ひどい吹雪の日には、美しい男のひとのたましいが大好きな雪女が、山から里へ下りてくるのです。ですからそんな日の夜は、何度扉を叩かれても、「どうか、たすけてくださいまし」なんて声が聞こえても、決してその扉を開けてはなりません。開けたら最後、雪女にたましいまで氷浸けにされて、山の奥へと連れ去られてしまいますからね。
──というのが、一年中雪が降り積もる山の麓の、この小さな町に伝わる「雪女伝説」だ。けれど、今までに実際雪女を見ただとか、山奥へ連れ去られてしまった人がいるだなんて話を聞いたことはない。所詮、小さな子供が夜に出歩かないように戒めるためのおとぎ話だ。そう思っていたのだけど。
珍しく、ひどい吹雪の夜だった。
覗いたガラスの向こうに広がる景色は真っ白で、窓は絶えずギシギシと軋んでいる。この町に雪が降ることはさして珍しくないけれど、こんなにも吹雪いているのは数年に一度あるかないかだ。ソファに座り、絶えず耳に届く窓の悲鳴を聞きながら温かい紅茶に口をつける。明日はどれくらい雪が積もるだろう。そんなことを考えていた時だった。コンコン、と、玄関の扉がノックされたのは。
風が強いし、何かが扉にぶつかったのだろうか。明日になったら確認しなくちゃ。そう思って反応を示さずにいると、少しの間を置いて再度扉がノックされた。先ほどよりも、少しだけ強めに叩かれたものだった。思わず眉間にしわを寄せる。
時刻は夜の十時を回るというのに、こんな時間に一体誰だろう。ソファのサイドテーブルに、紅茶がまだ半分ほど残ったマグカップを置いて立ち上がる。念のためインターホンを確認したものの何も映っておらず、仕方なく厚手のコートを羽織っていると、その間にまたもノックされた。
慌ててコートの前を閉めた私は、「はいはーい、ちょっと待って!」なんて声を上げながら玄関へ向かった。
「……えっ?」
思わず声が出た。身構えて玄関の扉を開けると、吹き荒ぶ雪の中、見たことのないポケモンがちょこんと立って──地面から数センチの高さに浮かんでいたからだ。真っ白いからだと、何故か大きく見開かれた水色の目。二対の小さな角に、赤い帯のような装飾。つい、寒さを忘れて角の先から地面に一番近いところまで、余すことなくポケモンのすがたを凝視してしまう。ひゅう、と一際強い風が吹いたことで我に返った私は、ゆっくりと口を開いた。
「……えっーと、どんなご用? というか寒いから、用があるなら中に入ってもらっていい? さ、さむ……はっくしゅん!」
大きなくしゃみをし、ずび、と鼻を鳴らすとポケモンの肩が跳ねた。見ず知らずの野生のポケモンを招き入れるのもな、と思わなかった訳じゃない。けれど何度も扉をノックされ、その上今、こうして目の前でとても困ったような顔をしているのを見ると、無下にすることはできなかった。それに何より、いつまでも扉を開けたままにしていたら玄関の中が雪だらけになってしまう。本当に、ものすごく寒い。
きっと何か用でもあるんだろう。それか、迷子かも。人間に助けを求めるなんて切羽詰まってるなあ……なんて勝手に思いつつ中に早く入るように促すと、ポケモンは困惑の表情を浮かべながら、するりと家の中に入り込んだ。精一杯の力を込めて、勢いよく扉を閉める。
暖かいリビングに戻ると、ポケモンはふわふわと浮かんだまま後をついてきた。そんなポケモンを横目に、コートをラックに掛け、ソファに腰を下ろす。
ポケモンはソファから少し離れた場所で、落ち着きなく部屋の中を見回していた。その顔には相変わらず困惑したような、そんな表情が浮かんでいる。まだ温かい紅茶を飲み干して、ほう、と溜め息を吐いた私は、ポケモンに向き直った。
「それで、どうしたの? あんなにノックをしていたくらいだから、きっと何かあるんだよね?」
尋ねると、ポケモンはさっと目を逸らした。視線が右から左へ、また右へと落ち着きなくさ迷っている。
そのまま待つこと、十分。このままでは埒が明かない。どうしたものかなと考えた末に立ち上がると、指と指の先を合わせてもじもじしていたポケモンの潤んだ目が私を捉えた。
「……ちょっと待っててくれる?」
そう言ってキッチンに向かった私は、ややあってからマグカップを手にポケモンの元へと戻った。
