Hanada
 森へ帰ったクスネはにんげんのすみかへ行かずに日々を過ごしました。
 にんげんに笑われたことが恥ずかしかったので、もう二度と行くもんかと心に決めたからです。

 ですが──クスネはどうしてもあのごちそうの味が忘れられませんでした。
 それに、「またおいで」という言葉がずうっと耳に残っていました。
 クスネは他のポケモンが見つけた食べ物を横取りして生きるポケモンです。それが理由で、同じ森で暮らすムックルやホシガリス、シキジカたちからは煙たがられていました。顔をしかめられた回数を数えたらキリがないほどです。
 そんなクスネにとって、ああして誰かから笑顔を向けられるということはとても新鮮で珍しい体験だったのです。

 あの日のことを思い出すとどうにもくすぐったくなって、胸がポカポカして、その度にクスネは巣穴の中で何度も身をよじりました。
 巣穴の奥の山積みになった宝物を眺めて気を紛らわそうとしましたが、どうにも上手くいきません。

 それらを忘れようと頭を振って、巣穴の壁におでこをぶつけてしまった日。
 おでこの痛みにうずくまったクスネは、散々悩んだ末に再びにんげんのすみかへ足を運ぶことを決めたのでした。


 久しぶりに訪れたにんげんのすみかからは、いつかと同じ甘いかおりが漂っていました。
 まだ庭へ足を踏み入れてもいないのに、ごくりと喉が鳴ります。それに続いて、おなかからは早く早くと急かすように大きな音が鳴りました。

 直されていない柵の隙間を慎重にくぐり抜けたクスネは、背丈ほどある草の中をこっそり進みます。ふかふかの肉球があるので足音がすることはありません。
 草のかたまりの端まで来たところで、クスネは緑の隙間から庭の様子を覗きました。最後に見た時と変わらないテーブルがあって、その下にぴかぴかの赤いお皿があるのが見えます。

『食べていいよ。あなたのために焼いたんだから』

 クスネはあの日のにんげんの言葉を思い出しました。
 何かに導かれるように足を踏み出して、引き返そうと途中で足を止めて――それを何度か繰り返し、長い時間をかけて赤いお皿へ辿り着きました。
 つややかな赤色の、少しだけ深いお皿。そこにはやっぱりあのまあるいごちそうがありました。

 クッキー、だったっけ?
 またしてもにんげんの言葉を思い出しながら、クスネは何度か匂いをかぎました。分かってはいましたが、毒でも罠でもなさそうです。
 ややあって、クスネはそれをひとつ口にくわえました。牙にほんの少し力を込めると、ごちそうはさくりと音を立てて崩れていきます。
 きのみに似た、けれど違う甘い味です。クスネは夢中になってごちそうを食べました。

 ガチャリと音を立てて家のドアが開いたのは、お皿がすっかりからっぽになった頃でした。続けて、さくさくと地面を踏みしめる音がします。
 にんげんが庭へやって来るのだと分かりましたが、クスネはそこから動きませんでした。どうしてか、ここで逃げてしまってはいけないような気がしたのです。
 少し怖いけれど平気なフリをして、クスネはにんげんがやって来るのを待ちました。

「あ!」

 庭へやってきたにんげんはクスネに気がつくと大きな声を出しましたが、慌てた様子で口を閉じました。クスネがまた驚いてしまうと思ったのでしょう。
 しかしクスネが逃げずに大きな尻尾を揺らめかせると、にんげんは驚いたような顔をして、そろそろと近づいてきました。

「こんにちは」

 あと少しで手が届きそうな距離。そこで足を止めたにんげんが口を開きました。ささやくような小さな声です。迷った末にクスネも真似をして小さく鳴きました。

「もう遊びに来てくれないかと思ってた」

 そのつもりだったんだよ。クスネがつんとそっぽを向くと、にんげんはふふっと笑いました。

「初めは野生のポケモンにつまみ食いされちゃったかなあ、くらいにしか思わなかったんだけどね」

 にんげん曰く。一度や二度ならまだしも、あまりにも頻繁につまみ食いをしに来るものだから、どんなポケモンが自分の焼いたクッキーを気に入ってくれたのかが気になっていたのだそうです。

「やっと会えた! と思ったのに遊びに来なくなっちゃったから……また来てくれてよかった」

 また来てくれてよかった。そう言われたクスネはむずがゆくなりました。くすぐったさのあまり、今すぐにでも身をよじって暴れたい気分です。
 ここに来てごちそうを食べたら治ると思っていたのに。クスネはこの何とも言えないむずむずする気持ちをごまかそうと、ジトッとした目でにんげんを見つめました。

