買い物へ行っていたとチルタリスが帰宅したのは昼を過ぎた頃だった。
鞄の内ポケットにしまいこんでいた鍵を取り出したは、銀色のそれを差し込んで少し重たい両開きの扉の片方を開ける。
すると扉の向こう、すぐそこに長い舌をべろんと出したゴースの顔があったものだから、は思わず「わ!」と声を上げてしまった。ゴースに驚いたのか、の大きな声に驚いたのか。横に並んでいたチルタリスも頭の羽をピンと立たせて飛び上がった。
「びっ、びっくりした……」
何だゴースか。が胸をなでおろすと、ゴースはガス状のからだを伸び縮みさせて、地面で跳ねる毬のごとく宙を転げまわった。
この屋敷に来てから早数日。すっかり驚かすことへの抵抗がなくなってしまった様子のゴースを見て、「最初の申し訳なさそうな様子はどこへいったのやら」とは呆れたように溜め息を吐いた。
けれど、それだけ自分たちに慣れてくれたということなのかもしれないなと思い直すと、二匹に声をかけて食堂に向かったのだった。
この屋敷にやって来てから寝る間も惜しんでひたすらに掃除を頑張った甲斐もあって、食堂に並ぶたくさんの窓からは薄いレースのカーテンを通してやわらかな日差しが差し込んでいる。
来た時よりも随分と明るくなったそこを食堂の奥のキッチンから眺めていると、チルタリスがくちばしでの服の裾を引いた。買ってきたものをカウンターの上に広げるだけ広げて、ぼうっとしていたからだろう。ハッとしたは何でもないよとチルタリスの頭を撫でた。
突然ゴースが鳴いたのは、それからほんの数分が経過した頃だった。
それまでゴースは買ってきたものをせっせと片付けるのことを大人しく観察していたのだが、があるものを手に取ると、どうやらそれが気になったらしかった。口をへの字にして、何やら不思議そうな表情を浮かべてキィキィと声を上げたのだ。
「……ああ、これ?」
が丁度手にしていた、ミツハニーのイラストが白くプリントされた透明の瓶。その中には黄金色の液体がたっぷりと入っている。
が瓶を傾けると、透き通る黄金色の液体が重たそうにとっぷりと傾いた。ゴースは体全体を揺らして頷いたが、大きな二つの目は瓶の中身に釘付けになっている。
「ミツハニー堂のあまいミツ。チルタリスの大好物でね、さっき買ってきたの」
ゴースはあまいミツを食べたことがあるのだろうか。そう思ったは「そうだ」と声を上げると、チルタリスとゴースを交互に見遣り、にっこりと笑った。
***
今日はゆっくりするとして、明日はこの屋敷のどこを片付けるべきか。
食堂の椅子に座りながらは考えていた。
ひとまず自分の部屋として使うことに決めた一部屋と、この食堂に浴室、玄関ホールを少しは掃除をしたけれど――そこまで思案して、は顔を上げるとキッチンに目を向ける。
キッチンに置かれたオーブンの前。そこにはチルタリスとゴース、落ち着きのない様子の二匹がいた。
『せっかくだから、あまいミツを使ってクッキーを焼こう』
の言葉にチルタリスがわっ、と歓声を上げて、クッキーを知らなかったゴースが頭の上にクエスチョンマークを浮かべたのが二時間ほど前のこと。
幸いにも材料は揃っていたので、生地を練って休ませて、それから型を抜いてオーブンに入れたのが数分前のことだ。
焼きあがるまではまだ少し時間がかかるというのに、二匹はオーブンが稼働してからああしているのである。
生地を練りながら、「これをそこにあるオーブンで焼くとね、とっても美味しいお菓子になるんだよ」そう説明した時のゴースの顔といったら。
大きな二つの目がキラキラと輝いて、長い舌からは涎が滴り落ちそうになっていた。クッキーを初めて知ったゴースの表情を思い出してしまい、は「ふふ」と小さく笑い声を漏らす。
それから、オーブンをかじりつくようにして見ている二匹に向かって声をかけた。
「まだ時間はかかるよー」
の声に、落ち着きのない様子の二匹が振り返る。
「……あ、そういえば」
あることを思い出して、は自分の方へ向いたままの二匹に手招きをする。
帰ってきてから食堂に直行したため、椅子にかけたままにして忘れていた鞄。その中からあるものを二つ取り出すと、未だにそこから離れずにいる二匹に「おいで」と呼び掛けた。
