染まった湖。はそこに向かって、静かに口を開いた。
「……こんにちは。えーっと、そこにいるのかな?」
静まり返る空気を壊すことのない、少し風が吹いてしまったら掻き消されてしまうような大きさの声で語りかけたは、耳を澄ませてそのまま待った。
暫しの沈黙の後、不意にどこからともなく風が吹いた。湖を取り囲む緑が揺れて、静寂を抱いていた水面にいくつもの波紋が広がっていく。とチルタリスは顔を見合わせると微笑んだ。どうやら彼は来てくれるようだ、と。
水面に映る緑を切り裂くように、黒い裂け目が現れる。とチルタリスの二人が後退りをすると、大きく口を広げた黒い裂け目から、するりと影が姿を現した。灰色の体に赤い縞模様。黒い翼と金色の装飾。「反転世界」に棲むゴーストタイプのポケモン──ギラティナだ。
空間の裂け目をくぐると同時に、ギラティナがからだの輪郭を変化させた。オリジンフォルムからアナザーフォルムへすがたを変え、その巨躯からは想像がつかないような静かな動作で、湖の岸辺にそろりと六本の足を下ろす。ぶわりと風が吹き、周囲の木々の葉が再度ざわめいた。
「……ギラティナ! こんにちは。どう? 元気にしてた?」
風で乱れた髪を押さえながら、はギラティナへ話しかけた。ギラティナは影のように真っ黒な一対の翼をぴんと伸ばし、ふるりと首を振る。続けての挨拶に応えるように、短く鳴き声を発した。その声は明るく、の隣のチルタリスも、頭の羽をぴんと立てて嬉しそうに鳴き声を上げた。
「そっかそっか。それならよかった」
ともだちの変わりない様子にが口元を緩めると、ギラティナも赤い目をすぅ、と細めた。
それから辺りを見回したギラティナは、とチルタリス以外には誰もいないことに気が付いたようだった。それで、一体何があってここへ? そう言いたげな眼差しを向けられて、は草の上に置いたままにしていたバスケットを持ち上げる。
「ちょっとお菓子を作りすぎちゃって。よかったらどう?」
ジュペッタにサマヨール、それにロトムが作るのを手伝ってくれたんだ。が説明しながらバスケットの蓋を開くと、ギラティナはぐうっと首を曲げた。中身がよく見えるようがバスケットを近付けると、ギラティナは目を閉じて深く息を吸い込んだ。そうしてあまいかおりをたっぷりと吸い込むと、ぐるると喉を鳴らした。
「ちょっとだけ待ってね。今、準備をするから」
バスケットの中には小さなレジャーシートが入れてある。春の野を風に乗って渡る、ポポッコたちの頭の花と同じ黄色のものだ。はそれを広げると、バスケットの中身をレジャーシートの上に並べていく。
さすがに作ったものすべてを持ってくることはできなかったが、それでもジャムの瓶を二つと今朝焼いたばかりのスコーン、きのみをたっぷり練り込んだパウンドケーキと水筒に入れたきのみのジュースを並べれば、レジャーシートの上はいっぱいになった。
ジャムの瓶の蓋を開けていたは、レジャーシートの横で伏せたギラティナに興味深そうな目を向けられていることに気がついた。赤い二つの目が、桃色というよりも明るい紫色のジャムを映している。それをスコーンにたっぷりと乗せたは、「どうぞ」と笑って差し出した。
「これはカシブっていう、とっても甘いきのみで作ったジャムだよ」
ギラティナが顎を引いて、スコーンの上のジャムをまじまじと見つめた。透明で明るい紫色のそれが物珍しいのか、赤い目はいつもより少しだけ見開かれている。ややあってギラティナが大きな口を開けたので、はそこにスコーンを放り込んだ。
ギラティナの口の中に吸い込まれたスコーンは、やけに小さく見えてしまう。ついついが笑みをこぼすと、すぐ隣で同じようにスコーンを啄んだチルタリスに首を傾げられた。
「ううん、何でもない。ただ、口に合えばいいなって思っただけ」
ふうん、と曖昧に頷いて、チルタリスがもう一つスコーンを啄んだ。
どうやらギラティナは、お菓子を気に入ってくれたみたいだ。
二匹が揃ってのんびりとお菓子を食べる様子を眺めながら、はそう思った。カシブのみのジャム瓶は既に空っぽで、もう一つのロゼルのみのジャムも底を尽きそうだ。パウンドケーキは既になく、スコーンも残り一つ。水筒はとうに空になっている。
「また持ってくるね。それか、ギラティナが遊びに来てくれた時にでも作ろうかな」
ギラティナが遊びに来たらみんなも喜ぶよ。が残りのロゼルのみのジャムをスコーンに乗せながら言うと、チルタリスもあくびをしながら頷いた。どうやらお腹が膨れて眠くなってしまったらしい。
最後のスコーンをギラティナの舌の上に落としたところで、も釣られてあくびをした。
「……どうしたの?」
空になった瓶の蓋を固く閉めていたは、ギラティナにじっと見つめられていることに気が付いた。赤い目を見上げて尋ねると、ギラティナは小さく口を開いて微かな声で鳴いた。弧を描く灰色の尾がしなり、草の絨毯を撫でる。
──恐らく、何か言いたいことがあるのだろう。そこまでは分かったものの、ギラティナの伝えたいことが分からず、は頭の上にクエスチョンマークを浮かべてしまう。すると、今にも眠ってしまいそうだったチルタリスがひょこりと起き上がって、の服の裾を嘴で引いた。
「チルタリス?」
チルタリスに服を引かれて立ち上がる。チルタリスはの服の裾を放すとギラティナの隣に移動して、灰色の足にもたれかかった。まるでギラティナに、空に浮かぶ雲の塊がくっついているように見える。「ええと」がギラティナを見上げると、赤い目が細められた。
「……うん、そうだね。ちょっとだけ休ませてもらおうかな。早起きしてあれこれ作ったから、少し疲れちゃった」
伏せたギラティナの、左前足。そこに背を預けたは、もう一度あくびをする。背中から伝わるチルタリスに比べて低い体温は、最初こそひやりとしたものの、すぐに気にならなくなってしまった。
目を閉じればすぐにでも眠れそう。そう思ったの隣で、チルタリスは既に寝息を立てている。
「……ふふ。おやすみ」
それに応えるよう、やわらかな声が頭のてっぺんに降ってきて、は口元を緩めた。
木々の葉が囁く声、頬を撫でる風、背中に感じる灰色の温もり、隣から聞こえる相棒の小さな寝息。それらすべてが心地よくて、あっという間にはまどろみの中に落ちていった。
とチルタリスがなかなか帰って来ないからと、フワンテやシャンデラたちが迎えに来る少し前のこと。