Hanada
 まどろみの中で私は随分と懐かしい光景を眺めていた。

 場所は古びた大きな家屋。ここは、そう。随分と前に亡くなってしまった母方の祖父母が住んでいて、今はもう取り壊されてしまったところだ。
 数年前から一人暮らしを始めたガラル地方では見られない家の造り――畳に襖、障子の引き戸、それに囲炉裏なんかがあって、いくつもある部屋を暇を見つけては探検していたことを覚えている。

 そんな懐かしい場所を、一匹の大きなムウマージがゆったりと優雅に散歩している。
 このムウマージは本当に大きくて、平均サイズの二倍以上はあった。けれど、当時の私はムウマージといったらこの子しか見たことがなかったので、それが普通のサイズなのだと思っていた。
 だから初めて他のムウマージを見かけた時に、随分と小さい子もいるんだなあなんて思ったものだ。

 廊下に部屋と、ムウマージは広い家の中を順番に進んでいく。そして、その背を追いかける小さな姿がひとつ。幼い頃の私だ。
 ムウマージはあとをついてくる私の存在など眼中にないので、振り返ることはない。

 やがて、広い家の中を巡り終えたムウマージが玄関へ辿り着いた。
 そこでは私の家族――祖父母と両親が待っていて、ムウマージとの散歩を終えて満足げな幼い私は母の隣へ並んだ。

「邪魔をしていないでしょうね?」
「し、してないよ」
「それならいいけれど……」

 母と私のそんな会話のあと、家族全員が恭しくムウマージへと頭を下げた。
 ムウマージが少しだけ高く浮かび上がる。大きなからだだから、頭のてっぺんが天井に届いてしまいそうだ。
 ドレスのようなからだの輪郭が、風もないのにふわっと広がって揺らめく。

 その様子を、私はやっぱり「懐かしいなあ」と思いながら俯瞰していた。

 詳細な手順だとかそういったものは忘れてしまったけれど、これらが何であるのかを私は覚えている。
 シンオウ地方にある母方の祖父母の家で、年に一度だけ行われていたしきたりだ。
 こうして家にムウマージを招いて、家の中を隅々まで巡ってもらい、最後に凶事を祓うための呪文を唱えてもらうのである。

 静寂が家の中を満たしている。みんながそっと見守る中、ムウマージが人には到底理解できないことば――呪文を口にした。


 ハッと目を覚ます。どうやらベッドに寝そべってスマホをいじっている内に、うとうとしてしまっていたようだ。随分と懐かしいものを見たな、と起き抜けの頭で思う。
 家にムウマージを招くという風習はシンオウの、それも私の祖父母の家があった狭い地域だけに伝わるもののようだった。ガラル地方では聞いたことがないし、何ならシンオウの実家近辺ですらも聞いたことがない。
 祖父母を亡くし、更に家が取り壊されてしまってからはその「狭い地域」を訪れる機会もめっきり減ってしまった。
 そのため「年に一度ムウマージを家に呼び、凶事を祓うための呪文を唱えてもらう」という光景は、私の中で「ごく稀に思い出すことがある、幼い頃のちょっと変わった思い出」となっていたのだ。

 軽く伸びをして、スマホの画面で現在時刻を確認する。十九時を過ぎたところだった。
 今から買い物をして更に夕飯の支度をするのは面倒だなあ。それなら手を抜いて近くのカフェに行こう。そう決めた私はベッドから起き上がった。


 ナックルシティの石畳の通りを歩きながら先程見た夢のことを思い出していると、ふと、いつかの年のしきたりの日に祖母が口にした言葉を思い出した。

 ――ムウマージはね、凶事を祓うための呪文や人を幸せにする呪文を扱えるポケモンだけど、一番得意なのは人を苦しめる呪文なのよ。だから、ムウマージを怒らせたらいけないの。ムウマージが怒ると、災いをもたらすと言われてるからね。

 この話を聞いた父は「有難いけれど、恐ろしいポケモンなんですね」と言っていたっけ。その隣で私は「ムウマージ、可愛いのに」なんて言っていたような気がする。
 ムウマージのとんがり帽子にドレス、おまけに呪文も扱えるなんてまるで魔法使いのようなその存在は、幼い私にとっては憧れだったのだ。
 それにあのムウマージはしきたりの間中、その後ろをついていこうとも、その間ずっと話しかけ続けていたとしても、決して私に危害を加えるようなことはなかったのだ。
 もしかしたら私が非力すぎる子供で、相手にするだけ時間が勿体ないなんて思われていただけかもしれないけれど。

