人間を困らせることがあれば、助けることもある。 ポケモンは本来、自由な野生のいきものだ。そんな自由気ままないきものの中には人間と生きる個体もいる。
人間と暮らすとなると、当然、野生の頃のルールや掟は当てはまらない状況が出てくるのだが、そういった時、彼らはどうするのか。それは、共に過ごす人間の心に触れて、何が自分の正義であって、何が悪であるかを判断するのだ。つまり、新しい棲み処でのルールを見つけるのである。
例えば悪事を働く人間の元にいれば、世間では「悪である」と思われることを「善し」であるとするし、それが「正しいこと」「当然のこと」と思い込む。
正しい人間の元にいれば、勿論その判断は反転する。
退屈な居場所を捨て勝手に屋敷に居着くようになったヒトツキもまた、そうだった。
元のトレーナーである男の元にいた時、ヒトツキの中では「邪魔なものは壊していいもの」「奪えるものは奪っていいもの」「他人に容赦はしないこと」これらのことはすべて正しいことであり、当然のことだと思っていた。
自身のトレーナーがそうだったのだから、そういうものなのだろうと思っていたのだ。
ところが。今まで自分の中で「善し」だったことは、ここではそうでないらしい──ということにヒトツキが気が付いたのは、屋敷に居着いて初日のことだった。
屋敷を囲う森の外に、元トレーナーとその相方が放り出された日の朝。
屋敷で唯一の人間であるは、食堂で朝食を摂りながら「いつの間にか見ない顔が増えてるんだけど」とは口にしたものの、ヒトツキがいることを騒ぎ立てなかった。
それに少しだけ安堵したヒトツキは、ふと、隣でシャクシャクと音を立ててきのみを齧るチルタリスに目を向けた。食物からのエネルギー摂取を必要としないヒトツキは、今まできのみに注意を向けるということがなかった。そのため、カラフルなそれが、何だか物珍しく見えたのだ。きのみを啄んでいたチルタリスは、ヒトツキの視線に気がつくと首を傾げる。
その刹那。ヒトツキは青い布を手のように器用に使い、チルタリスの食べかけのきのみを奪い取った。突然のことに、チルタリスはおろか、屋敷のポケモンたちはぎょっとして、も口に運ぼうとした目玉焼きの切れ端を箸から皿へ落とした。
ふーん、なんだこれ。こんなものが美味いのか?などと思ったところで、ヒトツキは自身に向けられたたくさんの目に気がついた。ちくちくと刺さる視線。居心地の悪さに、ヒトツキが思わずたじろぐ。すると、箸を皿に置いたが、静かに口をひらいた。
「……こら。それはチルタリスのご飯でしょう。人のものを取ったらだめ」
奪えるものは奪っていいもの。他人に容赦はしないこと。そんなルールが「善し」だったヒトツキにとって、それは、ライチュウのかみなりにでも撃たれたような衝撃だった。自分の中の何かが、突然ぐるりと反転する感覚に、ヒトツキの目が回りそうになる。
こおり状態にでもなったかの如く、宙に浮かんだまま固まってしまったヒトツキの様子に、屋敷のポケモンたちは何かを察したようだった。
朝食の後、ヒトツキはここで暮らしていく上でのルールを、屋敷に暮らすポケモンたちに教えてもらった。
ルールといっても大したものはないらしく、屋敷に暮らすポケモンたちはそれぞれ別のことを口にしたが、争い事をしないだとか、ものは壊さない、庭の花壇で鬼ごっこをするな、屋敷の中での水遊びは禁止、お菓子の食べ過ぎはよくない、という、どれもこれも「何だその程度のことか」というものばかりだった。
最後についてはゴーストから聞いたものだが、最早ルールでもなんでもない。
念のため、ヒトツキは今まで自分の中では当たり前だったことが、ここではどうなのかと尋ねた。
しかし、全員が「それはなし」と首を横に振ったので、ヒトツキはまた、雷に撃たれたような衝撃を受けたのだった。
***
ヒトツキが屋敷に居着くようになってから、およそ一週間程が過ぎた日の午後。
