「懐かしいものを見つけちゃった」
モンスターボールから出されるなりにそんなことを言われたので、ドククラゲは双眼をぱちりと瞬かせた。が朝から庭の物置の整理をしていることは知っていたので、「一体何を見つけたのやら」と思ったのだ。
ドククラゲが首を傾げるとはふふっと楽しそうに笑った。彼女の手が、ドククラゲのたくさんある触手の内の一本へ伸びる。休みなく整理をしていたためか、少し埃っぽくなっている手のひらが触手の先端から少し離れたところを捉えた。
「来て」
メノクラゲの頃からの長い付き合いの中でたったの一度も刺してしまったことはないし、どこへなら触れて問題ないのかをはちゃんと理解していて、その上で気をつけていることも分かっている。けれどドククラゲはが触手に触れるたび、先端の毒針でうっかり刺してしまわないか内心ひやひやしてしまう。
それでもこの、自分へやさしく触れる手のやわらかな感触は心地よいものだと思いながら、ドククラゲは残りの触手を器用にぶにぶにと動かしてのあとについていった。
に導かれてリビングから庭へ出ると、初夏の少し眩しい日差しがドククラゲの体をなぞった。ドククラゲは思わず目を細めて、それから庭の木の下で目を留める。
そこにはの言った通り確かに懐かしいもの──少し大きなビニールプールがあった。濃紺のビニール素材に、白いラインでパウワウやシェルダーといった水タイプのポケモンたちがたくさん描かれているものだ。
ビニールプールは空気が入れられる前のぺしゃんこの状態で、広いとは言えない庭に広げられている。まるで乾物のような状態のそれを見て、ドククラゲは時々海で見かける砂浜へ打ち上げられた水タイプのポケモンの姿を思い浮かべた。
「物置を片付けていたらこれが出てきたの」
家庭用のビニールプールにしては少しだけ深さがある──といってもの膝下くらいまでのものだが──は、ドククラゲがまだメノクラゲだった頃の夏のある日、庭で水遊びをするのにどうかとの親が買ってきてくれたものだ。
その傍らには物置から一緒に発掘したのであろう、ビニールプールを膨らませるための電動式のポンプも用意されている。
「今日は海じゃなくて、これでどう?」
メノクラゲの時とは違って常に水の中にいなくとも別に問題はないものの、水棲のポケモンということもあってドククラゲは一日に一度は水に浸かった方が調子がいい。家から海まではさほど遠くないこともあり、ふたりで海へ行くのは日課となっているのだ。
今日はこの小さな海で構わない。そうドククラゲが頷くと、はやわらかく微笑んだ。
電動のポンプであっという間に膨らんだビニールプールに、は庭の水道へ繋いだホースで水を溜めていく。
ビニールでできた小さな海に潮が満ちていく様子を眺めながら、ドククラゲは昔のことを思い出していた。
潮が引いたことで波打ち際に取り残されたメノクラゲは、抜けるような青空を眺めながらぼんやりしていた。海を離れた体はすっかり干からびてしまっている。しかし当の本人はほんの少しも焦ってはいなかった。
メノクラゲというポケモンは、海を移動する際泳ぐのではなく潮の流れに乗って漂っている。そんな彼らにとって、波に流されてうっかり砂浜に打ち上がる、なんてことは日常茶飯事なのだ。
それに、干からびてしまっている体も潮が満ちて海水に浸れば元通りになる。だから焦ることもなく、何もせずにこのままこうしていればいいだけだ──と、メノクラゲは目を閉じた。
潮が満ちるまではもう少し時間がかかるだろうし、それまで一眠りしようと思ったのである。
潮騒と、それに重なるキャモメたちのクゥクゥという喋り声。近くの岩場でクラブとマケンカニがハサミを打ち鳴らしているのであろう音。そんな美しい海の子守唄に雑音が混じったのは、メノクラゲが居眠りを始めてからしばらく経った頃だった。
「えっ! たいへん!」