 何にせよ、私は父のようにムウマージに対して恐ろしいポケモンというイメージを抱いてはいなかった。
 それどころか、「ちゃんはムウマージが好きなのねぇ」と祖母に微笑まれた際には「うん! だって、かっこいいし、かわいいし、きれいだし、まほうをつかえてすごいんだもん。だから、わたしムウマージとけっこんする!」と答えるくらい程に私はムウマージというポケモンが好きだった。
 このやり取りを聞いた母に「大人にならないと無理よ」と笑われてしまったのもいい思い出だ。

 ああそれからもうひとつ、祖母が教えてくれたことがあったはず。

『ムウマージと仲良くなれたら、それは幸運なことなのよ。ムウマージはね――』

 そうだ――続きを思い出そうとしたところで私は足を止めた。すぐ近くの細い路地から一匹のジグザグマが飛び出してきたからだ。
 ガラルのジグザグマはわざと他のポケモンにぶつかってはケンカを売るほど好戦的なポケモンだ。
 どうしたものかな、と思う。私は自分のポケモンを持っていない。つまるところ、野生のポケモンと戦う術を持っていない。
 たぶん大丈夫だと思うけれど、万が一このジグザグマがこちらへ向かってきたら――そう考えた時だった。

 日が落ちた石畳に、どこからか色濃い影がするりと伸びたのだ。
 何事かと目を見張る私の前で、ゆらりと揺らめいた影が質量を持つ。爛々と輝く赤い目が、私と同じように目をまるくしているジグザグマをすうっと見下ろした。

「あ、あなたは――」

 自分の何倍もある大きなからだに、ジグザグマはしっぽを巻いて逃げ出した。



 バトルカフェはそれなりに賑わっていた。運良く一番端の目立たないボックス席を確保出来た私は今、驚くべきことについ先程見た夢に出てきたムウマージと向かい合って座っている。
 とは言ってもムウマージは大きなからだを縮こまらせて椅子の上に浮かんでいる状態だ。少し、いやかなり窮屈そうにしているけれど、こればかりはどうにもできない。

「おまたせいたしました。こちらパイルジュースと、ダグトリオサンドです」

 厚めの食パンでトマトにフリルレタス、スライスチーズやベーコンなどの具材をたっぷり挟んだみっつのサンドイッチ。一人ではボリュームがありすぎるものの、ふたりで食べるには丁度いいそれを見たムウマージは目を輝かせている。
 店員は私とムウマージの間に皿とグラスを並べて置くと、小さな声で話しかけてきた。

さん、こんばんは。ついに自分のポケモンをゲットしたんですか?」

 バトル、初挑戦しちゃいます? と店員が爽やかな笑顔で尋ねてくる。
 バトルカフェはその名の通り、バトルを楽しむこともできるカフェだ。カフェのマスターとバトルをして、勝てば可愛らしい飴細工などちょっと特別なスイーツをゲットできる。
 その「ちょっと特別なスイーツ」目当てに常連客となった人も少なくないらしい。

「こんばんは! ええと……バトルは遠慮しておきます」

 ここのカフェは家から近いこともあって結構な頻度で足を運んでいるので、何人かの店員とは顔見知りの仲だ。その中でも注文の品を運んできた彼は特に親しい店員だった。
 彼には以前、私が自分のポケモンを持っていないということを理由込みで話したことがある。

 私が自分のポケモンを持っていない理由。それは、どうしてだか私は昔からポケモンに好かれないからだ。
 初めからそうだった訳ではないように思う。野生のポケモンでも、人懐っこい子であれば近づいても逃げられたりすることはなかった、はず。
 でもいつからか、あからさまにポケモンに好かれなくなった。

 人懐っこくにこにこ笑っているポケモンに近づけば途端に泣かれ、飛び出してきたポケモンも私を見るや否や慌てて逃げていく始末。
 先程のジグザグマが逃げだしたのはたまたまムウマージが現れたからだけど、飛び出してきた時に「たぶん大丈夫」と思ったのもそれが理由だった。

 今までに何度か野生のポケモンをゲットしようとしたことはある。しかしそんな風にあからさまに拒否されることばかりで、積極的にポケモンをゲットしようという気持ちはいつの間にか薄れてしまった。
 だから私は未だに自分のポケモンを持っていない。
 私がポケモンに好かれないということを覚えていたのであろう彼は、私のすぐ傍にムウマージという見慣れない存在がいることに興味を持ったようだった。

