ギラティナと異世界

湖の水面に突如現れた謎の裂け目に引き込まれたは、気を失っていた。が目を覚ましたのは、裂け目に引き込まれてから暫くした頃である。

「うっ、うう……」

こうこうという、小さな風が吹く様な音では目を覚ました。何度か瞬きを繰り返してからゆっくりと上体を起こすと、頭がくらくらとしたので思わず顔を顰める。それからはっとして辺りを見回すと、は言葉を失った。何故なら、辺りは先程まではまだ昼間だったというのに薄暗く、太陽は疎か空も見えず、さらに周りには所々捻れた何かがぼんやりと浮かんでいる、見たことも無い場所だったのだ。

「何ここ……」

まず初めにが思ったのは、もしかしたら自分は死んでしまったのでは無いだろうかということだった。しかし自分の胸に手を当てると、いつもより幾分早いものの、しっかりと心臓は鼓動している。次には夢ではないかと頬を抓ってみたが、じわりと痛みが伝わっただけであった。

「チルタリス……、みんな……」

自分が裂け目に引き込まれる瞬間に見えたチルタリスの泣きそうな顔や、屋敷の仲間達の酷く焦り驚いた顔を思い出し、は思わず泣きそうになった。しかしは唇をきゅっと噛み締めると、しっかりとした足付きで立ち上がる。ここで泣いた所で、状況は何も変わらないだろうと考え、それならばさっさとここから帰るために、何か方法が無いか探すことにしたのだ。

がいる場所は、細かな岩が平らに均されたまるで道のような所だった。そしてのいる場所は、不思議なことにどうやらこの世界の宙に浮いているらしい。足元を見下ろすと遥か下の方に同じ道のようなものが、くねるように何層にも重なっているのが見えるのだ。この世界はどこまでも広がっているようで、本当に不思議なものだった。が歩いているとまるで重力が無いようにふわりと身体が軽くなったり、逆にずっしりと重くなったりする。さらには後ろを振り返れば、今まで歩いて来た道が逆さまになっていたりするのだ。不思議な所だと訝しく思いながら、はその不思議な世界を、元の場所に帰る方法を見つけるために歩き続けた。

それから暫くの間が歩いていると、の前に何か黒い靄の様なものが立ち込めた。が思わず驚いて足を止めると、それはやがて影の塊のようなものへと形を変える。その影の塊のようなものは、を湖に引き寄せたあの影にそっくりだった。

「な、何なの……」

驚いたが後退ると、驚くことにその影が低く地を這うような声で啼いた。そして突然のその啼き声にが唖然としたまま動けずにいると、その影はやがて宙に浮く一匹のポケモンへと姿を変え、その姿を見たは驚いて声を上げた。何故ならは、そのポケモンの姿を見たことがあったのだ。いつだったか、ムウマにせがまれて読み聞かせた「シンオウ昔話」という本で。

「ギ、ギラティナ……?」

がそう呟くと、の目の前のポケモン───ギラティナは、静かにを見下ろした。を見下ろしたギラティナの朱い眼は、まるで吸い込まれる様な美しさである。はその美しい眼をそっと見返すと、恐る恐る口を開き、あなたが私をここに連れて来たの、と尋ねた。するとギラティナは、こくりと静かに頷く。

「どうして私をここに連れて来たの?私、帰りたいのだけれども」

が眉を潜めながら告げると、ギラティナはゆっくりと首を横に振った。がどうして、と尋ねると、ギラティナはふわふわと宙に浮いたまま、もう一度首を横に振る。その様子に思わずは目を伏せ、溜め息を漏らして俯いた。

「……帰りたい」

はそう呟いてから、仕方なく腰を下ろした。そうして冒頭に至る。

***

暫く経ってもギラティナは何をする訳でも無く、ただの傍でふわふわと宙に浮かんでいる。は「帰りたい」と言った所でギラティナが首を横に振ることはもう分かっていたので、もう帰りたいとは言わなかった。ただ、屋敷の仲間達はどうしていのるかが気になってしまう。

「ねえ……、」

そう声を掛けながら伏せていた顔を上げ、ギラティナを見遣ったは思わず言葉を飲み込んでしまった。顔を上げたことによって見えた朱く美しいギラティナの眼、それをじっと見つめると、ふと何故か酷く悲しそうに見えたのだ。ギラティナが泣いたりしている訳でも無いのに、どうしてかギラティナの眼を見ていると酷く悲しい気持ちになったのである。