聞き慣れない声にメノクラゲは目を開いた。起き抜けの頭でぼんやりしていると顔に影がかかり、視界いっぱいに広がっていた青空が遮られる。どこからかやってきた人間の子供が、顔を覗いてきたからだった。
「メノクラゲ……だよね? どうしてこんな姿なの?」
メノクラゲの体は殆どが水分でできており、干からびると色は美しい水色から砂浜の砂と同じ土色になる。人間の子供はこの状態のメノクラゲを見たことがないようだった。
メノクラゲが無視をすると子供は少し悩んだ素振りを見せて、それから無遠慮に土色の頭を指先でつついてきた。干からびた頭に不愉快な振動が響いて、たまらずメノクラゲはキッとにらみつける。
干からびた体は思うように動かすことができないので、それが唯一できる「やめろ」という意思表示なのだ。すると子供は目をまるくして、それからううんと首を捻った。
「……もしかして、具合が悪いの?」
メノクラゲが険しい表情を浮かべた理由が子供には伝わっていないようだった。それどころか、メノクラゲがもう一度にらみつけると子供はそれを肯定と勘違いしたらしく、「大変!」と深刻そうな顔で声を上げた。
「どうしよう……」
どうもしないで放っておいてほしいとメノクラゲは思ったが、生憎それを伝える術はなかった。もうこれ以上この子供と関わりたくないと思ったメノクラゲは目を閉じる。「にらみつける」の効果が何もないと判断したメノクラゲの、せめてもの抵抗だった。
ええい、もう関わるな。そんなメノクラゲの気持ちを露ほども知らない子供が、今度は「そうだ!」と明るい声を上げた。
干からびた頭に子供の高い声がキンと響いてメノクラゲは顔をしかめる。波に流されてうっかりハギギシリの縄張りへ流れ着いてしまった時、彼らが威嚇のために発した「いやなおと」を思い出す不快さだった。
続けてガサガサと何かを漁る音がしたので、嫌な予感にメノクラゲは恐る恐る目を開く。
子供は手からビニール袋を提げていて、その中からパックのジュースを取り出すと傍らに置いた。
「えへへ! いいこと思いついちゃった。ちょっとがまんしてね」
無邪気な笑顔を浮かべた子供の「いいこと思いついちゃった」という発言にゾッとしたメノクラゲは身震いした。
その様子に子供が気がつくはずもなく、メノクラゲの頭を両側から鷲掴みにするとそのまま持ち上げる。メノクラゲの目がぐるんと回った。水分が抜けて干からびたメノクラゲの体は、子供の腕力でも持ち上げられるほど軽くなっているのだ。
メノクラゲの視界が真っ白になる。空になったビニール袋へ入れられたのだと理解するまで、少し時間がかかった。
自身の状況を理解したメノクラゲはもがこうしたが、干からびた体では思うように動けない。ヘドロを吐き出せばビニール一枚の薄い壁などあっという間に溶かすこともできただろうに、生憎ヘドロを吐き出す力さえもなかった。
砂浜を踏みしめる音とそれに合わせてビニール袋が揺れる音から、子供が移動を開始したのだということをメノクラゲは悟った。スッと体が冷えていく感覚にまた身震いする。
白く薄い壁の向こうで海が遠ざかっていく絶望に、メノクラゲの目の前が真っ暗になった。
家に帰るや否や、子供は母親に「変なメノクラゲがいた!」とビニール袋の中を見せた。ビニール袋を覗く母親と目を合わせたメノクラゲは、頼むから助けてくれと訴える。
「、ポケモンはちゃんとモンスターボールに入れなきゃだめでしょ。こんなビニール袋なんかに入れて、メノクラゲが干からびてるじゃない!」
「ち、ちがうよ。元からこうだったんだよ」
親子の会話を聞いたメノクラゲは、ありもしない肩を落とした。こうしてという子供の手によって家へと連れ帰られたメノクラゲは、そのままあっさりとゲットされたのだった。
こんな出会いだったが、それでも今となってはあの日と出逢えてよかったとドククラゲは思っていた。