マグカップの中身は、モーモーミルクとお砂糖を入れてレンジで温めただけのホットミルクだ。緊張でもしているのかな。それなら温かいものでも飲んだらどうだろう、と作ってみたのだ。
「よければ、どうぞ」
ポケモンにマグカップを差し出すと、ふたつの目がまるくなった。恐る恐る持ち手の部分を持ったポケモンは、ほこほこと立ち上る湯気をじっと見つめている。
あまり熱くないとは思うけれど、熱いのは苦手だったかな。そう思っていると、ポケモンがそうっと息を吐いた。ひゅう、と吹き荒ぶ吹雪の声に似た音がして、それと同時に立ち上っていた湯気が消え失せる。それどころか、僅かに部屋の温度が下がったような気がした。まるで、突然部屋の中で吹雪いたような──そこであることを思い出した私はつい口を開いた。
「……あなたって、何だか伝説の雪女みたい」
私の呟きに、ポケモンがこてりと首を傾げた。
ひどい吹雪の日には、美しい男のひとのたましいが大好きな雪女が、山から里へ下りてくるのです。ですからそんな日の夜は、何度扉を叩かれても、「どうか、たすけてくださいまし」なんて声が聞こえても、決してその扉を開けてはなりません。開けたら最後、雪女にたましいまで氷浸けにされて、山の奥へと連れ去られてしまいますからね。
町に昔から伝わる、雪女の伝説。今日はひどい吹雪だ。「助けてください」なんて声は聞いていないけれど、何度も扉を叩かれた。おまけに先ほどの、湯気が立ち上るホットミルクを一瞬で冷ましてしまった凍てつく吐息。
もし仮に目の前の見慣れないポケモンが伝説の雪女だったとしたら。扉を開けてはいけないのに、扉を開けるどころか家の中に招き入れて、ホットミルクを出してしまった。そんなことを考えながら、最早ただの甘いミルクを飲んでいるポケモンを見つめる。
そういえばこのポケモンのすがたも、よく見れば絵本に描かれる雪女のすがたに似てるかも、なんて思っていると、ポケモンが気まずそうに視線を泳がせた。どうやらまじまじと見すぎてしまったらしい。
「うーん……」
暫く考えた結果、仮に目の前のポケモンが雪女だったとして、「まあ、いいか」と思った。別に暴れる訳でもなく、今のところは大人しくしているし。一体どうしてここに来たのか。その理由を聞いたら、帰ってもらうことにしよう。
こうして私がのんきに構えていられるのには理由がある。何故なら、伝説に伝わる雪女の好きなものは「美しい男のひとのたましい」なのだ。まず私、男じゃないし。雪女のコレクションに加えられる心配もないだろう。
「……とりあえず、おかわり、いる?」
私の質問に、ポケモン──伝説の雪女のように見える彼女は、ミルクで口の周りに白いヒゲを作りながら頷いた。
これが私とユキメノコの出逢いだ。
伝説の雪女疑惑のあるユキメノコを家に招き入れてから、恐ろしいほどあっという間に日々が過ぎ去っていってしまった。いつの間にか随分と懐いてくれたユキメノコは、今も私と一緒に暮らしている。
「ねえねえ、ユキメノコ」
今ではすっかり好物になったらしいお砂糖入りの甘いモーモーミルクを飲んでいたユキメノコが、カップから口を離して首を傾げる。
「この前できた新しいカフェ、よかったら行ってみない?」
スマホロトムにカフェのホームページを開いてもらい、ユキメノコに見せる。興味津々といった様子で画面を覗き込んだユキメノコは、そこにある美味しそうなメニューの並びを見て嬉しそうに鳴いた。
素直に感情を表す可愛らしい姿を見ながら考える。
結局、なぜあの日彼女が私の家を尋ねてきたのかは分からないままだ。当時は確かに困っているような、何かを探しているような、そんな風にも見えたのだけど。
けれど今現在そのことでユキメノコが困った素振りを見せることはないし、それどころか私との生活を気に入ってくれている様子なので、まあいいか、と思った。
ユキメノコがこの町に昔から伝わる伝説の雪女なのかも分からないままだけど、それも最早どうでもいいことだ。むしろ、分からないままでいいとすら思っている。
だって、雪女伝説の最後は雪女が山奥へ帰って終わるのだ。それも好みの男のひとを連れて。
「……ユキメノコ、これからも私と一緒にいてね?」
