***
「お待たせいたしました。こちら、ダグトリオサンドとエネココアふたつです」
注文したワッフルとココアを持ってきた、仲の良いカフェ店員の彼。その顔を見た私は思わず眉間にしわを寄せてしまった。
「……目の下に、隈ができていますよ?」
私が自分の目の下を指さして言うと、彼は苦笑いを浮かべた。
「そうなんですよー。何だか最近、あまり体調がよくなくって。頭痛が酷くてあまり寝られていないんですよね」
カフェの中央にある広いスペースでは、マスターと客の一人がバトルをしていた。
マスターのペロリームと客のアブリボン、お互いの技がぶつかり合う。
二人のトレーナーがそれぞれのパートナーへ指示を出す声に、技がぶつかる激しい音。それに店員や他の客の声援も重なる店内はいつにも増して騒がしい。
「大丈夫ですか? 日曜、無理しないでくださいね。体調優先でお願いします」
日曜は二人でシュートシティに出かける予定の日だった。彼は頷く。
「ありがとうございます。それまでには治すので大丈夫です! ではさん、ムウマージさん、ごゆっくり」
そう言って立ち去った彼の背を見つめながら、私は口を開く。
「ちっとも大丈夫そうに見えなかったけど……。うーん、本当に大丈夫かなあ」
湯気が立ち上るエネココアにふうふうと息を吹きかけていたムウマージは、私の言葉に困ったような顔で笑った。
ついにやってきた日曜日の昼下がり、私はムウマージと二人でシュートシティにある噴水の前にいた。一緒に出かける約束をした彼はいない。
というのも、前日の夜に「さん、すみません! やっぱり体調駄目そうです。申し訳ないのですが明日はキャンセルさせてください」と連絡があったからだ。
「ええっと、それじゃあ……」
つい先程買ったばかりの新品のゴージャスボール。それを胸に抱きながら、私は目の前でふわふわと浮かんでいるムウマージを見つめた。私を捉えている赤い目がすうっと細くなる。
私はゴージャスボールを片手に握ると、そっとムウマージのからだに触れさせた。ポン! という軽い音と共に、ムウマージの姿がゴージャスボールの中に吸い込まれる。
たったそれだけの、ほんの僅か数秒の出来事だった。
それでも胸がいっぱいになるには十分な出来事で、思わず涙が滲む。何故だか昔からポケモンに好かれなかった私にもようやく初めてのパートナーができたのだ。
ボールを持つ手とは反対の手で涙を拭う。すると先程と同じポン! という軽い音がして、ボールからムウマージが姿を現した。私が泣いていることに気がついたムウマージの目がまるくなる。
「ん、ごめんね。大丈夫。何だか感動しちゃって……」
心配するように私の顔を覗き込むムウマージにそう告げる。
「改めて、これからよろしくね。私のパートナー」
ワタワタしていたムウマージは安心した様子でホッと息を吐いて、それから笑った。
花が咲いたような美しい微笑み。ムウマージと再会してから何度も見ている表情だけど、それは今まで見た中で一番美しい笑みだった。
***
「え、本当ですか?」
驚いた私の声に、女性の店員は眉を下げて困ったような顔で頷いた。彼女はこのバトルカフェで、彼の次くらいに仲がいい店員だ。
ムウマージをゲットした日から数週間が過ぎている。その間にも今まで通り足繁くバトルカフェに通っているものの、彼には一度も会えていない。
一緒に出かける予定だった日曜の夜、「今日は本当にすみませんでした! ムウマージさんはゲットできましたか?」とメッセージが届いた。
それに対して私は「いえいえ。体調は大丈夫ですか? ちなみにムウマージは無事にゲットできました」なんて返事をしたものの、未だに返事はないままだ。
パートナーになってくれたムウマージを自慢したかったんだけど。というか、この前頭痛がするからあまり眠れていないって言っていたし、体調は大丈夫かな。
そう思った私は、彼女に彼が最近カフェに来ているかを尋ねたのだ。
店員は眉を下げると、「彼と親しかったさんになら……」とこっそり教えてくれた。
――彼、少し前に辞めちゃったんですよ。何でも急にひどく体調を崩してしまったとかで……。
すごく明るい人だったじゃないですか。でも、お店に連絡してきた時の声が別人みたいで、みんな何があったんだろうねって心配してるんです。
店員が去って行ったあと、彼女の言葉を思い出しながらパイルジュースをストローでかき回すと、グラスの中で氷がカラカラと音を立てた。向かいではムウマージがラムのみのパイを口に運んでいる。
ガラルに来てからせっかくできた友人だったのに。残念だな。そんなことを考えたところで、私はストローでグラスをかき回すのを止めた。
――そういえば、こんなことが前にもあったような。
――それはいつ?