「というか、この子ゲットはしてないんですよ。知ってる子というか……。ついさっきそこで久しぶりに会って」

 そう説明しながらムウマージに目を向ける。

「へぇー。感動の再会、みたいな? よかったですね。さんポケモンに好かれないって言ってましたけど、この子は何だか懐いてるように見えますよ」
「え、本当ですか?」

 祖父母の家で行っていた、年に一度のしきたりの日。ムウマージが他のポケモンとは違って私を見ても逃げたりしないのは、「凶事を祓うための呪文を唱える」という自分の役割を果たすために仕方なくだと思っていた。
 いやでも現に今、逃げるどころかこうして一緒にカフェにいるけれど……。
 本当に、この子は私に懐いている? そう疑心暗鬼になりながらもムウマージを見る。

 ムウマージは今すぐにでもにダグトリオサンドにかぶりつきそうな様子だったが、私と店員の彼が話し続けているとごちそうから彼へ視線を移した。爛々と輝く赤い瞳が彼のことを映している。

「ムウマージさん、こんばんは。どうぞゆっくりしていってくださいね」

 ポケモン相手であろうと礼儀正しく礼をした彼は、「では」と言って去っていった。
 彼の後ろ姿を見つめるムウマージの目がすぅっと細くなり、ややあってから視線は再びダグトリオサンドへ戻った。

「食べたら?」

 声をかけると三つあるサンドイッチの内の一つがムウマージの顔の前にぷかりと浮かび上がった。目と鼻、ダグトリオの顔の焼き目のつけられたサンドイッチが端から小さく欠けていく。
 その様子を眺めながらパイルジュースのストローに口をつける。その瑞々しさにホッと息を吐いた。

「……えーっと、それで。念の為に確認させてほしいんだけど、あなたは昔、私のおじいちゃんの家に来ていたムウマージ……?」

 あんな大きさのムウマージ、シンオウ地方でもなかなか見たことがなかった。
 それに、ガラル地方にはどうやら野生のムウマやムウマージは生息していないようなのだ。
 だから私に関わりのあるムウマージといえば、今日の夢に出てきたあのムウマージしか思い当たらなかった。

 私の質問に、口の端にパンくずをつけたムウマージがにっこりと笑って頷いた。どうやら本当にそうらしい。
 それにしても何故ここに? シンオウ地方とガラル地方って、かなり距離があるんだけどなあ……。
 ひと月ほど前、随分と久しぶりにシンオウ地方の実家へ帰省した際に、移動時間だけでそれなりにかかってクタクタになったことを思い出しながら考える。

「まさか、私がこの前シンオウに行った時についてきちゃった……とか?」
 
 いや、まさかなあ。シンオウに帰省していたのは一週間くらいだ。知らせていたならともかく、そうじゃないのにそんな僅かな時間で私を見つけられる訳ないし。
 あれこれ考えを巡らせていると、その様子がおかしかったのかムウマージがケラケラと笑った。それからムウマージはパイルジュースのストローを不思議な力で自身の方へ向け、それを口にくわえて吸った。その行為に私は少しだけ驚いてしまう。
 
 というのも、記憶の中のムウマージはもう少し大人しいというか、厳かな雰囲気を纏っていたように思ったからだ。祖父母の家では、ここまで親しみやすい雰囲気じゃなかったように思う。
 人間にも仕事中とそうじゃない時――オンとオフがあるように、ムウマージもそうなのだろうか。
 だとしたら今が本当のムウマージの姿? なんて考えているとムウマージが首を傾げた。どうやらまじまじと見つめすぎてしまったらしい。

「おじいちゃんの家がなくなって、その上私はガラルに引っ越しちゃって。あなたに会う機会もなくなっちゃったからなあ。まさかこうやってまた会えると思ってなかった。会えて嬉しいよ」

 ムウマージからストローを取り返して、随分と減ったパイルジュースを飲む。ムウマージはちょっとだけ目をまるくして、それからまた笑った。
 その笑顔に釣られて同じように頬をゆるめた私は、ダグトリオサンドに手を伸ばしたのだった。



 カフェを出た私は自宅のある方へ向かって歩き出す。ちらりと振り返ると、当然のように後ろをムウマージがついてくるのが見えた。

「せっかくまた会えたんだし、よかったら家に寄ってってよ」

 ムウマージに向かって声をかける。するとムウマージはぴゃっと嬉しそうに鳴いて、私の後ろから隣へ移動した。
 じゃあ、行こう。そう笑って私はまた歩き出す。石畳にふたつの影が並んでいる光景は、何だか嬉しいものだった。