「ごめんね。今日の分はそれだけなの」

 にんげんはクスネがおかわりをねだっていると思ったようです。
 そうじゃない。クスネがふるりと首を振ると、にんげんは言葉を続けました。

「また焼いておくね。いつでもおいで」

 いつでも、という思わぬ言葉に目を瞬かせたクスネはその言葉を噛みしめて、嬉しそうに鳴きました。



 それからひとつの季節が過ぎました。

 昼を迎えると多くのポケモンたちが活発になるので森は賑やかになります。
 巣穴の入り口を隠してくれるしげみから顔を覗かせたクスネは、周りに誰もいないことを確認すると静かに走り出しました。
 もちろん、今日も自分の足跡を尻尾で払うことは忘れません。

 森を抜けたクスネは小道を駆けていきます。そうすると、やがて小さな家が見えました。
 家の前へ辿り着いたクスネは口を大きく開けて息を整えてから、ゆっくりとした足取りで目的地へ向かいました。
 そうです。あの、庭を囲む柵の中で一部分だけぐらぐらしている場所です。ぐらぐらしている板を鼻の頭で押しのけると、柵はあっさりクスネへと道をゆずりました。

 緑の海をかき分けたクスネがぴょんと勢いよく飛び出せば、その先で小さな木へ水をやっていたにんげん──と目が合いました。途端に彼女は花のような笑みを浮かべます。

「ちょっと待っててね」

 頷いたクスネは、庭に置かれた椅子の上に飛び乗って丸くなりました。そよ風が赤茶色の毛先をやさしく撫でていきます。
 クスネはすっかりに心を許していました。

「おまたせ」

 クスネがまどろんでいると、彼女の声が耳に届きました。
 大きなあくびをしてから目を開けると、が赤いお皿と薄い水色のマグカップを手にして立っていました。
 クスネが食べやすいように、テーブルの下へお皿が置かれます。そこでようやく今日のおやつが見えました。ふっくらとしたポフィンです。今までにも何度か食べたことがあります。
 クスネが椅子を飛び降りると、そこへ代わりにが座りました。

 クスネがおやつを食べる間、いつもはその様子を楽しそうに眺めています。
 じいっと見られるのが、クスネは少しだけ苦手でした。にこにこ見つめられると、どうしてもくすぐったくなってしまうからです。けれど、決して嫌ではありませんでした。
 ポフィンをあっという間に平らげたクスネはのことを見上げました。今度は自分がじいっと見てやろうと思ったのです。

 は薄い水色に細かな白い模様の入った可愛らしいマグカップを持っていました。クスネ専用の赤いお皿と同じくつややかで、それにぴかぴかしています。
 マグカップから漂う甘い匂いを嗅いだクスネは、「あの中身はここあだな」と思いました。以前が同じ匂いのするものを飲んでいた時に教えてくれたのです。

「ココアが飲みたいの?」

 視線に気がついたの質問に、クスネは首を横に振りました。ココアの甘い匂いより、ぴかぴかのマグカップの方が気になっていたのです。
 ココアはいらない。けれど視線はマグカップに注がれたまま。そのことに気がついたは「ああ、これ」と口を開きました。

「いいでしょ。可愛かったから買っちゃった」

 同意を示すためにクスネが頷くと、は嬉しそうに目を細めました。

「……そういえば喉は乾いてない? お水、飲む?」

 マグカップをテーブルに置いたが首を傾げます。お水はちょっとほしいかも。クスネが首を縦に振ると、は椅子から立ち上がりました。

「お水、持ってくるね」

 がお水を取りに行ったのを見て、クスネはぴょんと椅子に飛び乗りました。彼女が置いていったぴかぴかのマグカップをもう少し見てみたかったのです。
 テーブルに前足をかけて身を乗り出すと、クスネはマグカップに顔を近づけました。細かな模様が何かは分かりませんが、日差しを受けてぴかぴかつやつやしているマグカップはとても綺麗です。
 少しだけ触ってみたいな──そう思ったクスネが前足を伸ばしてマグカップを引き寄せた時でした。
 バランスを崩しそうになって慌てたクスネは、マグカップを前足で払ってしまい、その上落としてしまったのです。