私が突然そんなことを言ったからか、ユキメノコは怪訝そうな顔をした。けれどすぐに笑顔を浮かべると、当たり前だと言うように頷いたのだった。
──というのが、一年中雪が降り積もる山の麓の、この小さな町に伝わる「雪女伝説」だ。けれど、今までに実際雪女を見ただとか、山奥へ連れ去られてしまった人がいるだなんて話を聞いたことはない。所詮、小さな子供が夜に出歩かないように戒めるためのおとぎ話だ。そう思っていたのだけど。
珍しく、ひどい吹雪の夜だった。
覗いたガラスの向こうに広がる景色は真っ白で、窓は絶えずギシギシと軋んでいる。この町に雪が降ることはさして珍しくないけれど、こんなにも吹雪いているのは数年に一度あるかないかだ。ソファに座り、絶えず耳に届く窓の悲鳴を聞きながら温かい紅茶に口をつける。明日はどれくらい雪が積もるだろう。そんなことを考えていた時だった。コンコン、と、玄関の扉がノックされたのは。
風が強いし、何かが扉にぶつかったのだろうか。明日になったら確認しなくちゃ。そう思って反応を示さずにいると、少しの間を置いて再度扉がノックされた。先ほどよりも、少しだけ強めに叩かれたものだった。思わず眉間にしわを寄せる。
時刻は夜の十時を回るというのに、こんな時間に一体誰だろう。ソファのサイドテーブルに、紅茶がまだ半分ほど残ったマグカップを置いて立ち上がる。念のためインターホンを確認したものの何も映っておらず、仕方なく厚手のコートを羽織っていると、その間にまたもノックされた。
慌ててコートの前を閉めた私は、「はいはーい、ちょっと待って!」なんて声を上げながら玄関へ向かった。
「……えっ?」
思わず声が出た。身構えて玄関の扉を開けると、吹き荒ぶ雪の中、見たことのないポケモンがちょこんと立って──地面から数センチの高さに浮かんでいたからだ。真っ白いからだと、何故か大きく見開かれた水色の目。二対の小さな角に、赤い帯のような装飾。つい、寒さを忘れて角の先から地面に一番近いところまで、余すことなくポケモンのすがたを凝視してしまう。ひゅう、と一際強い風が吹いたことで我に返った私は、ゆっくりと口を開いた。
「……えっーと、どんなご用? というか寒いから、用があるなら中に入ってもらっていい? さ、さむ……はっくしゅん!」
大きなくしゃみをし、ずび、と鼻を鳴らすとポケモンの肩が跳ねた。見ず知らずの野生のポケモンを招き入れるのもな、と思わなかった訳じゃない。けれど何度も扉をノックされ、その上今、こうして目の前でとても困ったような顔をしているのを見ると、無下にすることはできなかった。それに何より、いつまでも扉を開けたままにしていたら玄関の中が雪だらけになってしまう。本当に、ものすごく寒い。
きっと何か用でもあるんだろう。それか、迷子かも。人間に助けを求めるなんて切羽詰まってるなあ……なんて勝手に思いつつ中に早く入るように促すと、ポケモンは困惑の表情を浮かべながら、するりと家の中に入り込んだ。精一杯の力を込めて、勢いよく扉を閉める。
暖かいリビングに戻ると、ポケモンはふわふわと浮かんだまま後をついてきた。そんなポケモンを横目に、コートをラックに掛け、ソファに腰を下ろす。
ポケモンはソファから少し離れた場所で、落ち着きなく部屋の中を見回していた。その顔には相変わらず困惑したような、そんな表情が浮かんでいる。まだ温かい紅茶を飲み干して、ほう、と溜め息を吐いた私は、ポケモンに向き直った。
「それで、どうしたの? あんなにノックをしていたくらいだから、きっと何かあるんだよね?」
尋ねると、ポケモンはさっと目を逸らした。視線が右から左へ、また右へと落ち着きなくさ迷っている。
そのまま待つこと、十分。このままでは埒が明かない。どうしたものかなと考えた末に立ち上がると、指と指の先を合わせてもじもじしていたポケモンの潤んだ目が私を捉えた。
「……ちょっと待っててくれる?」
そう言ってキッチンに向かった私は、ややあってからマグカップを手にポケモンの元へと戻った。
マグカップの中身は、モーモーミルクとお砂糖を入れてレンジで温めただけのホットミルクだ。緊張でもしているのかな。それなら温かいものでも飲んだらどうだろう、と作ってみたのだ。
