プルリルと嫌な夢

 いつからか日課となっている庭での水やり。その途中できのみの成る木へ向けていた視線を外したプルリルは、屋敷を囲む柵の向こうに誰かが立っていることに気がついた。
 背格好からしてよおく知った人間――ではないことだけは分かる。
 一体誰だろう? プルリルは首を傾げた。
 こんな森の奥深くで見かける人間なんて、彼女以外思い当たらなかったからだ。

 前に屋敷へ侵入した人間のような悪いヤツだったら追い払わないと。プルリルはそんなことを考えながら、見知らぬ誰かへ遠慮なく近づいた。
 桃色のからだはよく目立つ。それ故にプルリルの存在に怪しい人間は気がついているだろうに、その場からちっとも動く気配がない。

 訝しく思ったプルリルがさらに近寄ったことで、プルリルと人間の距離が残り一メートルにも満たないものになる。そこでプルリルは「あれ?」と首を傾げた。それだけ近づいても顔がはっきりと見えないのだ。まるで「くろいきり」がかかっているように、顔だけが何かに邪魔されて認識できなかった。
 何よ、コイツ。ますます訝しく思いながらプルリルは目を凝らす。その時だった。

「プルリル」

 の声ではない、けれど、どうしてか知っている声に名前を呼ばれたのだ。
 途端にプルリルの目に映るすべてのものがぐにゃりと大きく歪んだ。ひどい目眩に耐えきれず、桃色のからだが音を立てて地面に落ちる。うっかりあやしいひかりを見てしまった時のように目が回り、胸の奥で何かがつっかえているような感覚に襲われて息が上手くできない。
 とにかく気持ちが悪くて仕方なかった。

 それでも何とか自身を奮い立たせたプルリルはゆっくり顔を上げる。相変わらず晴れずにいるくろいきりのようなものでその表情は捉えられないものの、目の前の人間が冷たく見下ろしていることだけは何故か分かった。

 どうしてだろう。この人間にこれ以上関わってはいけない気がする。そうだ、もう、この気味の悪い人間は放っておこう。それよりも今、自分は庭へ水やりをしないといけない。だって、そうしないと――。
 ぐるぐると思考を巡らせたプルリルは、目の前の人間から離れようとする。その時だった。

「プルリル」

 もう一度聞こえた呼び声にプルリルは思わず動きを止める。

「……お前はさ」

 プルリルがそうするよりも先に、目の前の人間がプルリルへ背を向けた。
 あ。と、プルリルは息を飲んだ。続けて、目の前の人間が誰であるのか、次に告げられる言葉が何であるかを理解してしまった。頭に鈍い痛みが走る。まるでこのあと起きることにからだが警鐘を鳴らしているようだった。プルリルは必死に首を振る。

 ――やめて。やめて。やめてやめてやめてやめてやめて言わないで言わないで言わないで言わないで聞きたくない聞きたくない言わないで聞きたくないせっかく忘れていたその言葉を言わな――。

「もういらない」

 プルリルの目の前が、真っ暗になった。



 随分と重たく感じる瞼を持ち上げると、「あ!」と驚いた声が耳に届いた。声のした方へゆっくり頭を傾けて視線をやる。そこには今にも泣き出しそうな顔をしているがいた。

「よかった……!」

 あれ、ここは? プルリルが身動ぎをすると、「まだ動いちゃだめ!」とが険しい顔をした。
 全く状況が掴めないまま大人しくその言葉に従って、目だけを動かして辺りを探る。そうすると見覚えのある壁やシャワーなんかが見えて、ここが屋敷の風呂場であることが理解できた。
 浴槽へ張られた冷たい水にプルリルは浸かっていたのだった。

「はあ~~~」

 大きく息を吐き出したが浴槽の縁にもたれかかる。浴槽に触れた箇所から服が水を吸っていくが、にとってそれはどうでもいいことのようだった。
 庭にいたはずなのに風呂場で水に浸かっているこの状況はもちろん、どうしたものかも分からず何だか気まずくなってしまったプルリルは小さく鳴いてみる。
 が指先ですくった水を額へかけてくるので、プルリルは思わず目を閉じた。冷たくて気持ちのいい水が、まるい輪郭にそって流れ落ちていく。

「……気分はどう? プルリル、庭で倒れていたんだよ」

 の言葉を聞いて静かに目を開いたプルリルは、そこでようやく何があったのかを思い出すことができた。


 今日のプルリルの寝覚めは最悪だった。何故なら、とても嫌な夢を見たからだ。
 内容は何も覚えていなかった。けれど、起きた時には胸に確かな不快感が残っていたのだ。
 嫌な夢だから何も思い出さなくていいけれど、何ひとつ覚えていないというのもモヤモヤして仕方ない。眉間にしわを寄せたプルリルは、ずっしりと重くなった気分を晴らすために庭へ行くことにした。

