庭に溢れる緑の中でもよく目立つ赤色。それを見たが思い出したものは、よく熟れたあまーいりんごだった。
そういえばリンゴがまだひとつあったっけ。差し出したらあの子は受け取ってくれるだろうか。そんなことを考えながら庭のすみにしゃがむと、りんごを連想させた赤い背中を見つめて口を開いた。
「ルチャブル」
驚かせてしまわないようにと気をつけたつもりだったが、その背中は分かりやすいほどに跳ねて縮こまってしまった。失敗だったな、とは苦笑する。
縮こまってしまった赤色――ルチャブルがゆっくりと振り返る。あまりにもぎこちない動きをする体からは、古びた扉が開いた時のような錆びついた音が聞こえてきそうだった。
振り返ったルチャブルはの姿を捉えると、途端にあまいミツのような金色の目をまるくする。
「ルチャブル」
促すようにもう一度名前を呼んだはちょいちょいと手招きをした。ルチャブルは金色の目をまるくしたままぴくりとも動かない。がそのまま辛抱強く待っていると、やがて黄色の足先が遠慮がちに踏み出された。
けれど、お互いの距離があと数歩というところでその歩みは止まってしまう。
ルチャブルはどうやら迷っているようだった。踏み出すか、踏み出さないか。オレンジに縁取られた目には困惑の色がありありと浮かんでいる。
俯いてしまったルチャブルの頭のてっぺんをは長いこと見つめていたものの、「ルチャブルはもうそこ動かないだろう」そう判断すると立ち上がった。また、赤色の肩が分かりやすいほどに跳ねた。
「大丈夫。……ね?」
は自身の一挙一動に大きく反応を示すルチャブルの元へゆっくり近寄って、残り数歩の距離を埋めていく。そうしてようやく彼の前にたどり着くと、もう一度しゃがんで微笑んだ。
ルチャブルの目が右から左、左から右へと泳ぐ。その様子を静かに見守っていると、鋭い爪を携えた指と指を合わせたルチャブルは意を決した様子でのことを見つめ返した。その目からは今にも涙が溢れそうだ。
さて、ここからどうしたものか。そう悩んだ末にが右手をゆっくり伸ばすとルチャブルの体が僅かに強ばった。あっと思ったは伸ばした手を引っ込めて、「頭に触れてもいい?」と尋ねる。するとルチャブルはややあってから小さく頷いた。
許可を得られたことにホッと息を吐いたは、もう一度手を伸ばすと今度こそ赤い頭に触れた。手のひらでやわく触れた赤い羽毛は、思っていたよりも随分とパサついている。
「ありがとう。チョロネコを追い払ってくれたでしょう?」
遡ること数分前。庭で日向ぼっこをしているはずのルチャブルの様子を見に来たが目にしたのは、彼がチョロネコを追い払う姿だった。
チョロネコといえば人が困っている様子を見るのが好きなイタズラ好きのポケモンである。先程まで庭にいたチョロネコも例に漏れず、は今までに何度もイタズラの被害に遭っていた。
その内容は片付けておいたはずのジョウロを庭先へ引きずり出されたり、プランターに挿した可愛いピックを盗まれたりといったもので、は散々手を焼いてきた。しかし、そんなチョロネコをつい最近この家へやって来たルチャブルが追い払ってくれたのである。
今までのことを「いいオモチャ」認定してこの庭でやりたい放題していたチョロネコも、飛び上がって尻尾を巻いて逃げていったのだからもう来ないだろう。
「私じゃどうすることもできなかったからすごく助かっちゃった」
ルチャブルが大人しく撫でさせてくれることに少しだけ安堵したは、その右手をルチャブルの頬へ触れさせた。
「いいこ、ね」
あまりよくない毛艶の頬。そこを何度か撫でると、ルチャブルは困惑した眼差しをへ向けた。それに気がついたは手を止めて口を開く。
「頬を撫でられるのは苦手?」
一呼吸置いたあとにルチャブルが小さく首を振る。
「そっか。それならよかった」
胸を撫で下ろしたがルチャブルの頬を指先でくすぐると、長い時間見つめられることに慣れていないらしいあまいミツのような色の目はぎゅっと閉じられてしまった。
***
ルチャブルはバトル好きのトレーナーの元でタマゴから孵ったポケモンだ。
生まれてすぐにバトルへ向けた厳しいトレーニングが始まって、暫くするとバトルの腕試しができる施設に連れていかれるようになった。