「ギラティナ……?」

が戸惑った様子で呼び掛けると、ギラティナは最初に姿を現した時のように、ぐるると低い声で啼いた。

「……私をどうしてここに連れて来たの」

ギラティナが言葉を喋る訳は無いのだが、思わずはそう尋ねていた。ギラティナはの問い掛けに眼を伏せると、静かにほう、と息を漏らす。

「湖に近付いたことがいけなかったのなら謝るから……」

しかしギラティナは先程と同じ様に首を横に振る。てっきり湖に近付いたことがいけなかったのかと思ったのだが、どうやらそれは違うらしい。それならどうしてだろう、とは考えたが、さっぱり分からなかった。は困ったように首を傾げ、それからギラティナを見つめる。すると、先程と変わらずギラティナの眼はどこか悲しげに見えた。眼の色は朱く美しいというのに、どこか暗い影を感じさせるのだ。

「……悲しそうな眼をするんだね」

が腰を下ろしたままギラティナを見上げてそう言うと、ギラティナはの周りを大きくゆっくりと旋回し、それからの方へと顔を向けた。ギラティナが頭を下げたので、とギラティナの視線は丁度同じ高さで交わる。

「……もし良ければ、触れてみても、いい?」

がそっと手を差し出してもギラティナは何も反応を示さず、ただをじっと見つめる。は迷った末にそれを肯定の意として受け取り、ギラティナの頬にそっと触れた。

が恐る恐る触れたギラティナの頬は、生き物とは思えない程に冷たく、まるで氷の様である。はその余りの冷たさに驚きつつもギラティナの頬を撫で、それから顎を撫でた。そして、ふと口を開く。

「湖に私といたチルタリスを見た?」

ギラティナの頬をそっと優しく撫でながらがそう切り出すと、ギラティナは頷いた。

「……あの子、昔からしっかり者でね。わたしが困っていたらいつだって助けてくれたの。でも本当は寂しがりなところもあって、悲しいことがあると隠れて泣いていたっけなあ」

ギラティナは僅かに首を傾げた。は口元に笑みを浮かべ、そんな時はね、と言葉を続ける。

「こうやって頭や頬を撫でてあげたの。そうするとね、すぐに悲しそうな顔なんて止めて、楽しそうに笑ってたなあ」

はギラティナに触れる手を一度止めた。それから、ギラティナの未だどこか影を感じさせる眼を見つめる。ギラティナの美しい瞳から目を逸らさずに、は続けて口を開いた。

「だからあなたも、そんな顔をするの止めてくれると嬉しいな……なんてね」

ギラティナは何も反応を示さない。ただの言葉の一つ一つに聞き入るように、のことを静かに見つめている。

「ギラティナ、あなたとは今日出逢ったばかりで、私はあなたのことを何も知らない。それに神話にも登場するような存在のあなたに向かってこんなことを言うのは、とても痴がましいことだって分かってる。……けれど、私はあなたに悲しそうな顔をして欲しくないって思う」

それにそんな顔をしていると、見ているこっちまで悲しくなるから、とが眉を下げて困ったように笑うと、ギラティナは眼を伏せた。

そしての止めたままだった手にギラティナがそっと頬を寄せると、驚くことにギラティナの伏せられた眼から一粒、涙が流れ落ちたのだ。



───この世界は破れた世界といって、世界を裏側からひっそりと支える影のような存在だった。そんな世界を守っているのが、このギラティナだ。ギラティナはいつからこの世界に自分がいるのか分からない程の、余りにも長すぎる年月をここで過ごしていた。ギラティナはただ、寂しかったのだ。伝説とすら語り継がれる自分が人前に姿を現せば、世界を支える所か混乱させてしまうことは分かっている。
そのため、時折感じる寂しいという感情を押し殺して、湖などの鏡のような場所を通し、世界の裏側とも呼べるこの破れた世界から、賑やかな世界を羨ましく思いながらただ静かに見つめていた。あの街から離れた森にある大きな湖も、ギラティナが時折世界を見つめることに使っていたのだ。

そんなある日、あの湖がやけに賑やかな日があった。それが今日、達が遊びに訪れた日である。賑やかな雰囲気は所謂幽霊というようなものだったり、悪戯好きのポケモンだったり、そしてその賑やかさを羨む淋しがりな何かのように様々なものを惹きつけるというが、ギラティナはまさにその「賑やかさを羨む淋しがりな何か」だった。

湖越しに見る世界は、たくさんのポケモンと一人の人間が楽しそうに遊んでおり、羨ましくて仕方が無い。暫くするとそのポケモン達はそれぞれどこかに遊びに行ってしまったが、それでもギラティナはじっとその場所を見つめていた。ユキメノコとロトムが感じた、敵意の無い何かを羨むような視線はこの時のギラティナによるものだったのだ。

