昼間は太陽が明るく照り付けるためにまだまだ蒸し暑いのだが、その太陽が地平線の彼方に沈めば幾分暑さは和らぐ。は夕暮れの少し薄暗い、涼しくなった頃に屋敷の庭へと出た。
「もうそろそろ、戻ったら?」
玄関から庭に向かって掛けたの言葉にゆっくりと頷いたのは、毎日庭を見ているヌケニンと、そのヌケニンと仲が良いムウマだった。日々少しずつ育つパンジーは見ていて飽きないらしく、が声を掛けない限り、ヌケニンはしょっちゅう辺りが暗くなるまで庭にいるのだ。二匹がの元までやって来たので、が玄関の扉を開けるとヌケニンとムウマの二匹は並んで中へと入った。そして二匹の後に続こうとしたは、足を止める。日中に使った際、片付けるのを忘れていた如雨露が庭に置かれていることに気が付いたのだ。は一旦玄関の扉を閉めると、庭へと向かった。
ゼニガメの形の如雨露を手に、ふとは空を見上げる。太陽の沈んだ後の空は、既に深い紺と黒が混じりあった色になりつつあった。まるで、深い海の底ような色だ。雲一つ無い夜空に、無数の星の粒が輝いている。それらを眺めてから、淡い光を放って浮かぶ月を見たは、今日は満月か、と一人呟いた。星が輝く夜空には、美しい曲線を描く満月が浮かんでいたのだ。は暫くその美しい満月を眺めていたが、如雨露を片付けると屋敷の中へと戻った。
が屋敷の中に戻ると、ピアノの元にいたムウマージとジュペッタ、ヤミラミが駆け寄ってきたので、は思わず頬を緩める。
「今日は満月が綺麗だよ」
それからがそう告げると、三匹は玄関ホールの壁に並ぶ窓に近寄り、空を見上げた。それから夜空に浮かぶ満月が眼に入ったらしく、三匹は感嘆の声を上げる。そんな三匹の微笑ましい様子に笑みを浮かべながら、は手を洗うために洗面所へと向かった。
「あれ、ヨマワル?」
手を洗っている際に開け放たれた扉の隙間から、廊下をふわふわと移動するヨマワルの姿が見えた様な気がしたは、廊下に向かって声を掛けた。
「ああ、やっぱり」
のいる洗面所を通り過ぎた後わざわざ引き返してくれたのは、やはりヨマワルだった。ヨマワルはのいる洗面所へ、扉の隙間から顔を覗かせる。はタオルで手を拭きながら先程ムウマージ達に言ったように、外で見たけれど今日は満月が綺麗だよ、と笑った。するとヨマワルは首を傾げ、それから布の様な手でに手招きをする。
「……ついて来いってこと?」
ヨマワルはそれに頷いてから、廊下をゆっくりと進み始めたので、はタオルを片付けると慌てて後を追いかけた。ヨマワルは廊下を、ピアノの音が流れ始めた玄関ホールに向かって進んでゆく。そして玄関ホールに着くと、今度は二階へと階段を上っていった。もその後に続く。
「何処に行くの?」
が前を行くヨマワルの背中に声を掛けると、ヨマワルはちらりと振り返った。そして小さくぼんやりとした声で鳴くと、再び前を向く。ヨマワルが漸く止まったのは、二階の廊下の中間辺りにある部屋の扉の前に着いた時だった。ヨマワルはが着いて来たのを確認すると、扉を擦り抜けてその部屋の中に入ってゆく。
「ま、待って!」
とヨマワルが入った部屋は、二階にいくつかある洋室の一つだった。部屋の中に入ったはとりあえずスイッチを押し、部屋の明かりを点ける。
「この部屋に、何かあるの?」
部屋に入ったは、どうしてヨマワルはこの部屋に呼んだのか、不思議に思い思わず尋ねた。するとヨマワルは、部屋の奥の天井を指差す。そしてヨマワルが指差した場所を目を凝らして見つめたは、あ、と声を漏らした。
「……これ、何だろう」
天井の一部をよく見れば四角く線が入っており、またその四角く線で囲まれた部分には小さな金属の輪が付いていたのだ。