おとなしい性格のルチャブルはバトルが好きでもないし嫌いでもなかったが、それでもトレーナーのために必死に戦った。しかし彼の戦績は他の手持ちに比べて戦績が芳しくなく、トレーナーはより強いポケモンを手に入れるとルチャブルをあっさり手放してしまったのだった。
トレーナーの指示通り戦うことに慣れていたルチャブルはひとりで戦うことに慣れていない。
だというのに突然野生へと帰されてしまったルチャブルは、逃がされた先のくさむらで運悪くも野生のポケモンの群れに襲われてしまった。そうして瀕死の傷を負って倒れていたところを、偶然通り掛かったに保護されたのである。
それが、およそ一ヶ月前のこと。
バトル漬けだったと言っても過言ではないほど生まれてからバトルしかしてこなかったルチャブルにとって、との生活は戸惑うことばかりだった。
口にしたことがあるものは味気ないごはんやタウリンにインドメタシンといった栄養ドリンクばかりだったので、甘いお菓子があることを知らなかった。トレーナーとポケモンがのんびり過ごすことのできる公園があることも知らなかった。
それに、バトルでは活躍できなかったので元のトレーナーから褒められたことがなかったが、はルチャブルが庭の雑草を抜いたり荷物を持った、なんてたったそれだけのことで褒めるのだ。
頭を撫でられたり、やさしい声色で名前を呼ばれること。そんな風に触れられる経験がなかったルチャブルは、そういう時どうして良いのか分からなくなって泣きたくなるのである。
しかしはルチャブルの過去やそんな事情を知らないので、大怪我をして倒れていたしきっと今は人や他のポケモンが怖いのだろうと思っていた。
「……あれ、こんな所に傷があったんだね」
はルチャブルの首の付け根に触れたところで手を止めた。何やら一部だけ赤色が薄いなと思ったら、それがうっすらと残った傷あとであることに気がついたからだ。
閉じていた目をそろそろと開いたルチャブルは、一部だけ色素の薄くなったそこに触れるを見ながらこの傷がついた時のことを思い出した。
これはバトルの腕試しができる施設に初めて連れていかれた時、相手のマッスグマにつけられたものだ。鋭い爪を防ぎ切れずに切り傷を負ってしまい、傷が治ったあとに生えた羽毛の色素がそこだけ薄くなってしまったのである。
「ルチャブルはここに来る前はたくさんバトルとかしていたの?」
チョロネコを追い払った時のルチャブルの身のこなしや覚えている技などから、何となく元は別のトレーナーのポケモンだったのだろうなとは思っていた。
だからルチャブルが小さく頷いたのを見てやっぱりね、なんて思いつつ「へえ。じゃあ、結構強かったりするんだ?」と言葉を続ける。するとルチャブルは肩を落として悲しそうな表情を浮かべた。
「……もしかしてバトルが苦手なの?」
その言葉にますますルチャブルが落ち込んでしまった様子を見ては首を傾げた。
「そうなの? でも、その割にはチョロネコをさっと追い払ってくれたよね。すっごく助かったよ。ありがとう」
赤色の頭のてっぺんをやさしく撫でると、随分と長い時間が過ぎてからルチャブルは静かに顔を上げた。
を見上げるその目に嫌悪の色はない。ただ困惑の色だけが浮かんでいて、その表情は今にも泣きだしそうに見える。
それを見て、はようやくルチャブルが褒められたりすることに慣れていないのだと気がついた。
自分のことを見つめる不安が入り交じった瞳。それをまっすぐに見つめ返しては微笑んだ。
「ルチャブルは、きっとまだたくさんのことを知らないんだね」
叱られていると勘違いしたのか縮こまってしまったルチャブルの手をはやさしく握る。途端にルチャブルのあまいミツのような色の目がまるくなった。
「それが悪いとか、そういうことじゃないの。あなたがまだ知らないことは、これから私がいくらでも教えてあげる。だからルチャブルは私に、私が知らないあなたのことをたくさん教えてね」
私はまだ、ルチャブルが苦い味が好きだってことと、あなたが褒められるのに慣れてないってことくらいしか知らないから。
がそう言うと、ルチャブルはぽかんとした後にようやくふにゃりと笑って見せたのだった。
と出逢ってルチャブルが初めて見せた笑顔を彩るように庭の花が揺れる。ふたりがいる陽だまりを吹き抜けていく風はやさしい。
ルチャブルがこれから知ることになる世界は、きっとこの陽だまりのようにあたたかな光に満ちていることだろう。