「よければ、どうぞ」
ポケモンにマグカップを差し出すと、ふたつの目がまるくなった。恐る恐る持ち手の部分を持ったポケモンは、ほこほこと立ち上る湯気をじっと見つめている。
あまり熱くないとは思うけれど、熱いのは苦手だったかな。そう思っていると、ポケモンがそうっと息を吐いた。ひゅう、と吹き荒ぶ吹雪の声に似た音がして、それと同時に立ち上っていた湯気が消え失せる。それどころか、僅かに部屋の温度が下がったような気がした。まるで、突然部屋の中で吹雪いたような──そこであることを思い出した私はつい口を開いた。
「……あなたって、何だか伝説の雪女みたい」
私の呟きに、ポケモンがこてりと首を傾げた。
ひどい吹雪の日には、美しい男のひとのたましいが大好きな雪女が、山から里へ下りてくるのです。ですからそんな日の夜は、何度扉を叩かれても、「どうか、たすけてくださいまし」なんて声が聞こえても、決してその扉を開けてはなりません。開けたら最後、雪女にたましいまで氷浸けにされて、山の奥へと連れ去られてしまいますからね。
町に昔から伝わる、雪女の伝説。今日はひどい吹雪だ。「助けてください」なんて声は聞いていないけれど、何度も扉を叩かれた。おまけに先ほどの、湯気が立ち上るホットミルクを一瞬で冷ましてしまった凍てつく吐息。
もし仮に目の前の見慣れないポケモンが伝説の雪女だったとしたら。扉を開けてはいけないのに、扉を開けるどころか家の中に招き入れて、ホットミルクを出してしまった。そんなことを考えながら、最早ただの甘いミルクを飲んでいるポケモンを見つめる。
そういえばこのポケモンのすがたも、よく見れば絵本に描かれる雪女のすがたに似てるかも、なんて思っていると、ポケモンが気まずそうに視線を泳がせた。どうやらまじまじと見すぎてしまったらしい。
「うーん……」
暫く考えた結果、仮に目の前のポケモンが雪女だったとして、「まあ、いいか」と思った。別に暴れる訳でもなく、今のところは大人しくしているし。一体どうしてここに来たのか。その理由を聞いたら、帰ってもらうことにしよう。
こうして私がのんきに構えていられるのには理由がある。何故なら、伝説に伝わる雪女の好きなものは「美しい男のひとのたましい」なのだ。まず私、男じゃないし。雪女のコレクションに加えられる心配もないだろう。
「……とりあえず、おかわり、いる?」
私の質問に、ポケモン──伝説の雪女のように見える彼女は、ミルクで口の周りに白いヒゲを作りながら頷いた。
これが私とユキメノコの出逢いだ。
伝説の雪女疑惑のあるユキメノコを家に招き入れてから、恐ろしいほどあっという間に日々が過ぎ去っていってしまった。いつの間にか随分と懐いてくれたユキメノコは、今も私と一緒に暮らしている。
「ねえねえ、ユキメノコ」
今ではすっかり好物になったらしいお砂糖入りの甘いモーモーミルクを飲んでいたユキメノコが、カップから口を離して首を傾げる。
「この前できた新しいカフェ、よかったら行ってみない?」
スマホロトムにカフェのホームページを開いてもらい、ユキメノコに見せる。興味津々といった様子で画面を覗き込んだユキメノコは、そこにある美味しそうなメニューの並びを見て嬉しそうに鳴いた。
素直に感情を表す可愛らしい姿を見ながら考える。
結局、なぜあの日彼女が私の家を尋ねてきたのかは分からないままだ。当時は確かに困っているような、何かを探しているような、そんな風にも見えたのだけど。
けれど今現在そのことでユキメノコが困った素振りを見せることはないし、それどころか私との生活を気に入ってくれている様子なので、まあいいか、と思った。
ユキメノコがこの町に昔から伝わる伝説の雪女なのかも分からないままだけど、それも最早どうでもいいことだ。むしろ、分からないままでいいとすら思っている。
だって、雪女伝説の最後は雪女が山奥へ帰って終わるのだ。それも好みの男のひとを連れて。
「……ユキメノコ、これからも私と一緒にいてね?」
私が突然そんなことを言ったからか、ユキメノコは怪訝そうな顔をした。けれどすぐに笑顔を浮かべると、当たり前だと言うように頷いたのだった。