――いつだっけ。随分と前の……。そう、確かシンオウにいた頃……。
――何があったっけ?
自問自答を繰り返していた私が「……あ」と声を漏らすと、ムウマージが首を傾げた。徐々に指先が冷えていくのを感じながら、何でもないのだと笑ってストローに口をつける。
そう、シンオウに住んでいた頃同じようなことがあったのを思い出したのだ。
まだ、人懐っこいポケモンになら逃げられることのなかった子供の時のことだった。
庭にはいつからか野生のコダックが棲みついていて、私はその子と仲が良かった。
野生だというのに警戒心がないに等しいほど薄くて、庭の真ん中で堂々と仰向けに寝ていたり、私がきのみを差し出せば喜んですぐにかぶりつくような子だった。
ところが、ある日を境にその子が随分と体調を崩して苦しむようになったのだ。
コダックが頭痛に悩まされているのはいつものことだ。しかし頭を抱えてうずくまって、果てには何にも口にできないほど動けなくなってしまうのは異常だった。
庭に棲みついたあの子の様子がおかしい、という私の話を聞いた母がぐったりとしたコダックをポケモンセンターに連れて行ってくれたことを覚えている。
――そして。私がコダックと会うことは二度となかった。
弱ってしまったコダックは治療のためにもっと大きなポケモンセンターへと連れていかれたからだ。
私と親しいコダックが体調を崩した時期に何があったのか。
考えを巡らせると思い当たることがひとつだけあった。どうしてか、今この瞬間まで思い出すことがなかったことだ。
コダックが体調を崩すより数日前、一年に一度のしきたりの日があった。
そしてムウマージがやって来る時間の少し前、私に祖母が教えてくれたことがある。
『ムウマージと仲良くなれたら、それは幸運なことなのよ。ムウマージはね、恋の願いを叶えるまじないをかけることもできるんだから』
祖母の話を聞いた当時の私は、「恋のおまじない!?」と目を輝かせた。お父さんは怖いポケモンなんて言っていたけれど、ムウマージってやっぱりすごい! そんな風に思ったのだ。
それから、凶事を祓うための呪文を唱えにやってきたムウマージの後ろを私はいつものようについてまわった。
いくつかの部屋を見終えた後、相も変わらず一度たりともこちらへ振り返らないムウマージの背中に私は声をかけた。
「ねえ! ムウマージって、恋の願いが叶うおまじないも得意なんでしょう? おばあちゃんが言ってたもん。でも、それってどうやるの? どんなものなの?」
驚いたのは、それを聞いたムウマージが振り返ったからだ。今まで私が何をしても無反応だったムウマージが、ぴたりと動きを止めたかと思えばゆっくりと振り返ったのだ。
まさかムウマージが振り返ると思わなかった私は、何かまずいことを聞いてしまったのかと思った。
実は恋の願いを叶えるおまじないは苦手、とか? そんなことを考えていると、ムウマージは何かを考える素振りを見せた後、こてりと首を傾げた。
その仕草はまるで「見てみたいの?」なんて尋ねているように見える。
私のことなど眼中にない態度をとっていたムウマージが反応してくれたことが嬉しくて、私は大きく頷いた。
「もしかして見せてくれるの? 見せて!」
ただ、特に何も考えずに言ったことだった。恋の願いも叶えるなんてムウマージはすごいなあ。そんな風に思って口にしただけの、なんてことないもの。
私の返答にムウマージの笑みが深くなり、赤い目は輝きを増したように見えた。
更に驚くことに、ムウマージは自ら私へ近づいた。私から近づくことはあっても、ムウマージから近づいてくることは初めてだった。
これから何が起きるのか分からず身構える私を他所に、ムウマージは美しい笑みを湛えている。それからそうっとその大きなからだに抱き寄せられたかと思えば、耳元で到底理解できないムウマージのことば――恋の願いを叶える呪文だと思われるもの――が響いた。
「……今ので終わり?」
もっとキラキラ輝いて光に満ち溢れるような、そんな何かが起きる様を想像していた私は肩を竦めた。どんなものか期待していた「恋を叶えるおまじない」が思っていたよりも遥かに地味だったので、少しつまらなく思ったのだ。
たった、これだけ? 思わず呆れてしまいながら尋ねると、ムウマージは気を悪くすることもなく微笑んだ。それから「今のは秘密」と言うように、揺らめくからだの一部を私の口に触れさせる。