きっと世界は温かい/20141209
加筆修正/20231031
そういえばリンゴがまだひとつあったっけ。差し出したらあの子は受け取ってくれるだろうか。そんなことを考えながら庭のすみにしゃがむと、りんごを連想させた赤い背中を見つめて口を開いた。
「ルチャブル」
驚かせてしまわないようにと気をつけたつもりだったが、その背中は分かりやすいほどに跳ねて縮こまってしまった。失敗だったな、とは苦笑する。
縮こまってしまった赤色――ルチャブルがゆっくりと振り返る。あまりにもぎこちない動きをする体からは、古びた扉が開いた時のような錆びついた音が聞こえてきそうだった。
振り返ったルチャブルはの姿を捉えると、途端にあまいミツのような金色の目をまるくする。
「ルチャブル」
促すようにもう一度名前を呼んだはちょいちょいと手招きをした。ルチャブルは金色の目をまるくしたままぴくりとも動かない。がそのまま辛抱強く待っていると、やがて黄色の足先が遠慮がちに踏み出された。
けれど、お互いの距離があと数歩というところでその歩みは止まってしまう。
ルチャブルはどうやら迷っているようだった。踏み出すか、踏み出さないか。オレンジに縁取られた目には困惑の色がありありと浮かんでいる。
俯いてしまったルチャブルの頭のてっぺんをは長いこと見つめていたものの、「ルチャブルはもうそこ動かないだろう」そう判断すると立ち上がった。また、赤色の肩が分かりやすいほどに跳ねた。
「大丈夫。……ね?」
は自身の一挙一動に大きく反応を示すルチャブルの元へゆっくり近寄って、残り数歩の距離を埋めていく。そうしてようやく彼の前にたどり着くと、もう一度しゃがんで微笑んだ。
ルチャブルの目が右から左、左から右へと泳ぐ。その様子を静かに見守っていると、鋭い爪を携えた指と指を合わせたルチャブルは意を決した様子でのことを見つめ返した。その目からは今にも涙が溢れそうだ。
さて、ここからどうしたものか。そう悩んだ末にが右手をゆっくり伸ばすとルチャブルの体が僅かに強ばった。あっと思ったは伸ばした手を引っ込めて、「頭に触れてもいい?」と尋ねる。するとルチャブルはややあってから小さく頷いた。
許可を得られたことにホッと息を吐いたは、もう一度手を伸ばすと今度こそ赤い頭に触れた。手のひらでやわく触れた赤い羽毛は、思っていたよりも随分とパサついている。
「ありがとう。チョロネコを追い払ってくれたでしょう?」
遡ること数分前。庭で日向ぼっこをしているはずのルチャブルの様子を見に来たが目にしたのは、彼がチョロネコを追い払う姿だった。
チョロネコといえば人が困っている様子を見るのが好きなイタズラ好きのポケモンである。先程まで庭にいたチョロネコも例に漏れず、は今までに何度もイタズラの被害に遭っていた。
その内容は片付けておいたはずのジョウロを庭先へ引きずり出されたり、プランターに挿した可愛いピックを盗まれたりといったもので、は散々手を焼いてきた。しかし、そんなチョロネコをつい最近この家へやって来たルチャブルが追い払ってくれたのである。
今までのことを「いいオモチャ」認定してこの庭でやりたい放題していたチョロネコも、飛び上がって尻尾を巻いて逃げていったのだからもう来ないだろう。
「私じゃどうすることもできなかったからすごく助かっちゃった」
ルチャブルが大人しく撫でさせてくれることに少しだけ安堵したは、その右手をルチャブルの頬へ触れさせた。
「いいこ、ね」
あまりよくない毛艶の頬。そこを何度か撫でると、ルチャブルは困惑した眼差しをへ向けた。それに気がついたは手を止めて口を開く。
「頬を撫でられるのは苦手?」
一呼吸置いたあとにルチャブルが小さく首を振る。
「そっか。それならよかった」
胸を撫で下ろしたがルチャブルの頬を指先でくすぐると、長い時間見つめられることに慣れていないらしいあまいミツのような色の目はぎゅっと閉じられてしまった。
***
ルチャブルはバトル好きのトレーナーの元でタマゴから孵ったポケモンだ。
生まれてすぐにバトルへ向けた厳しいトレーニングが始まって、暫くするとバトルの腕試しができる施設に連れていかれるようになった。
おとなしい性格のルチャブルはバトルが好きでもないし嫌いでもなかったが、それでもトレーナーのために必死に戦った。しかし彼の戦績は他の手持ちに比べて戦績が芳しくなく、トレーナーはより強いポケモンを手に入れるとルチャブルをあっさり手放してしまったのだった。