微かに聞こえるピアノの音に誘われるように、廊下を抜けてホールへヒトツキが辿り着くと、丁度食堂から現れたから声が掛かった。
「あ、えーっと。ヒトツキ!」
ヒトツキが屋敷に居着くようになってから、直ぐ様図書館で「見知らぬポケモンの名前」を確認したが自信ありげな顔で正解の名前を口にする。
ヒトツキは鞘に収めた刀身をカタカタと揺らした。
「今、暇だったりする? 良かったら一緒に庭に来てほしいんだけど……」
両手を合わせて懇願する彼女に、どうしたものかとヒトツキは考える。
──。この屋敷で唯一の、ポケモンではない存在。パートナーとしてチルタリスを連れている、人間。
屋敷で暮らすポケモンたちに、ここで暮らしていく上でのルールについて尋ねた後、ヒトツキは「あの人間は何なんだ?」とも尋ねていた。
ゴーストタイプのポケモンばかりが暮らす広い屋敷の中で、一人の人間が当たり前のように生活している姿は、ヒトツキの眼にとても異質に映ったのだ。
問い掛けに返ってきた言葉は、「この屋敷で暮らしていく上でのルール」の返答と同じく、それぞれ別々の言葉だった。
友達、仲間、子分、同居人、おや、相棒。相棒と答えたのは彼女が連れているチルタリスだったが、それを除いても殆どが友好的な言葉から、あの人間はここにいるのが当たり前であると受け入れられているらしい。
付き合いがまだないヒトツキは、当然という人間の人となりを知らないので、それらの返答のどれもが「なるほど」と理解できるものではなかった。
ヒトツキは悩んだ末に、全身を揺らして頷いた。彼女が何であるのか、どんな人間なのか、あれらの返答を理解できるきっかけにはなるだろうかと思ったのだ。
ヒトツキが頷くと、は少しほっとしたようだった。
「それじゃあ、早速行こう」
そう言って歩きだしたの後を、ヒトツキは追う。
玄関の扉をくぐり、右手へ回る。屋敷の丁度裏側の、バルコニーの下の庭。
きのみの成る木が等間隔で立ち並ぶそこには、プルリルやブルンゲルがいた。
「二人とも、ありがとうね」
の声に、きのみの成る木に「みずでっぽう」で水遣りをしていた二匹が振り返る。水色と桃色の傍らで、水に濡れたきのみがきらりと陽射しを反射した。
二匹はの後ろにヒトツキの姿を見つけると、おっ、と珍しそうに目を丸くする。
それで、一体どうしたのか。ヒトツキがギイギイと鳴き声を上げ、収めた刀を鳴らすと、が口を開いた。
「ええと、ヒトツキにね、ちょっと庭の手入れを手伝ってほしくて……」
にわの、ていれ。一体何の用事があって庭まで来てほしいと声をかけたのかと思いきや、そんなことで? ヒトツキの困惑した様子に、が苦笑する。
「庭が広すぎて、手入れが追い付かないんだよね……。花やきのみの手入れを優先していたら、ご覧の有り様です」
肩を竦めたが指差したのは、屋敷をぐるりと囲む柵だ。その柵の外にも内側にも雑草が伸びていて、その一部の蔓や葉は柵に巻き付いてしまっている。
「そのままにする訳にもいかないし……。お願い! 雑草を刈ってくれるだけですごーく助かるから!」
ぱん! と勢いよく手を合わせたが頭を下げる。
ふわふわと浮かびながら彼女のつむじを見つめたヒトツキは、稍あってから青い布を鞘に巻き付けると、から数メートルほど離れた。プルリルとブルンゲルも、ヒトツキに視線を向けている。
ヒトツキが勢いよく抜刀すると、錆び一つない刀身が鈍く光った。抜刀した勢いのまま伸び放題の雑草目掛けて突っ込んで、ぐるんと体を一回転させれば、鋭い音と共に大量の緑が舞い上がる。
途端に、後ろから慌てた様子の声が飛んできた。
「あっ! わー! 柵は切らないように、お願いします!」
そうだった。ここでは「ものを壊してはいけない」というルールがあったのだ。
少しばかり気を引き締めたヒトツキは、もう一度勢いよく体を回転させた。
ヒトツキの体の切れ味は素晴らしく、柵に触れることなく、絡み付いた緑をすべて断ち切った。柵の両側で伸び放題だった雑草も、その殆どが綺麗に地面すれすれで切り揃えられている。