『この子は何だか懐いてるように見えますよ』

 私に何故か唯一友好的――というより、ただ単に逃げなかったポケモンであるムウマージ。もうすぐ家に着くというところでカフェ店員の彼の言葉を思い出した私は、唯一自分に友好的であるこの子をゲットするのも「アリ」かもしれないと思ったものの、すぐに「いや」と首を振った。
 今は亡き祖父母にとっての大切なお客様だったポケモンであるムウマージを私がどうこうしていい存在だとは思えない。それに、せっかくこうして懐いてくれているらしいこの子に余計なことをしたくなかった。
 それで今までの他のポケモンたちのように離れていってしまったら嫌だったのだ。

 私の視線に気がついたのであろうムウマージが、キョトンとした顔で首を傾げる。何でもないよ。そう言って私ははぐらかした。

 ムウマージと思いがけず再会し、家に招いた日。あの日からほぼ毎日、ムウマージは私の家に姿を見せるようになった。
 それは朝の時もあれば夜の時もあって、突然するっと壁をすり抜けて姿を現すものだから、私はもう何度も驚かされている。
 だけど自分の日常のワンシーンにポケモンの姿がこうも鮮明に映り込むことは初めての経験で、私はイタズラ好きらしいムウマージのことを怒れずにいた。

「お待たせいたしました。ラムのみのパイとカフェオレです」

 昼下がりに姿を現したムウマージを連れて、私はまたバトルカフェに来ていた。ピークを過ぎたからか、カフェは随分と空いている。

さん、今日こそムウマージさんとバトルに挑戦します?」

 メニューを運んできた親しい店員の彼に、この前と同じような質問をされる。それに私は首を振った。

「いえ、相変わらずこの子は野生のままなんで」
「あれっ、そうなんですか?」
「こんなにずっと一緒にいてくれるなら、ゲットしちゃおうかなとも思ったんですけどねー。でも、余計なことをしてこの子に嫌われちゃったら悲しいので……。ほら、私ポケモンに好かれないから」

 見えない力でフォークを使い、器用にパイの端を切り分けて口に運ぶムウマージを見ながら言う。すると彼はうーん、と首を捻った。

「ムウマージさんはどう思ってるんですかね?」
「え?」

 ムウマージがどう思っているか。彼に言われて私はハッとした。そういえば、ムウマージへ直接気持ちを聞いたことはないのだ。

 思わずムウマージを見遣る。するとラムのみのパイに向けられていた赤い目が私へ向けられて視線がぶつかった。
 そうだ、聞いてみればいいんだ。そう思いはしたものの、同時に恐ろしいとも思ってしまう。唯一私に心を開いてくれているこの子から拒絶されたらどうしよう。
 質問の答えを知ってしまうのが、怖い。
 ――でも。私はテーブルの下でぎゅっと手を握ると、思い切って口を開いた。

「ムウマージ。あのね……あなたに私のパートナーになってほしいってお願いしたら、どう思う……?」

 勇気を振り絞って尋ねると、ムウマージは拍子抜けするほどあっさりと頷いてくれた。それも、「なんだ、そんなこと」そんな顔をして。

 私がポケモンをゲットすること。それは半ば夢物語のようなものだったから、当然私は空のモンスターボールなど持ち合わせていなかった。
 カフェ店員の彼から「帰りにポケモンセンターで買ったらいいと思いますよ」と言われ、私は首を横に振った。
 自分の、初めてのパートナー。それならばただのモンスターボールではなくて、ちょっぴり特別なボールを選んで贈りたかったのだ。

 ラムのみのパイの半分以上をムウマージに食べられてしまったために追加でオーダーしたモモンケーキを運んできた彼へ礼を言ったあと、「決めました」と私は言葉を続けた。

「何のボールでゲットするか、ですか?」
「はい! モンスターボールじゃなくてゴージャスボールにしようかなって。シュートシティまで買いに行かなきゃいけないですけど」
「えっ、良ければ一緒に行きません? 丁度シュートシティにあるブティックを見たかったんですよね」
「本当ですか? アーマーガアタクシーで行くにしても、遠出になるのでついて来ていただけるならありがたいです!」
 
 そんな私たちのやり取りを微笑ましく思ったのか、ムウマージが赤い目を細めて笑う。
 つい見惚れてしまいそうになるような優雅な笑み。その口元がこっそりと何かのことばを紡いでいたことに、私は気がつかなかった。