トレーナーの指示通り戦うことに慣れていたルチャブルはひとりで戦うことに慣れていない。
だというのに突然野生へと帰されてしまったルチャブルは、逃がされた先のくさむらで運悪くも野生のポケモンの群れに襲われてしまった。そうして瀕死の傷を負って倒れていたところを、偶然通り掛かったに保護されたのである。
それが、およそ一ヶ月前のこと。
バトル漬けだったと言っても過言ではないほど生まれてからバトルしかしてこなかったルチャブルにとって、との生活は戸惑うことばかりだった。
口にしたことがあるものは味気ないごはんやタウリンにインドメタシンといった栄養ドリンクばかりだったので、甘いお菓子があることを知らなかった。トレーナーとポケモンがのんびり過ごすことのできる公園があることも知らなかった。
それに、バトルでは活躍できなかったので元のトレーナーから褒められたことがなかったが、はルチャブルが庭の雑草を抜いたり荷物を持った、なんてたったそれだけのことで褒めるのだ。
頭を撫でられたり、やさしい声色で名前を呼ばれること。そんな風に触れられる経験がなかったルチャブルは、そういう時どうして良いのか分からなくなって泣きたくなるのである。
しかしはルチャブルの過去やそんな事情を知らないので、大怪我をして倒れていたしきっと今は人や他のポケモンが怖いのだろうと思っていた。
「……あれ、こんな所に傷があったんだね」
はルチャブルの首の付け根に触れたところで手を止めた。何やら一部だけ赤色が薄いなと思ったら、それがうっすらと残った傷あとであることに気がついたからだ。
閉じていた目をそろそろと開いたルチャブルは、一部だけ色素の薄くなったそこに触れるを見ながらこの傷がついた時のことを思い出した。
これはバトルの腕試しができる施設に初めて連れていかれた時、相手のマッスグマにつけられたものだ。鋭い爪を防ぎ切れずに切り傷を負ってしまい、傷が治ったあとに生えた羽毛の色素がそこだけ薄くなってしまったのである。
「ルチャブルはここに来る前はたくさんバトルとかしていたの?」
チョロネコを追い払った時のルチャブルの身のこなしや覚えている技などから、何となく元は別のトレーナーのポケモンだったのだろうなとは思っていた。
だからルチャブルが小さく頷いたのを見てやっぱりね、なんて思いつつ「へえ。じゃあ、結構強かったりするんだ?」と言葉を続ける。するとルチャブルは肩を落として悲しそうな表情を浮かべた。
「……もしかしてバトルが苦手なの?」
その言葉にますますルチャブルが落ち込んでしまった様子を見ては首を傾げた。
「そうなの? でも、その割にはチョロネコをさっと追い払ってくれたよね。すっごく助かったよ。ありがとう」
赤色の頭のてっぺんをやさしく撫でると、随分と長い時間が過ぎてからルチャブルは静かに顔を上げた。
を見上げるその目に嫌悪の色はない。ただ困惑の色だけが浮かんでいて、その表情は今にも泣きだしそうに見える。
それを見て、はようやくルチャブルが褒められたりすることに慣れていないのだと気がついた。
自分のことを見つめる不安が入り交じった瞳。それをまっすぐに見つめ返しては微笑んだ。
「ルチャブルは、きっとまだたくさんのことを知らないんだね」
叱られていると勘違いしたのか縮こまってしまったルチャブルの手をはやさしく握る。途端にルチャブルのあまいミツのような色の目がまるくなった。
「それが悪いとか、そういうことじゃないの。あなたがまだ知らないことは、これから私がいくらでも教えてあげる。だからルチャブルは私に、私が知らないあなたのことをたくさん教えてね」
私はまだ、ルチャブルが苦い味が好きだってことと、あなたが褒められるのに慣れてないってことくらいしか知らないから。
がそう言うと、ルチャブルはぽかんとした後にようやくふにゃりと笑って見せたのだった。
と出逢ってルチャブルが初めて見せた笑顔を彩るように庭の花が揺れる。ふたりがいる陽だまりを吹き抜けていく風はやさしい。
ルチャブルがこれから知ることになる世界は、きっとこの陽だまりのようにあたたかな光に満ちていることだろう。
きっと世界は温かい/20141209
加筆修正/20231031