 強いポケモンを手に入れたから。
 それだけの理由でこの森へ置き去りにされた過去を持つプルリルは、ここで暮らすようになって随分と明るくなった。
 それでもプルリルの心の奥底にはいつだって、本人ですらも気がつかないような小さな不安が燻っていた。
 バトルが得意でない自分は、その他の何かで役に立たなければならない。でなければ――そんな不安だ。
 自分と同じようにバトルが苦手な者もいるし、役立たなかったらや屋敷の仲間たちに見捨てられるとか、そういう心配をしたことはない。
 けれど一度深く刻まれた心の傷は、いくら薄れたと言えども無意識の内にプルリルに「役に立たなければならない」と思わせてしまうのである。

 だから、水やりをすることでから「いつもありがとう」「助かるよ」なんて労いの言葉をかけられると、プルリルは「バトルが得意ではない自分でも、ちゃんと役割を果たしている」と心から安心できるのだった。

 自分が役割を果たしていると感じられて心が安らぐので、プルリルにとって庭の水やりはいい気分転換であり、心を落ち着けられる大切な日課なのだ。


 玄関ホールから外へ出ようとしたところで、プルリルの耳に「プルリルー!」という元気のいい声が届いた。振り返ると食堂の方からやってくるが見えたので、朝ごはんを終えたところかしら、なんて思いながらプルリルはが歩いてくるの待つ。

「おはよう。……もしかして、今から庭へ行こうとしてる?」

 目の前に立ったが首を傾げる。プルリルが頷くと、は困ったように笑った。

「さっき天気予報で言ってたけど、今日はこれからすっごく暑くなるんだって! だから、庭に出るなら少し日が落ちてからにしない?」

 私もあとで行くし……。そう言ったの視線を追って近くの窓の外を見る。目に入ったのはにほんばれの空だ。
 既に暑そうだし、これからもっと暑くなると思うと確かに大変だなとプルリルは少し惑う。

「ね?」

 ややあってプルリルが頷くと、は安心したように微笑んだ。
 さて、それならどうしたものか。腕を組んで思案していると、廊下の奥からヒトモシとムウマが現れてのことを呼んだ。二匹の鳴き声に振り返ったが、「あっ」と声を上げる。

「ヒトモシたちに本を読んであげる約束をしてたんだった!」

 一緒にどう? と、視線を戻したに尋ねられ、プルリルは悩んだ末に首を振った。本を読んでもらうのもいいけれど、今は胸に付きまとう不快感を拭うためにもからだを動かしていたい気分だったのだ。

「そう? じゃあ、またあとで」

 ひらりと手を振ったが、ヒトモシとムウマの方へ歩いていく。その背中を見送って、プルリルはもう一度窓の外へ目を向けた。

 ――はああ言ったけれど。日が落ちてから庭へ行った時、水やりが終わっていたら喜ぶんじゃないかしら。それに、えらいねって褒めてくれるかも。
 名案だとひとり頷いたプルリルは、玄関の扉からするりと外へ抜け出した。

 屋敷の外に出ると、熱を孕んだ風がプルリルのからだを撫でた。
 ここから更に暑くなるなんて。玄関の日陰で顔をしかめたプルリルは、日差しにじりじりと焼かれている地面を見やる。触れたらやけどにでもなりそうなそこを暫し見つめたあと、意を決したプルリルは庭へ向かった。

 庭へやってきたプルリルは、さまざまな種類のきのみの中でもできるだけ大きな木の陰を移動するようにしながらみずでっぽうで水を撒いていく。
 だが、水やりを始めてから数十分もしない内にプルリルはヘトヘトになっていた。
 何せ、広い屋敷の庭は同じように広い。いつもはやブルンゲルと手分けをしているので気にしていなかったが、ひとりでこなすにはかなり大変な作業だったのだ。
 おまけにこの暑さのせいで日陰にいても空気はじっとりと熱く、それが技を使い続けるプルリルの体力を少しずつ奪っていたのである。

 少しだけ休もうと判断したプルリルは、小さな木陰でうずくまると息を吐いた。
 周りの森から届くテッカニンの蝉時雨と、庭の草木が風に揺れる音。それらに耳を傾けながらぼうっとしていると、プルリルの思考はやがて今朝見た嫌な夢へと辿り着いた。

 どんな夢を見たんだっけ、とプルリルはやけにぼんやりする頭で考える。
 ――ああ、何かとても嫌なことを言われた気がする。ええっと、確か……。
 嫌な夢の内容を思い出す寸前で、プルリルは何だか目が回るなと思った。続けて、これは倒れるんじゃないだろうかなんて他人事のように考える。

 その次の瞬間、プルリルは気を失った。



 庭で気を失ったプルリルは、今朝見たものと全く同じ内容の嫌な夢――森へ置き去りにされた日の夢をもう一度見たのだった。そうして今に至る。
 あの時のことを夢にみるなんて、と、今度は内容をはっきり覚えていたプルリルは顔をしかめる。

「どこか痛んだりする?」

 その表情を見たは、プルリルの具合がまだあまりよくないと勘違いしたようだった。
 庭にいた時と違って思考ははっきりしているし、目も回っていない。気分もかなりよくなっていたプルリルはゆっくり首を振る。
 