素直に近寄ってきた二匹に、は手のひらの上のあるものを見せる。透明の薄いビニールに包まれた、桃色の飴玉と水色の飴玉だ。
飴玉を見たチルタリスは瞳を輝かせて鳴いてから、一歩後ろに下がった。どうやらゴースに好きな方を選ばせるようだ。
「飴も初めて?」
手のひらの上のまるい塊をしげしげと眺めるゴースにが問い掛けると、ゴースは眉間にしわを寄せて頷いた。
これも美味しいから、気に入ると思うよ。そう言いながら、は桃色と水色の飴玉をそれぞれ両手に持つと、ゴースの前に両手を差し出した。
「どっちがいい?」
ゴースは二つの飴玉を何度も何度も見比べた後、桃色の飴玉が乗っている左手に近寄った。「こっち?」と確認のためにが左手を少し上げると、ゴースはしっかりと頷いてみせる。
水色の飴玉を一度テーブルの上に置いたは、桃色の飴玉の包みを開くとゴースの舌の上にそっと乗せた。長い舌が大きな口の中にそろりと引っ込んで、桃色が見えなくなる。
ゴースが飴玉を口に含んだのを確認してから、は水色の飴玉の包みを開いた。
待ってました! そんな顔ですぐ目の前にやってきたチルタリスのくちばしの端に水色のそれを乗せると、チルタリスの目がすうっと細まった。
「どう? 気に入った?」
飴玉を口の中で転がしているのだろう。ゴースの口はむぐむぐと忙しなく動いている。
確か桃色はモモン味、水色はサイコソーダ味だったっけ。そんなことを思いながらゴースを観察していると、眉間にしわを寄せていたままだった顔が分かりやすいほどに輝いた。
なんと言うか、ゴーストタイプのポケモンといえばもう少し恐ろしかったり、不気味だったり、悪戯好きで人間を困らせるんじゃないか、なんてイメージを持っていたは、それは勝手な思い込みであり、偏見だったのだと思った。
――いや、きっと中にはそういう個体もいるのだろう。けれど、少なくとも。
初めての飴玉に衝撃を受けて、目の前で宙を跳ね回っているゴースはにそう見えなかった。
最初の出会いにこそ驚いたものの、それは電気を点けた時に偶然このゴースがいただけで、悪意を持って驚かされた訳では無いのだ。
こちらに慣れた今、「おどろかす」をしてくることはあるものの、それは別に困るほどのものでもなく、ただちょっと遊びたくてちょっかいを出してくる、その程度の可愛らしいものだ。
この屋敷はとても広い。まだその全てを見ることはできていないけれど、こんなポケモンだったら他に棲みついていても問題は無いだろうな。そう結論を出したの表情は、自然と穏やかなものになっていた。
それから三人でのんびり過ごしていると、静かに稼働していたオーブンが音を立てた。
チン! という音にへ視線を向けていた二匹が素早く反応し、オーブンのあるキッチンへと駆け込んだ。
その勢いに笑ってしまいながら、もキッチンへと向かう。
「……え?」
二匹の後を追ってキッチンにやって来たは、オーブンのある方へ目を向けて驚いてしまった。
何故なら、そこには見慣れない紫色の後ろ姿があったのだ。
止まったオーブンの前でそわそわしているチルタリスとゴース。その後ろから、見慣れないポケモンが覗き込んでいる。
「……あ、あれ? ……ゴースト?」
の声に振り返り、ゴース以外の存在に気が付いたチルタリスが驚いた声を上げる。
それに釣られたように紫色の後ろ姿が振り返った。ゴースとそっくりな、三日月のように弧を描く大きな口に大きな二つの目。それから宙に浮かぶ二つの手。
紛れも無く、ゴースの進化系であるゴーストだった。
「……ゴースの友達?」
肩を竦めてが問うと、ゴーストが白い牙を見せて笑った。それに合わせて宙に浮かんだ二つの手もゆらゆらと揺れる。
やっぱり、この屋敷には他にも野生のポケモンが棲み着いているみたいだ。
そう思いながらがオーブンに近寄ると、三匹のポケモンは邪魔にならないように後ろに下がった。
オーブンを開け、取っ手で天板を取り出す。それをひとまずコンロの上に置くと、は「よし」と頷いた。丸く抜かれたクッキーは、どれも美味しそうな焼き色がついている。
の隣にやって来たチルタリスが、天板を覗き込んで嬉しそうに鳴いた。ゴースもの肩越しにクッキーを見て、感心したように声を上げる。