あの日から今に至るまでとても大切にされているし、ドククラゲも彼女が何より一番大切な存在になっている。ふたりの種族は違えども、とドククラゲは互いに確固たる信頼で結ばれている得難いパートナーとなったのだ。
「こんなもんかなあ」
そう言いながらがホースの水を止めた。半径一メートルほどの小さな海は十分に潮が満ちていて、ゆらゆらと波打つ海面は木漏れ日を受けてキラキラと輝いている。
ドククラゲは誘うように波打つそこをじっくりと眺めてから期待に満ちた眼差しをへ向ける。「どうぞ」とが頷いたので、ドククラゲは体の一番前の触手二本をそろりと持ち上げて小さな海に下ろした。その次に前から二番目を。そうしてゆっくりと庭から小さな海の中へと移動したドククラゲは体を屈めるべく触手を縮こまらせる。
水色の体のふちが浸かると海面が大きく波打ち、ざぶざぶと音を立てて勢いよく水が逃げていく。いくつもの水飛沫が、木々の葉の隙間を抜けて降り注ぐ太陽の欠片に反射して真珠のように美しく光った。
「メノクラゲだった時はすっごく広く感じたんだけどなあ。さすがに狭くなっちゃったね」
押し寄せた波に足元を思い切り濡らされたが笑う。
今となってはすっかり狭くなってしまったこのビニールプールも、メノクラゲだった頃はとふたりで入ってもまだまだ余裕があった。今はふたりで入ったら水が半分以上なくなってしまうだろう。
確かに、と頷いたドククラゲは、コアルヒーやケイコウオの形のおもちゃを浮かべたり、みずでっぽうでちょっかいをかけたらテッポウオの形の水鉄砲で撃ち返されたことを思い出した。
の言葉が呼び水となって、この小さな海に纏わる夏の思い出が次から次へと蘇ってくる。記憶の底に沈んでいた懐かしい思い出に、ドククラゲは濃紺の縁にそっと触手の先を乗せて目を細めた。
「水、かけてあげるね」
そう言ってが水道に繋いだままのホースを手に取り、再び蛇口をひねる。それを見ていたドククラゲは、あることを思いついた。さあさあと水が流れ出るホースの先を、がドククラゲへ向ける──その瞬間だった。
ドククラゲは瞬きの間に二本の触手を伸ばし、の脇の下へ差し入れて、ぐるりと巻きつけた。
「え?」
突然のことにの目がまるくなった。お構いなしに、ドククラゲはそのまま彼女の体を持ち上げる。するとドククラゲが何をしようとしているのか理解したらしいが「いいから!」と叫んだ。
しかしその時にはもう遅く、次の瞬間の体はドククラゲの触手の隙間で水に浸かっていた。
「いっ……、いいって言ったのに!」
ホースの向きがめちゃくちゃになったせいで、ふたりは揃って頭から水を被った。そのせいで顔に張り付いた髪をかき上げたが抗議の声を上げる。わざとらしくドククラゲが目を逸らすと、ホースを握り直したに顔へ水をかけられた。
「はあ……」
呆れたような溜め息と共に身動ぎしたが、膝の裏をビニールプールの縁へ乗せて足の先を投げ出す。それから肩の力を抜くと上半身をドククラゲに預けた。
ドククラゲが顔を覗き込むと、は「やっぱり狭いよ」と言って、それから声を上げて笑った。だから、釣られてドククラゲも笑ってしまったのだった。
ひとしきり笑って、お互いに容赦なく水を掛け合ったあと。に「やっぱり今日も海に行く?」と尋ねられたドククラゲは首を傾げた。
「プール、思った以上に狭くなってたから。ドククラゲは満足できたのかなーって」
は思った以上に狭くなっていたビニールプールでは大した水遊びにならなかったと思っているようだった。間髪入れずにドククラゲが首を振るとは目を瞬かせる。
「……本当に?」
十分に満足しているから大丈夫。そうドククラゲはもう一度しっかりと頷いてみせる。
ドククラゲは海に全身を浸して波に揺られる心地よさが好きだ。
──けれど、今日はここがよかった。まだ暫くはこうしてとくっついたまま、この小さな海で懐かしさと幸福に浸っていたかったのだ。
(半径一メートルの海/20230729)