「……ああ、もしかして」
には一つ、思い当たるものがあった。以前屋敷の間取り図を見ていた際、この屋敷は何処からか屋根に出られると書いてあったのだ。何処の部屋から出られるかは、間取り図の文字が掠れてしまい分からなかったのだが、はこれがきっとそうなのだろう、と思った。
それならば何処かにあの天井を下ろすための道具があるはずだ、と辺りを見回すと、案の定部屋の隅に、先端が鈎状になっている棒が置いてあった。はそれを手に取ると、鈎状の部分で天井の輪を引っ掛ける。そしてそのままゆっくりと引いてみると、ガシャンと音を立てて四角く線で囲まれていた天井が下がった。それから下がった天井の内側には梯子が折り畳まれていたので、はそれも下ろす。ほんの少し斜めに掛かった梯子を見る限り、やはりここから屋敷の屋根に出られるようだ。
「ヨマワル、教えてくれてありがとう」
が礼を言うと、ヨマワルはの周りをくるりと回った。それから梯子を登るのを促すように、の背中をとん、と軽く押した。
「何だか、どきどきするね」
そう言いながらは、少し埃っぽい梯子に手を掛ける。軋むような音はするがが気にせず梯子を登ると、その先は小さな屋根裏部屋のようになっており、そしてその屋根裏部屋の壁には、人一人が通れそうな両開きの扉があった。はその両開きの扉を、そっと開ける。
「……わあ」
扉を開けると、そこは想像通り屋敷の屋根の上だった。屋根の一番上は端から端まで平らになっており、扉からはそこに出られたのだ。穏やかな風が吹く屋根の上は、この季節でも涼しい。そして扉から顔を出して目に入った満月の美しさに、は息を呑んだ。地上で見た時より遥かに月は近く見え、またその月明かりに照らされる森は何処か幻想的だった。そしてヨマワルはの後ろから顔を出すと、そのまま屋根の上へふわりと移動する。
「……あれ」
屋根の上へ移動したヨマワルへと視線を移したは、思わず驚いた。何故なら、屋根の上には普段あまり見掛けないサマヨールがいたからだ。そしてサマヨールだけでは無い。今までに見掛けたことの無いポケモンもいたのだ。
「フワンテに、フワライドもいたんだね……」
フワンテ達を暫く見つめた後、扉から顔を出している状態だったは、恐る恐る広い屋根の上へと移動する。風の強い日は危険だが、今日のような風が穏やかな日なら平気だろう。それから屋根の上にが座り込むと、ヨマワルがの隣に並んだ。月明かりに照らされて、ヨマワルの赤い一つ眼がゆらゆらと揺れている。
「ヨマワル、この場所を教えてくれてありがとう。……私ね、この屋敷に来て良かったと思うんだ」
ゆっくりとが呟くと、ヨマワルがの顔を覗き込んだ。そんなヨマワルに向かって、は笑みを浮かべる。
「毎日が楽しいし、新しい発見もあるしね。今日だってそう」
がヨマワルに向かって話しかけていると、屋根の上にいたフワンテやフワライド、サマヨールがの周りに近寄って来たので、はフワンテ達へと目を向ける。
「知っているかも知れないけれど……私は。よろしくね」
集まってきたフワンテ達に向かってが言うと、フワンテがぷわわ、と鳴いた。それからは再び、夜空に浮かぶ満月を見上げる。
そしては、この屋敷に来てからのことを何となく思い返した。決して楽なことばかりでは無いし、屋敷はゴーストタイプのポケモン達に棲み処にされているけれど、みんな心優しいポケモン達ばかりなのだ。先程ヨマワルに言った通り、毎日が楽しくて、新しい発見もある。
美しい満月が夜空に浮かぶこの日は、やはりこの屋敷に来て良かったと、が改めて思った日でもあった。