そうして暫くして、森から人間が一人帰ってくるのが見えた。その人間は不安がるユキメノコとロトムに話し掛ける。それからこう言った。───折角来たんだから遊ぼうよ、その言葉を聞いて、ギラティナが今まで募らせた淋しさが溢れ出したのだ。

私もいる。ここにずっといる。誰かに気が付いてほしい。知ってほしい。独りはとても淋しいということを。

そう願うギラティナは、思わず湖に破れた世界へと繋がる入口を作りだし、気が付けばをこの世界へと引き込んでいた。それが、今日のこの出来事のあらましである。



「……寂しい、の?」

ギラティナの言葉や感情がは分かる訳では無いのだが、はなんとなくそんな感じがした。毎日たくさんのポケモン達と触れ合っているからか、様々な表情をなんとなくではあるが読み取れる自信がある。瞳を揺らがせているギラティナの今の表情は、淋しいと言いた気な顔をしていた。するとギラティナはゆっくりと頷く。遠い昔の淋しがり屋で泣き虫なチルットの面影と、ギラティナの苦しそうな表情が重なる。

「……こんな場所に独りじゃ、寂しいよね。……でも、私も淋しいよ」

の言葉に、ギラティナははっとしたような表情を浮かべた。

「湖に置いてきたポケモンはみんな私の大切な仲間で、友達で、家族なの。だから、離れ離れになって淋しい」

ギラティナは頷いた。彼女、を元の世界へ帰さなければいけないことは分かっている。

ギラティナはすっと顔を上げると、何かを念じるように眼を閉じた。すると驚くことにの目の前に、湖に現れたものと同じ黒い渦が現れたのだ。

「ギラティナ……」

ギラティナは再度頷いた。それから、鼻先での背を渦へと向かって押す。

「ありがとう。私、ギラティナがこの不思議な世界にいるんだってこと、もう知ったから……忘れないよ」

が笑うと、ギラティナは驚いた顔をした後に、ふっと小さな息を漏らして眼を細めた。いつの間にか、ギラティナの眼からはあの暗い影が消えている。は渦に向かって一歩を踏み出すと、後ろに振り返った。

「また、湖に遊びに来てもいい?」

ギラティナは低い声で啼き、それから首を縦に振った。

***

森は、もうすぐ夕方の橙色に染まろうとしている。しかしチルタリスも、屋敷の仲間達も力無く岸に座り込んでいた。

チルタリスは項垂れ、ムウマやカゲボウズ、ミカルゲやユキメノコに至ってはぐすぐすと泣いている。が帰って来なかったらどうしよう、とジュペッタが呟くと、帰ってこない訳が無いだろ!とゲンガーが声を荒げ、すぐに悪い、と謝った。フワンテやフワライドは、湖を見つけなきゃ良かった、と沈んでいる。ムウマージは自分に泣き付くムウマを大丈夫よ、とあやしているが、ムウマージ自身も泣きそうな顔をしていた。サマヨールはヨノワールとを助ける手段を相談していたが、手掛かりも何も無いのでどうしようも無い。

が帰ってくるのは、絶望的なのでは無いか。そんなことは思いたくないのだが、が姿を消してからもう何時間も経っているので、誰もがそう思わざるを得ない時だった。チルタリス達がいる湖の岸の傍に、あの黒い渦が現れたのだ。その渦に気が付いたヌケニンとヤミラミが騒ぐと、チルタリス達は一斉にその渦を見つめた。そしてそこから姿を現したのは───

「みんな……!」

が姿を現すと、チルタリス達は同時にに飛び付いた。歓喜の声を上げてぎゅうぎゅうと全員がに飛び付いたので、は尻餅をついて後ろに倒れたが、痛みは気にならない。

「……ただいま!」

が言うと、全員がそれに応えるように鳴く。帰ってこれて本当に良かった、とは心から思い、そして笑った。ぎゅうぎゅうと屋敷の仲間達に抱きしめられながらがふと湖を見つめると、心なしか湖は昼間の時よりも明るく見える。それが気の所為なのかは分からないが、は口元に笑みを浮かべた。

そしてチルタリス達が落ち着き、湖から帰る時のことだ。チルタリス達はを囲むようにして歩いていたが、湖を背にした時に、微かではあるが風の音にも似た地を這うような低い啼き声を聞いた。どうしてそれが風の音では無く、何かの啼き声だと分かったかというと、それは確かにはっきりと「ありがとう」と言ったのだ。勿論はそれに気が付いていなかったので、チルタリス達は首を傾げるだけだった。

しかしその声が、この世界とは別の世界に棲む淋しがりなポケモンの声だとチルタリス達が知るのは、屋敷に帰っての話を聞いてからのことである。


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