モンスターボールから出されるなりにそんなことを言われたので、ドククラゲは双眼をぱちりと瞬かせた。が朝から庭の物置の整理をしていることは知っていたので、「一体何を見つけたのやら」と思ったのだ。
ドククラゲが首を傾げるとはふふっと楽しそうに笑った。彼女の手が、ドククラゲのたくさんある触手の内の一本へ伸びる。休みなく整理をしていたためか、少し埃っぽくなっている手のひらが触手の先端から少し離れたところを捉えた。
「来て」
メノクラゲの頃からの長い付き合いの中でたったの一度も刺してしまったことはないし、どこへなら触れて問題ないのかをはちゃんと理解していて、その上で気をつけていることも分かっている。けれどドククラゲはが触手に触れるたび、先端の毒針でうっかり刺してしまわないか内心ひやひやしてしまう。
それでもこの、自分へやさしく触れる手のやわらかな感触は心地よいものだと思いながら、ドククラゲは残りの触手を器用にぶにぶにと動かしてのあとについていった。
に導かれてリビングから庭へ出ると、初夏の少し眩しい日差しがドククラゲの体をなぞった。ドククラゲは思わず目を細めて、それから庭の木の下で目を留める。
そこにはの言った通り確かに懐かしいもの──少し大きなビニールプールがあった。濃紺のビニール素材に、白いラインでパウワウやシェルダーといった水タイプのポケモンたちがたくさん描かれているものだ。
ビニールプールは空気が入れられる前のぺしゃんこの状態で、広いとは言えない庭に広げられている。まるで乾物のような状態のそれを見て、ドククラゲは時々海で見かける砂浜へ打ち上げられた水タイプのポケモンの姿を思い浮かべた。
「物置を片付けていたらこれが出てきたの」
家庭用のビニールプールにしては少しだけ深さがある──といってもの膝下くらいまでのものだが──は、ドククラゲがまだメノクラゲだった頃の夏のある日、庭で水遊びをするのにどうかとの親が買ってきてくれたものだ。
その傍らには物置から一緒に発掘したのであろう、ビニールプールを膨らませるための電動式のポンプも用意されている。
「今日は海じゃなくて、これでどう?」
メノクラゲの時とは違って常に水の中にいなくとも別に問題はないものの、水棲のポケモンということもあってドククラゲは一日に一度は水に浸かった方が調子がいい。家から海まではさほど遠くないこともあり、ふたりで海へ行くのは日課となっているのだ。
今日はこの小さな海で構わない。そうドククラゲが頷くと、はやわらかく微笑んだ。
電動のポンプであっという間に膨らんだビニールプールに、は庭の水道へ繋いだホースで水を溜めていく。
ビニールでできた小さな海に潮が満ちていく様子を眺めながら、ドククラゲは昔のことを思い出していた。
潮が引いたことで波打ち際に取り残されたメノクラゲは、抜けるような青空を眺めながらぼんやりしていた。海を離れた体はすっかり干からびてしまっている。しかし当の本人はほんの少しも焦ってはいなかった。
メノクラゲというポケモンは、海を移動する際泳ぐのではなく潮の流れに乗って漂っている。そんな彼らにとって、波に流されてうっかり砂浜に打ち上がる、なんてことは日常茶飯事なのだ。
それに、干からびてしまっている体も潮が満ちて海水に浸れば元通りになる。だから焦ることもなく、何もせずにこのままこうしていればいいだけだ──と、メノクラゲは目を閉じた。
潮が満ちるまではもう少し時間がかかるだろうし、それまで一眠りしようと思ったのである。
潮騒と、それに重なるキャモメたちのクゥクゥという喋り声。近くの岩場でクラブとマケンカニがハサミを打ち鳴らしているのであろう音。そんな美しい海の子守唄に雑音が混じったのは、メノクラゲが居眠りを始めてからしばらく経った頃だった。
「えっ! たいへん!」