 しまった! そう思った時には遅く、マグカップは椅子の端に当たっていやなおとを立てました。
 クスネは椅子から飛び降りると、無惨にも割れて転がっているマグカップを呆然と眺めました。後ろ足に熱いココアがかかってやけどをしましたが、それどころではありません。
 どうしよう。どうしよう。うろうろとマグカップの周りを歩いていると、家の扉の開く音がしました。
 
 すっかり「こんらん」状態になってしまったクスネは、弾かれたようにその場から逃げ出しました。



 のマグカップを割ってしまった日からしばらくが経ちました。クスネはあれから一度もの家へ行っていません。

 クスネは巣穴の一番奥で小さくなっていました。ここのところずっとこんな調子です。
 何をしていても思い浮かぶのは、ぴかぴかでつやつやのマグカップとそれを嬉しそうに持っていたの姿です。

 自分がそうしているように、もきっとあのぴかぴかでつやつやのマグカップを宝物のように大切にしていたに違いない。それをだめにしてしまった挙句逃げ出したのだから、は自分のことを嫌いになっただろうな。
 そんなことを考えるクスネの大きな目から、大粒の涙がいくつも落ちました。まるでクヌギダマがばら蒔いたまきびしをうっかり踏んでしまった時のように、胸がちくちく痛んで仕方なかったのです。

 熱いココアがかかった後ろ足のやけどは、やけどによく効くチーゴのみを食べればあっという間に治りました。痛みももうありません。
 ですが、のことを考える度にちくちくする胸の痛みは、何をしても何を食べても治りそうにありませんでした。

 クスネが身動ぎをすると、宝物の山が崩れて何かが鼻の頭にコツンと触れました。いつだったか、オレンのみと間違えて持ってきたぼんぐりのみです。
 前足で何度かぼんぐりのみを転がしたクスネは、迷った末にあることを決意して起き上がりました。



 クスネは何度も巣穴との家の庭を往復していました。
 庭のテーブルの下。そこに、いつもクスネを迎えてくれた赤くてぴかぴかのお皿はありません。そのことにじくりと胸が痛みましたが、今はそれを気にするよりも、やらなければならないことがあります。

 クスネは今までに集めたぴかぴかの宝物を、一つ残らず庭のテーブルの下へ運んでいました。
 自分の宝物すべてを、へ差し出そうと思ったのです。

 つやつやの青色のぼんぐりのみ。何かのあかいかけらとあおいかけら。それに空から落ちてきたかのような、お星さまによく似たぴかぴかの石。丸くてつやつやの石もあります。にんげんのすみかの近くで拾ったゴージャスなボールに、青く透き通ったみずのいしもありました。
 それだけではありません。おだんごのように連なった、真っ白くてつややかな宝石のようなものに、薄い水色のきれいなハネもありました。その他にもまだまだたくさんあります。

 それらを全て運び終えると、クスネはふうと息を吐きました。
 自分の集めた宝物をすべて差し出したところで、割ってしまったマグカップの代わりになるのかは分かりません。
 それに、せっかく集めた宝物を全部手放す決意をするのには少し勇気が必要でした。
 ですが、クスネは数え切れない宝物を失うことよりも、せっかくできた友達を失うことの方が怖かったのです。

 クスネは日差しを受けてぴかぴか輝く宝物たちを眺めてから、を呼ぶために家の扉へ向かおうとしました。

 ガチャリと音を立てて家のドアが開いたのは、その時でした。
 扉が閉まると、今度はさくさくと地面を踏みしめる音がしました。クスネの心臓は森でリングマに追いかけられた時よりもばくばくしています。
 この後のことを考えると怖くて仕方がありませんが、ここで逃げてしまってはいけないと、前足に力を込めたクスネは背筋を伸ばして待ちました。

「あ!」

 いつかと同じようにクスネに気がついたが大きな声を出して、慌てて口を閉じます。
 ゆっくりと歩いてクスネの前にやってきたは、静かにしゃがむと微笑みました。

「こんにちは」

 迷った末に、クスネも小さな声で鳴きました。

「もう遊びに来てくれないかと思ってた」

 クスネが俯くと、頭のてっぺんに「マグカップ、割ったでしょ」との声が落ちてきました。ちっとも怒っていない、けれど呆れたような声です。
 おずおずと顔を上げると、がふっと笑いました。

