目に映る景色が幸せなのだと

どれ程前からだろうか。ダークライは独りシンオウ地方の端にある「新月島」という島に棲み着いていた。その理由はダークライ自身が持って生まれた「ナイトメア」という力が周囲の者に無差別に悪夢を見せてしまうからだ。この力によって人々に疎まれ、元の棲み処も追い出され、流れるようにしてこの美しい自然に囲まれた島に辿り着いた。自分でナイトメアの力を制御できる訳でも無いので他者に疎まれたりすることは仕方がないことだとは分かっていたが、やはりどこか寂しい。それでも自分が姿を見せなければ解決する問題であったので、ダークライは誰一人いないこの新月島に身を潜めるようになった。



美しい自然に囲まれた新月島でダークライがひっそりと過ごすようになってから長い時間が経ったある日のことだ。

新月島への定期船で、珍しく一人の人間がやって来たのである。年に数本あるかないかという定期船だが、それでも乗客がいないことも珍しくはない。しかしそんな定期船に乗ってやって来たのがだった。は様々な場所やポケモンをこの目で見たいと旅しており、新月島へも「ダークライ」という珍しいポケモンがいると聞いてやって来たのだ。勿論悪夢を見せるという噂も聞いていたが、それに勝ったのが押さえようのない好奇心だった。

定期船から小さな波止場に降り立ったは、新月島の自然の美しさに目を見張った。波止場の階段を上がるとそこには草原が広がっており、さらにその中央には緑の生い茂る森があったのだ。は潮風の駆ける草原を暫く歩いた後、その森へと向かった。そうして森の中の開けた場所に辿り着いたは、そこに独り佇むダークライと出逢う。これが、とダークライの出逢いだった。

勿論最初はダークライもを警戒していたが、が特に敵対心を見せることもなく穏やかに話し掛けてくるので、打ち解けるまでにそう時間は掛からなかった。何より長い時間ひっそりと独りで暮らしていたことによって冷たく孤独になっていた心を、温められるようなそんな気分だったのだ。はそんなダークライに、様々な場所やポケモンの話を面白く聞かせた。様々な話を聞く度にダークライはにあれこれと質問し、その度には丁寧に答える。人とこうして正面から向き合って話すのは初めてだったので、ダークライはそれも嬉しかった。

あっという間に時間が過ぎて夕方になった所で、ダークライはに帰るのかと尋ねた。するとは意外にも暫くの間はここに滞在しようかと思うのだと言った。

「だからね、ダークライに許可を貰おうかと思って」
「私は構わないさ」
「本当に?ありがとう!暫くの間、よろしくね」

何だか楽しくなりそう、と笑ったに、ダークライも安心したように笑う。ここでと別れてしまうのは少し勿体無いような、寂しいような気がしたのだ。



滞在する期間は未定だったが、新月島の森には様々な木の実が成っており食料に困ったりすることもなかった。そして夜の眠る間は悪夢を見せてしまうからとダークライは新月島を離れていたが、朝になればの為にと新月島を案内し、とダークライはあっという間に仲良くなったのである。一緒に朝陽の昇る様子を眺め、潮風の駆ける草原を歩き、薄暗い森の中を歩き、毎日が何かしら新しいことの発見で、その度にはきらきらと目を輝かせた。

とても充実した毎日をダークライが過ごすようになってから、一週間が経とうとしている日のことだ。の唯一の手持ちであるムクホークはボールから出て新月島の上空を散歩しており、とダークライは小さな波止場に立っていた。は遠くの地平線を眺めていたが、ざあざあと潮騒が騒ぐと地平線からダークライへと目を向ける。そして不意に口を開いた。

「……そろそろここを発たないとなあ」

いきなり告げられた言葉に、ダークライは心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えた。が、ここからいなくなる?そう思いつつも、何とか言葉を絞り出す。

「そうか」

つっかえそうになりながらも何とかダークライがそう言うと、はダークライから視線を外し再び地平線へと目を向けた。

「カントーにジョウト、ホウエン、そしてここ…シンオウって来たからね。次はイッシュに行こうと思ってるの」

潮風がざあざあと吹くと、とダークライの間を駆けていった。の口から告げられた随分と遠くの行き先に、ダークライは眼を伏せる。

「……随分とまた遠くだな」
「ここも気に入ったし、離れるのも名残惜しいけどね」

容赦なく襲う胸の痛みに、ダークライは泣きたくなった。孤独には慣れている。それでも、一度孤独から救われてしまうともう二度とあんな寂しい、悲しい思いは味わいたく無いと思ってしまう。それ程までに、との毎日は眩しすぎたのだ。