聞き慣れない声にメノクラゲは目を開いた。起き抜けの頭でぼんやりしていると顔に影がかかり、視界いっぱいに広がっていた青空が遮られる。どこからかやってきた人間の子供が、顔を覗いてきたからだった。
「メノクラゲ……だよね? どうしてこんな姿なの?」
メノクラゲの体は殆どが水分でできており、干からびると色は美しい水色から砂浜の砂と同じ土色になる。人間の子供はこの状態のメノクラゲを見たことがないようだった。
メノクラゲが無視をすると子供は少し悩んだ素振りを見せて、それから無遠慮に土色の頭を指先でつついてきた。干からびた頭に不愉快な振動が響いて、たまらずメノクラゲはキッとにらみつける。
干からびた体は思うように動かすことができないので、それが唯一できる「やめろ」という意思表示なのだ。すると子供は目をまるくして、それからううんと首を捻った。
「……もしかして、具合が悪いの?」
メノクラゲが険しい表情を浮かべた理由が子供には伝わっていないようだった。それどころか、メノクラゲがもう一度にらみつけると子供はそれを肯定と勘違いしたらしく、「大変!」と深刻そうな顔で声を上げた。
「どうしよう……」
どうもしないで放っておいてほしいとメノクラゲは思ったが、生憎それを伝える術はなかった。もうこれ以上この子供と関わりたくないと思ったメノクラゲは目を閉じる。「にらみつける」の効果が何もないと判断したメノクラゲの、せめてもの抵抗だった。
ええい、もう関わるな。そんなメノクラゲの気持ちを露ほども知らない子供が、今度は「そうだ!」と明るい声を上げた。
干からびた頭に子供の高い声がキンと響いてメノクラゲは顔をしかめる。波に流されてうっかりハギギシリの縄張りへ流れ着いてしまった時、彼らが威嚇のために発した「いやなおと」を思い出す不快さだった。
続けてガサガサと何かを漁る音がしたので、嫌な予感にメノクラゲは恐る恐る目を開く。
子供は手からビニール袋を提げていて、その中からパックのジュースを取り出すと傍らに置いた。
「えへへ! いいこと思いついちゃった。ちょっとがまんしてね」
無邪気な笑顔を浮かべた子供の「いいこと思いついちゃった」という発言にゾッとしたメノクラゲは身震いした。
その様子に子供が気がつくはずもなく、メノクラゲの頭を両側から鷲掴みにするとそのまま持ち上げる。メノクラゲの目がぐるんと回った。水分が抜けて干からびたメノクラゲの体は、子供の腕力でも持ち上げられるほど軽くなっているのだ。
メノクラゲの視界が真っ白になる。空になったビニール袋へ入れられたのだと理解するまで、少し時間がかかった。
自身の状況を理解したメノクラゲはもがこうしたが、干からびた体では思うように動けない。ヘドロを吐き出せばビニール一枚の薄い壁などあっという間に溶かすこともできただろうに、生憎ヘドロを吐き出す力さえもなかった。
砂浜を踏みしめる音とそれに合わせてビニール袋が揺れる音から、子供が移動を開始したのだということをメノクラゲは悟った。スッと体が冷えていく感覚にまた身震いする。
白く薄い壁の向こうで海が遠ざかっていく絶望に、メノクラゲの目の前が真っ暗になった。
家に帰るや否や、子供は母親に「変なメノクラゲがいた!」とビニール袋の中を見せた。ビニール袋を覗く母親と目を合わせたメノクラゲは、頼むから助けてくれと訴える。
「、ポケモンはちゃんとモンスターボールに入れなきゃだめでしょ。こんなビニール袋なんかに入れて、メノクラゲが干からびてるじゃない!」
「ち、ちがうよ。元からこうだったんだよ」
親子の会話を聞いたメノクラゲは、ありもしない肩を落とした。こうしてという子供の手によって家へと連れ帰られたメノクラゲは、そのままあっさりとゲットされたのだった。
こんな出会いだったが、それでも今となってはあの日と出逢えてよかったとドククラゲは思っていた。