「お陰さまで、とてもすっきりしたよ。ありがとう」
ヒトツキによって伐採された雑草を、庭の隅にかき集めながらが言う。聞き慣れない言葉に、ヒトツキは青い一つ目をぱちぱちと瞬かせた。
この屋敷に居着く前──そう、この屋敷に侵入しようとした男の元にいた数日間、彼の頼み事をヒトツキは何度か聞いてやったことがあった。
邪魔だと言われれば、町外れの民家の柵をバラバラに切り刻んだ。少し大きな家の壁も、頑丈な南京錠も破壊した。人やポケモンにこの体を向けたこともある。
けれど、そのどれに対しても、男は特に何も言わなかった。
だからヒトツキはこれが自分の役目であって、当然のことなのだろうと思った。
男に懐いていなくとも、例え退屈であろうとも、これらは正しいことであって、自分がやるべきことなのだと思った。
──だが。
いつの間にか外に出てきたらしいチルタリスが、壁の向こうからひょっこりと顔を出した。その眼にの姿を捉えると、急ぎ足で駆け寄ってくる。
地面を駆ける足音に顔を上げ、チルタリスの存在に気が付いた彼女は、服についた雑草を払うと微笑んだ。
「チルタリス、どうしたの?」
チルタリスは、おなかが空いたのだと高い声で鳴いた。その声に、きのみの成る木を観察していたプルリルとブルンゲルも集まってくる。はチルタリスの言いたいことが分かったらしく、おかしそうに笑った。
「お腹が空いたんでしょ。分かってるよ。サマヨールに手伝ってもらって、ホットケーキでも焼こうか」
の言葉に、チルタリスとプルリルがどよめいた。顔を見合わせた二匹は待ちきれないといった様子で屋敷の玄関に駆けていく。その後を、ワンテンポ遅れたブルンゲルが追った。
「あっ、ヒトツキ、ちょっと待って」
既に壁の向こうに姿を消してしまったチルタリスたちの後に続こうとしたところで、ヒトツキはに呼び止められた。ふわふわと浮かんだまま、ヒトツキはその場でくるりと振り返る。
自分の元へと駆け寄るを見つめながら、ヒトツキは刈り残した雑草でもあったのかと考えていた。
しかし、ヒトツキの隣に追い付いたは、想像していたこととは全く違う言葉を口にした。
「ああ、やっぱり。……ほら、ここに泥がついてる」
が刀身の切っ先を指差した。
そうは言われても、ヒトツキは体の構造上、自分の体の汚れを確認することが出来ない。そこで一番近い屋敷の窓に近寄ると、窓を鏡の代わりに、指し示された辺りを映して確認した。すると彼女の言う通り、確かに体には泥が付いているのが見えた。雑草を伐採している内に付いたものだろう。
窓を見つめるヒトツキの隣で、はポケットからハンカチを取り出した。彼女の相棒の翼と同じ、白色だ。
ヒトツキが白色のそれをじっと見つめている間に、はハンカチでさっと泥を拭う。刀身の体は何ともないはずなのに、何故か少しくすぐったいような気がして、思わずヒトツキはふるりと震えた。
「……これでよし。さ、戻ろうか。チルタリスに遅いって怒られちゃう」
微笑んだが玄関に向かって歩き出す。
ヒトツキはもう一度窓に自分の姿を映すと、何度か眼を瞬かせた。
きっと、この体は人やポケモンを切りつけることは二度とないのだろう。塀や柵を切り刻むことも、鍵を壊すことも、恐らく自分の役目ではなくなったのだ。
泥が拭い去られ、日の光を鈍く照り返す刀身を鞘に収めながらヒトツキは思う。
この場所で暮らす、唯一の人間を形容するいくつかのことば。
友達、仲間、子分、同居人、おや、相棒。ヒトツキにとって、それらのどれが一番しっくりくるのかはまだ分からない。
けれど、彼女がこの屋敷で当たり前のように暮らしていることにはもう、疑問を感じなかった。
「ヒトツキー! 置いてっちゃうよー!」
数メートル先で、自分に向けて大きく手を振る。ヒトツキは慌てて彼女の元に向かう。
鞘に収めた刀身は、まだ少しくすぐったいような気がした。