振り返ったはチルタリスとゴースを順番に見遣り、最後にこちらの様子を窺っているゴーストへ視線を移した。
「少しこのままにして、冷めたら一緒に食べようか。……ゴーストも一緒にね」
その言葉を聞いたゴーストが、嬉しそうに宙返りをした。
ゴース同様に、この屋敷を棲み処にしているのなら追い出すのも何だかな、とは思ったのだ。
屋敷のものを壊したり、汚したり、こちらに危害を加えたり。そんな何か悪さをすることもないのなら、野生だろうと屋敷にいても問題は無い。ただ少し、賑やかになるだけだ。
ゴースと一緒になって踊るようにくるくる回るゴーストに、とチルタリスは顔を見合わせると微笑んだ。
粗熱のとれたクッキーを一枚だけ味見をした後、用意した皿に盛り付けをしたが「どうぞ」と声をかけると、三匹は揃ってはしゃいだ声をあげた。
「……そういえば、あなたたち以外にもここを棲み処にしている子はいるの?」
ゴースの口にクッキーを放り込みながら、何とはなしにはそう疑問を投げかけた。
すると両手にクッキーを持っていたゴーストがややあって頷いた。
「ああ、やっぱりそうなんだ。……ちなみに、そのポケモンたちをここに連れてきてもらうってことはできる?」
ここで生活をするということは決まっている。けれど別にこの屋敷を棲み処にしているポケモンたちを追い出すつもりはないし、できればこちらを追い出すようなこともしないでほしい。そう伝えられればと思ってのことだった。
ゴーストはの頼み事に考える素振りを見せた。右手のクッキーを食べて、左手のクッキーを食べて、うーんと首を傾げて、それから皿のクッキーを掴む。
そうしてもう何枚かのクッキーを口に入れたゴーストは、静かに食堂の壁をすり抜けて姿を消した。
「……他にはどんなポケモンがいるんだろう」
空き家にいるとしたら、コラッタとか? イトマルなんかが巣を作ってたりするかもしれないなあ。そうあれこれが考えていると、ゴースが催促するようにキィキィと鳴いた。
ゴーストが戻ってきたのは、皿に盛ったクッキーが半分ほど減った頃だった。
姿を消した時と同じように食堂の壁をすり抜けてやって来たゴーストは、の前までやって来ると、宙に浮かぶ二つの手の指の先を落ち着きなく合わせた。
もじもじしているというか、そわそわしているというか。何だかバツの悪そうな顔に、は眉を下げて笑う。
「もしかして、誰も来てくれなかった?」
野生だし、人間がいたら嫌がるポケモンも当然いるだろう。そう考えての発言だったのだが、ゴーストはふるりとからだ全体を左右に振った。
とチルタリスは顔を見合わせる。すぐ傍で浮かんでいるゴースが目を泳がせていることに気がついて、は眉間にしわを寄せた。
「……うーん?」
とチルタリスが揃って首を傾げると、ゴーストは何かを諦めた様子で食堂の壁に向かってちょいちょいと手招きをした。
ほんの僅かに間が空いて、やがて壁から紫色のポケモンがにゅっと現れた。紫色の塊が、軽やかに空中でくるりと前転する。それはも知っているポケモンだった。
「わあ! ゲンガーだ」
すがたを現したのだゲンガーだった。ゴースたちの様子から、一体何? と身構えていたの肩から力が抜ける。
壁をすり抜けて食堂にすがたを現したゲンガーは、とチルタリスのことをまじまじと見つめて不気味に笑った。
続けて、ゲンガーよりも小さなすがたが現れた。風もないのにふわふわとなびくシルエット。よなきポケモンのムウマだ。
「ムウマもいるんだ。へー、それにジュペッタも。……ん?」
ムウマにジュペッタと、の目の前で壁の向こうから次々とポケモンがすがたを現す。それも、揃ってゴーストタイプのポケモンばかりだ。
「……ええっと、ヨマワル、サマヨールもいるんだね。それから……え、ちょっと待って。……ムウマージに……って、え、えー!?」
食堂にすがたを現した野生のポケモンたち。それはの想像を遥かに越えた数だった。
先程のゴースとゴーストの二匹はきっと、「たくさん連れてきたけれど、大丈夫だろうか」そんな心配をしていたのだろう。
――野生だろうと屋敷にいても問題は無い。ただ少し、賑やかになるだけだ。確かにそう思いはしたけれど。
「少しどころか、ものすごく賑やかになりそう……」
の言葉に、チルタリスの同意する声が重なった。