お母さんたちにも秘密ってこと? それって怒られないのかな、と思いはしたものの、大切なお客様であるムウマージに勝手にお願いをしてしまった後ろめたさを感じていた私は素直に頷いたのだった。
多分、あの日から私は野生のポケモンに好かれなくなった。元から友好的だったポケモンは苦しんで、私の傍からいなくなった。
どうしてあの日のことを忘れていたんだろう。まるで記憶に何か封印がされていたようだった。
そもそも、どうしてムウマージは私の前へ再び現れたのか。答えが分からないまま机の上に視線を落とすと、スリープ状態だったスマホの画面が点灯した。
何やらメールが届いたらしい。通知に表示された「今月お誕生日のあなたに……」という件名から察するに、どこかのショップのダイレクトメールのようだった。
ハッと息を飲む。
『ちゃんはムウマージが好きなのねぇ』
『うん! わたしムウマージとけっこんする!』
『大人にならないと無理よ』
不意に、いつかのやり取りが過ぎった。
もし、あの時の何気ない会話をムウマージが聞いていたのだとしたら。そしてあの時の言葉を本気にしていたのだとしたら。
あの日から何度も誕生日を迎え、確かに私は大人になっていた。それならムウマージが現れた理由はきっと――。
視線を感じて顔を上げる。どうかした? そう尋ねるようにムウマージが首を傾げた。その顔は相変わらずゾッとするくらいの美しい笑みを浮かべている。
赤いふたつの目に、気づいてはいけないことに気がついてしまった私が映っている。膝の上に乗せている大切なはずのゴージャスボールが鉛のように重い。冷や汗が背中を伝った。
カラカラに乾いてしまった口を何とか動かして、言葉を振り絞る。
「ムウマージ」
ねえ、あなたはあの時一体誰の恋を叶えたの?
(すてきな呪文/20240104)
「お待たせいたしました。こちら、ダグトリオサンドとエネココアふたつです」
注文したワッフルとココアを持ってきた、仲の良いカフェ店員の彼。その顔を見た私は思わず眉間にしわを寄せてしまった。
「……目の下に、隈ができていますよ?」
私が自分の目の下を指さして言うと、彼は苦笑いを浮かべた。
「そうなんですよー。何だか最近、あまり体調がよくなくって。頭痛が酷くてあまり寝られていないんですよね」
カフェの中央にある広いスペースでは、マスターと客の一人がバトルをしていた。
マスターのペロリームと客のアブリボン、お互いの技がぶつかり合う。
二人のトレーナーがそれぞれのパートナーへ指示を出す声に、技がぶつかる激しい音。それに店員や他の客の声援も重なる店内はいつにも増して騒がしい。
「大丈夫ですか? 日曜、無理しないでくださいね。体調優先でお願いします」
日曜は二人でシュートシティに出かける予定の日だった。彼は頷く。
「ありがとうございます。それまでには治すので大丈夫です! ではさん、ムウマージさん、ごゆっくり」
そう言って立ち去った彼の背を見つめながら、私は口を開く。
「ちっとも大丈夫そうに見えなかったけど……。うーん、本当に大丈夫かなあ」
湯気が立ち上るエネココアにふうふうと息を吹きかけていたムウマージは、私の言葉に困ったような顔で笑った。
ついにやってきた日曜日の昼下がり、私はムウマージと二人でシュートシティにある噴水の前にいた。一緒に出かける約束をした彼はいない。
というのも、前日の夜に「さん、すみません! やっぱり体調駄目そうです。申し訳ないのですが明日はキャンセルさせてください」と連絡があったからだ。
「ええっと、それじゃあ……」
つい先程買ったばかりの新品のゴージャスボール。それを胸に抱きながら、私は目の前でふわふわと浮かんでいるムウマージを見つめた。私を捉えている赤い目がすうっと細くなる。
私はゴージャスボールを片手に握ると、そっとムウマージのからだに触れさせた。ポン! という軽い音と共に、ムウマージの姿がゴージャスボールの中に吸い込まれる。
たったそれだけの、ほんの僅か数秒の出来事だった。
それでも胸がいっぱいになるには十分な出来事で、思わず涙が滲む。何故だか昔からポケモンに好かれなかった私にもようやく初めてのパートナーができたのだ。