「……本当に?」

 疑うような眼差しを向けられたプルリルは肩を竦めて見せる。たっぷりと張られた水が微かに波立って音を立てた。

「それならいいけれど……」

 眉間にしわを寄せたは、庭で倒れているプルリルを発見した時のことを話し始めた。
 
 ムウマとヒトモシに本を読み終えたあと、は食堂へ水を飲みに行った。
 その際、そこにいたフワライドやサマヨールと「本当に暑いね」なんて話をしていたのだが、何気なく見た窓の外によく知った桃色のからだが見えたので慌てて庭へ向かったのだ。

「……そしたらプルリルが倒れているんだもん。びっくりしちゃった。フワライドとサマヨールが一緒にプルリルを運んでくれたんだよ」

 そこまで話したが、プルリルをまっすぐに見つめるといつもよりも張り詰めた声で「プルリル」と呼んだ。それが嫌な夢のワンシーンと重なって、プルリルはからだを強張らせる。
 このあと何を言われるのか。それを想像するだけでひどく恐ろしくなってしまったプルリルは、俯いて水面に口をつけて息を吐いた。ブクブクと音を立てて泡が生まれては弾けていく。

 ややあって、の手のひらがやさしくプルリルの頬に触れた。

「いつもね、プルリルが手伝ってくれてすっごく助かってるの。でも、別に無理してまでしてほしいわけじゃないんだよ?」

 おずおずと顔を上げたプルリルは勇気を出してを見つめ返す。それから自身の頬へ触れたままの手のひらにすり寄った。

「無理した結果、今日みたいにプルリルが倒れたら嫌だよ。もう本当に、ほんっとうに心配したんだから!」

 自分が無理をしたことに怒っていて、そして倒れたことに悲しんでいる。それがやっと理解できたプルリルは、「ごめんなさい」と意味を込めて小さく鳴いた。
 人間であるにはプルリルの言葉は伝わらないが、それでも彼女にはプルリルが反省しているということが伝わったらしい。肩から力を抜いて微笑んだが口を開く。

「もう少し休んで、ちゃんと元気になったら食堂へおいで。美味しいきのみジュースがあるから一緒に飲もうよ」

 桃色の頭を一撫でしてから立ち上がったが、「待ってるよ」と付け足して背を向ける。元のトレーナーとは違って置いて行かれる恐怖のない背中。それを見つめるプルリルの目元に涙が滲む。
 自分のために怒ったり悲しんでくれたこと。そして待っていてくれること。それらがどうしようもなく嬉しかったのだ。

 ――あとでもう一度に謝って、それからお礼を伝えよう。一緒に助けてくれたフワライドとサマヨールのふたりにも伝えないと。

 そんなことを考えながら、プルリルはあと少しだけここで休んでいこうと目を閉じた。



 しっかり休んで、キンと冷えた甘いきのみジュースも飲み、フワライドとサマヨールの二匹にもお礼を伝えたあと。
 プルリルはやブルンゲル、ヒトツキと一緒に庭へ出ていた。
 日が傾いた庭は日中に比べて随分と過ごしやすくなっていて、手分けをすると庭の手入れはあっという間に終わってしまった。今は庭の手入れの後片付けの最中だ。
 ヒトツキとブルンゲルから「無理はしないように」と言われたプルリルは、肥料の入った袋やゼニガメジョウロ、バケツなんかを片付けるたちの様子を眺めていた。
 たちから庭の木々へ、その次に花へと視線を移す。そうして辿り着いたのは庭を囲む柵だった。

 そういえば、夢の中であの人間が立っていたのは丁度その辺りだったな、とプルリルは思った。
 体の輪郭をなぞる涼やかな風に目を閉じれば、夢の中と同じ姿を思い出すことができた。目を閉じたままでいると、記憶の中のトレーナーが「プルリル」と口を開く。

「……お前はさ、もういらない」

 忘れたのだと言い聞かせて、できるだけ思い出さないようにしていた嫌な記憶。それに、プルリルはふっと息を吐いて笑った。
 ――ええ、そうね。私もあなたはいらないの。

 記憶の中のトレーナーに心の中ではっきりと告げる。たちどころにその姿が薄くなって、ぱちんと弾けたかと思えば見えなくなった。
 胸の奥底でずっと燻っていた何かがようやく消えたような、そんな心地にプルリルは目を開く。


「ふう、お待たせ。片付けも終わったし戻ろうか。……あれ、何かあった?」

 プルリルの元へやって来たが、軍手の土をはたきながら言う。プルリルが目を瞬かせると、はううんと首を傾げた。

「なんか、こう……。すっきりしたような顔をしてるから」

 そこへブルンゲルやヒトツキもやって来て、ふたりへ興味深そうな眼差しを向けてくる。
 
 ――もし、いつかまた今朝のようにあの日のことを夢に見たとしても。その時はつまらない夢を見たなと笑い飛ばせるだろう。
 だって、ここにはがいる。仲間がたくさんいる。随分と気づくのが遅くなってしまったけれど、私に本当に必要なものは、全部、全部ここにあるのだから。

 プルリルが何でもないのだと笑うと、それに釣られたように水に濡れた庭の花たちも風にそよいだ。


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