「怪我はしなかった?」

 やけどはしましたが、チーゴのみのお陰ですっかりよくなっているのでクスネは頷きます。

「それならよかった。……で、これはどうしたの?」

 テーブルの下へ並べられたぴかぴかの宝物たち。それらを順番に眺めたが首を傾げました。

 クスネはまず、青いぼんぐりのみをの方へ押しやりました。続けてあかいかけらを口にくわえると、の目の前に置きます。

「これ、全部私に?」

 が目をまるくしています。クスネは首を縦に振りました。
 の宝物、割っちゃって本当にごめん。お願い、友達のままでいて。そう告げたいのに、にんげんの言葉を持たないクスネの口からは小さくて震える鳴き声が漏れるだけです。

「困ったなあ。こんなに受け取れないよ」

 が眉を下げて笑いました。それじゃあ困るのだと、クスネはじいっとの顔を見つめます。
 クスネが退かないことを察したのか、はううんと唸りました。

「……それなら、これをもらってもいい?」

 があるものへ手を伸ばしました。
 それは、随分と前ににんげんのすみかの近くで拾ったゴージャスなボールでした。つやつやの黒いボールにぴかぴかした金色の装飾が施されたものです。

「クスネが遊びに来てくれないと退屈だしさみしいの。それに、何かあったんじゃないかって心配にもなっちゃう」

 だから、と言葉を続けたがクスネへボールを差し出しました。

「クスネさえよければ、私のパートナーになってくれない?」

 クスネは耳をぴんと立てると何度も瞬きをしました。たった今耳にした言葉が聞き間違いかと思ったのです。
 けれど、微笑むは変わらずボールを差し出しています。

 クスネは迷わずに一歩を踏み出しました。ぴかぴかで、つやつやで、どの宝物よりも輝いて見えるボールに額を触れさせます。
 胸の痛みはもう、すっかり治っていました。


 あのあと、とクスネは宝物の山を家の中へ運びました。
 初めての家の中へ入ったクスネは、嗅ぎ慣れた甘い香りがすることに気がついて鼻をひくりと動かしました。それに気がついたがやわらかな笑みを浮かべます。

「今日は寝坊したからお菓子を作るのが遅くなっちゃったんだよね。でも、もう少しで焼き上がると思うよ」

 テーブルの下に赤いお皿がなかった理由。それを知ったクスネはそっと息を吐きました。

「ほら見て。新しいマグカップも買ったんだよ」

 そう言ってが見せてくれたのは、つややかな赤色のマグカップでした。クスネ専用のお皿とおそろいの色です。

「どうかな? とてもいいと思わない?」

 に尋ねられたクスネは三日月のように目を細めて元気な声で鳴きました。



 とクスネがパートナーになってからしばらくしたある日のことです。

 が用意してくれた、クスネ専用の木製の宝箱。その中にしまわれたたくさんの宝物を眺めたり触ったりして遊んでいたクスネは、漂ってきた甘い匂いに「今日のおやつはポフレだな。それも、チョコレートがかかったやつ」と思いました。
 完成したポフレを想像するだけで、お腹がぐうぐうと大きな音で鳴ります。

 しばらくするとがやってきて、「じゃーん!」なんて言いながらクスネの前へ赤いお皿を置きました。
 そこにはクスネの予想通り、美味しそうなポフレがありました。チョコレートもちゃんとかかっています。

 隣に座ったは、手にしていた赤いマグカップに口をつけました。どうやら中身はあたたかいモーモーミルクのようです。
 クスネはポフレをゆっくり味わいながら、にそうっと体を寄せました。それだけでにはクスネの言いたいことが伝わったのでしょう。ナマエはマグカップを傍らに置くと赤茶色の背中へ手を伸ばしました。

 毎日朝と夜に丁寧なブラッシングをしてもらって、惜しみない愛情を注がれているクスネの毛並みはふたりが出会った頃よりも随分と毛艶がよくなりました。尻尾のふかふか具合にも磨きがかかっています。

 毛先をくすぐる指先の心地よさに、クスネはたまらず仰向けになりました。
 そうすると、まるでかけがえのないものを見るように優しく微笑むが目に入りました。
 の笑顔を見ると、クスネはぴかぴかの太陽を思い出します。眩しくて、あたたかくて、とっても安心するのです。
 言いようのない幸福に包まれて、むずがゆくなったクスネは身を捩りました。
 それから、もっと撫でてほしいのだと伝えるべく、つやつやの毛並みをあたたかな手のひらに押しつけたのでした。



(ぴかぴかで、つやつやの/20230326)
お題箱の「きつねポケモンが好きなのでクスネのお話」より。