ボールを持つ手とは反対の手で涙を拭う。すると先程と同じポン! という軽い音がして、ボールからムウマージが姿を現した。私が泣いていることに気がついたムウマージの目がまるくなる。
「ん、ごめんね。大丈夫。何だか感動しちゃって……」
心配するように私の顔を覗き込むムウマージにそう告げる。
「改めて、これからよろしくね。私のパートナー」
ワタワタしていたムウマージは安心した様子でホッと息を吐いて、それから笑った。
花が咲いたような美しい微笑み。ムウマージと再会してから何度も見ている表情だけど、それは今まで見た中で一番美しい笑みだった。
***
「え、本当ですか?」
驚いた私の声に、女性の店員は眉を下げて困ったような顔で頷いた。彼女はこのバトルカフェで、彼の次くらいに仲がいい店員だ。
ムウマージをゲットした日から数週間が過ぎている。その間にも今まで通り足繁くバトルカフェに通っているものの、彼には一度も会えていない。
一緒に出かける予定だった日曜の夜、「今日は本当にすみませんでした! ムウマージさんはゲットできましたか?」とメッセージが届いた。
それに対して私は「いえいえ。体調は大丈夫ですか? ちなみにムウマージは無事にゲットできました」なんて返事をしたものの、未だに返事はないままだ。
パートナーになってくれたムウマージを自慢したかったんだけど。というか、この前頭痛がするからあまり眠れていないって言っていたし、体調は大丈夫かな。
そう思った私は、彼女に彼が最近カフェに来ているかを尋ねたのだ。
店員は眉を下げると、「彼と親しかったさんになら……」とこっそり教えてくれた。
――彼、少し前に辞めちゃったんですよ。何でも急にひどく体調を崩してしまったとかで……。
すごく明るい人だったじゃないですか。でも、お店に連絡してきた時の声が別人みたいで、みんな何があったんだろうねって心配してるんです。
店員が去って行ったあと、彼女の言葉を思い出しながらパイルジュースをストローでかき回すと、グラスの中で氷がカラカラと音を立てた。向かいではムウマージがラムのみのパイを口に運んでいる。
ガラルに来てからせっかくできた友人だったのに。残念だな。そんなことを考えたところで、私はストローでグラスをかき回すのを止めた。
――そういえば、こんなことが前にもあったような。
――それはいつ?
――いつだっけ。随分と前の……。そう、確かシンオウにいた頃……。
――何があったっけ?
自問自答を繰り返していた私が「……あ」と声を漏らすと、ムウマージが首を傾げた。徐々に指先が冷えていくのを感じながら、何でもないのだと笑ってストローに口をつける。
そう、シンオウに住んでいた頃同じようなことがあったのを思い出したのだ。
まだ、人懐っこいポケモンになら逃げられることのなかった子供の時のことだった。
庭にはいつからか野生のコダックが棲みついていて、私はその子と仲が良かった。
野生だというのに警戒心がないに等しいほど薄くて、庭の真ん中で堂々と仰向けに寝ていたり、私がきのみを差し出せば喜んですぐにかぶりつくような子だった。
ところが、ある日を境にその子が随分と体調を崩して苦しむようになったのだ。
コダックが頭痛に悩まされているのはいつものことだ。しかし頭を抱えてうずくまって、果てには何にも口にできないほど動けなくなってしまうのは異常だった。
庭に棲みついたあの子の様子がおかしい、という私の話を聞いた母がぐったりとしたコダックをポケモンセンターに連れて行ってくれたことを覚えている。
――そして。私がコダックと会うことは二度となかった。
弱ってしまったコダックは治療のためにもっと大きなポケモンセンターへと連れていかれたからだ。
私と親しいコダックが体調を崩した時期に何があったのか。
考えを巡らせると思い当たることがひとつだけあった。どうしてか、今この瞬間まで思い出すことがなかったことだ。
コダックが体調を崩すより数日前、一年に一度のしきたりの日があった。
そしてムウマージがやって来る時間の少し前、私に祖母が教えてくれたことがある。
『ムウマージと仲良くなれたら、それは幸運なことなのよ。ムウマージはね、恋の願いを叶えるまじないをかけることもできるんだから』