あの日から今に至るまでとても大切にされているし、ドククラゲも彼女が何より一番大切な存在になっている。ふたりの種族は違えども、とドククラゲは互いに確固たる信頼で結ばれている得難いパートナーとなったのだ。
「こんなもんかなあ」
そう言いながらがホースの水を止めた。半径一メートルほどの小さな海は十分に潮が満ちていて、ゆらゆらと波打つ海面は木漏れ日を受けてキラキラと輝いている。
ドククラゲは誘うように波打つそこをじっくりと眺めてから期待に満ちた眼差しをへ向ける。「どうぞ」とが頷いたので、ドククラゲは体の一番前の触手二本をそろりと持ち上げて小さな海に下ろした。その次に前から二番目を。そうしてゆっくりと庭から小さな海の中へと移動したドククラゲは体を屈めるべく触手を縮こまらせる。
水色の体のふちが浸かると海面が大きく波打ち、ざぶざぶと音を立てて勢いよく水が逃げていく。いくつもの水飛沫が、木々の葉の隙間を抜けて降り注ぐ太陽の欠片に反射して真珠のように美しく光った。
「メノクラゲだった時はすっごく広く感じたんだけどなあ。さすがに狭くなっちゃったね」
押し寄せた波に足元を思い切り濡らされたが笑う。
今となってはすっかり狭くなってしまったこのビニールプールも、メノクラゲだった頃はとふたりで入ってもまだまだ余裕があった。今はふたりで入ったら水が半分以上なくなってしまうだろう。
確かに、と頷いたドククラゲは、コアルヒーやケイコウオの形のおもちゃを浮かべたり、みずでっぽうでちょっかいをかけたらテッポウオの形の水鉄砲で撃ち返されたことを思い出した。
の言葉が呼び水となって、この小さな海に纏わる夏の思い出が次から次へと蘇ってくる。記憶の底に沈んでいた懐かしい思い出に、ドククラゲは濃紺の縁にそっと触手の先を乗せて目を細めた。
「水、かけてあげるね」
そう言ってが水道に繋いだままのホースを手に取り、再び蛇口をひねる。それを見ていたドククラゲは、あることを思いついた。さあさあと水が流れ出るホースの先を、がドククラゲへ向ける──その瞬間だった。
ドククラゲは瞬きの間に二本の触手を伸ばし、の脇の下へ差し入れて、ぐるりと巻きつけた。
「え?」
突然のことにの目がまるくなった。お構いなしに、ドククラゲはそのまま彼女の体を持ち上げる。するとドククラゲが何をしようとしているのか理解したらしいが「いいから!」と叫んだ。
しかしその時にはもう遅く、次の瞬間の体はドククラゲの触手の隙間で水に浸かっていた。
「いっ……、いいって言ったのに!」
ホースの向きがめちゃくちゃになったせいで、ふたりは揃って頭から水を被った。そのせいで顔に張り付いた髪をかき上げたが抗議の声を上げる。わざとらしくドククラゲが目を逸らすと、ホースを握り直したに顔へ水をかけられた。
「はあ……」
呆れたような溜め息と共に身動ぎしたが、膝の裏をビニールプールの縁へ乗せて足の先を投げ出す。それから肩の力を抜くと上半身をドククラゲに預けた。
ドククラゲが顔を覗き込むと、は「やっぱり狭いよ」と言って、それから声を上げて笑った。だから、釣られてドククラゲも笑ってしまったのだった。
ひとしきり笑って、お互いに容赦なく水を掛け合ったあと。に「やっぱり今日も海に行く?」と尋ねられたドククラゲは首を傾げた。
「プール、思った以上に狭くなってたから。ドククラゲは満足できたのかなーって」
は思った以上に狭くなっていたビニールプールでは大した水遊びにならなかったと思っているようだった。間髪入れずにドククラゲが首を振るとは目を瞬かせる。
「……本当に?」
十分に満足しているから大丈夫。そうドククラゲはもう一度しっかりと頷いてみせる。
ドククラゲは海に全身を浸して波に揺られる心地よさが好きだ。
──けれど、今日はここがよかった。まだ暫くはこうしてとくっついたまま、この小さな海で懐かしさと幸福に浸っていたかったのだ。
(半径一メートルの海/20230729)