祖母の話を聞いた当時の私は、「恋のおまじない!?」と目を輝かせた。お父さんは怖いポケモンなんて言っていたけれど、ムウマージってやっぱりすごい! そんな風に思ったのだ。
それから、凶事を祓うための呪文を唱えにやってきたムウマージの後ろを私はいつものようについてまわった。
いくつかの部屋を見終えた後、相も変わらず一度たりともこちらへ振り返らないムウマージの背中に私は声をかけた。
「ねえ! ムウマージって、恋の願いが叶うおまじないも得意なんでしょう? おばあちゃんが言ってたもん。でも、それってどうやるの? どんなものなの?」
驚いたのは、それを聞いたムウマージが振り返ったからだ。今まで私が何をしても無反応だったムウマージが、ぴたりと動きを止めたかと思えばゆっくりと振り返ったのだ。
まさかムウマージが振り返ると思わなかった私は、何かまずいことを聞いてしまったのかと思った。
実は恋の願いを叶えるおまじないは苦手、とか? そんなことを考えていると、ムウマージは何かを考える素振りを見せた後、こてりと首を傾げた。
その仕草はまるで「見てみたいの?」なんて尋ねているように見える。
私のことなど眼中にない態度をとっていたムウマージが反応してくれたことが嬉しくて、私は大きく頷いた。
「もしかして見せてくれるの? 見せて!」
ただ、特に何も考えずに言ったことだった。恋の願いも叶えるなんてムウマージはすごいなあ。そんな風に思って口にしただけの、なんてことないもの。
私の返答にムウマージの笑みが深くなり、赤い目は輝きを増したように見えた。
更に驚くことに、ムウマージは自ら私へ近づいた。私から近づくことはあっても、ムウマージから近づいてくることは初めてだった。
これから何が起きるのか分からず身構える私を他所に、ムウマージは美しい笑みを湛えている。それからそうっとその大きなからだに抱き寄せられたかと思えば、耳元で到底理解できないムウマージのことば――恋の願いを叶える呪文だと思われるもの――が響いた。
「……今ので終わり?」
もっとキラキラ輝いて光に満ち溢れるような、そんな何かが起きる様を想像していた私は肩を竦めた。どんなものか期待していた「恋を叶えるおまじない」が思っていたよりも遥かに地味だったので、少しつまらなく思ったのだ。
たった、これだけ? 思わず呆れてしまいながら尋ねると、ムウマージは気を悪くすることもなく微笑んだ。それから「今のは秘密」と言うように、揺らめくからだの一部を私の口に触れさせる。
お母さんたちにも秘密ってこと? それって怒られないのかな、と思いはしたものの、大切なお客様であるムウマージに勝手にお願いをしてしまった後ろめたさを感じていた私は素直に頷いたのだった。
多分、あの日から私は野生のポケモンに好かれなくなった。元から友好的だったポケモンは苦しんで、私の傍からいなくなった。
どうしてあの日のことを忘れていたんだろう。まるで記憶に何か封印がされていたようだった。
そもそも、どうしてムウマージは私の前へ再び現れたのか。答えが分からないまま机の上に視線を落とすと、スリープ状態だったスマホの画面が点灯した。
何やらメールが届いたらしい。通知に表示された「今月お誕生日のあなたに……」という件名から察するに、どこかのショップのダイレクトメールのようだった。
ハッと息を飲む。
『ちゃんはムウマージが好きなのねぇ』
『うん! わたしムウマージとけっこんする!』
『大人にならないと無理よ』
不意に、いつかのやり取りが過ぎった。
もし、あの時の何気ない会話をムウマージが聞いていたのだとしたら。そしてあの時の言葉を本気にしていたのだとしたら。
あの日から何度も誕生日を迎え、確かに私は大人になっていた。それならムウマージが現れた理由はきっと――。
視線を感じて顔を上げる。どうかした? そう尋ねるようにムウマージが首を傾げた。その顔は相変わらずゾッとするくらいの美しい笑みを浮かべている。
赤いふたつの目に、気づいてはいけないことに気がついてしまった私が映っている。膝の上に乗せている大切なはずのゴージャスボールが鉛のように重い。冷や汗が背中を伝った。
カラカラに乾いてしまった口を何とか動かして、言葉を振り絞る。
「ムウマージ」
ねえ、あなたはあの時一体誰の恋を叶えたの?
(すてきな呪文/20240104)