「……は、どうしてもイッシュ地方へと行くのか?」
「……うん。ここに来る時は船だったけど、もうムクホークが道を覚えてくれているから……そうだなあ、早くて明日か明後日にでも」

滲んで見える美しい海を見つめながら、ダークライは小さく息を吐いた。自分は自分の「ナイトメア」という力のせいで島からは出られない。だが、はこの島を出ていってしまう。そう思うと、ダークライの心の奥底で今までに感じたことのないような感情がぐるぐると渦巻く。寂しさや悲しさ、そして独りにしないで欲しいという願い。無意識のうちにダークライはへと手を伸ばしていた。

「……ダークライ?」

訝しげに首を傾げるにダークライは手を翳した。途端に黒い靄が発生し、を覆う。は困惑した表情でダークライを見つめたが、それも一瞬のことだった。ダークライはがくりと倒れたを支えると上空へと目を向ける。旋回するように飛んでいたムクホークは突然倒れこんだの異変に気が付いたようで、とダークライの元へと向かってくるのが見えた。

例えようの無い、心に少しずつ広がり始めた重い気持ちを拭い去るようにダークライは首を振ると、の元へと向かってくるムクホークをもう一度静かに見据える。それからを支えている手とは反対の手で自分の顔を隠すように覆うと、自身を嘲笑した。馬鹿げていることだとは分かっている。それでもこうするしか無いのだと自分に言い聞かせると、の腰のボールへと手を伸ばした。ムクホークが普段入っているボールだ。それにぐっと力を込めると、ボールはパキパキと音を立てて軋む。そして皹が入ったかと思うと、ぐしゃりとひしゃげ、捻れた。ダークライが手のひらの力を弱めると、ひしゃげたボールはダークライの手を擦り抜け、波止場の足場で一度跳ねると海に落ちる。そして波に揺られて足場を支える杭にこつこつと音を立ててぶつかった。

帰る場所とも言うべきボールが使い物にならない程損傷するとそのポケモンは野生へと帰らざるを得ない訳だが、ムクホークはそれでもを自分の主人と認めているのかダークライへと飛び掛かった。それをを抱えて素早くかわしたダークライは、ムクホークへと手を翳す。を眠らせた技と同じ、ダークホールだ。ムクホークは黒い靄に覆われて悔しそうな顔をしたかと思うと、最後に悲しそうに表情を歪め波止場の傍の草原の中に落ちた。

突き刺すような胸の痛みは、未だ治まらない。それでもダークライは森の奥の開けた場所に向かうと、島でも一番大きく柔らかな葉を集めてそこへを寝かせた。はもう既に悪夢を見始めているのだろう。閉じられた瞼には涙がうっすらと滲んでいた。

……すまない」

たちまち先程拭い去った筈の重い気持ちが、罪悪感という形になってダークライを襲う。ダークライが謝罪をしても、は苦しそうに譫言を繰り返すだけだ。孤独への恐れが、自分の勝手な我が儘が、という一人の人間とムクホークという一匹のポケモンを悲しませることになった。自分はこれから孤独への苦しみの代わりに、その罪悪感に一生苛まれるのだろう。それでも、もうこうしてしまった以上引き返すことは出来ない。どうしても、彼女と一緒にいたかった。───そしてこの日からずっと、は恐らく一生出ることの出来ない新月島の悪夢を見ることになり、ムクホークはを助けようと新月島の上空を飛び回ることになったのである。








ダークライの声にはっと気が付くと、は草原の丘にある一本の木の木陰に横になっていた。あれ、と言って起き上がると、ダークライが大丈夫か、と尋ねる。

「もしかして、魘されてた?」
「……ああ」

ダークライは頷くと、またいつものように謝った。すまない、。と。それを聞いては笑う。

「もう、ダークライのナイトメアって力はダークライ自身にも抑えたり出来ないんでしょう?だから仕方ないって。気にしないで」
「…違うんだ」

そうダークライが言うとは不思議そうな顔をする。しかしダークライは何かを言おうとして止めた。もう今更どうにも出来ないのだ。

「いや、何でもない」
「変なの」

くすくすと笑うとは立ち上がり、ダークライも立ち上がったの隣へと並んだ。夕暮れに染まろうとする空は、今日も変わらず美しい。遠くでは僅かに星が輝き始めている。

「……本当に何度見ても綺麗」

の言葉にダークライは眼を細めた。ターコイズブルーの瞳が、夕暮れの橙色の光を孕んで滲む。

「……どうしてもこの美しい光景を見ると、私は泣きたくなってしまう」

ダークライの言葉の本当の意味を知らないは、柔らかく笑みを浮かべた。ダークライはそんな彼女をそっと見遣る。美しい自然に囲まれて、隣にはがいて、自分は独りでは無くなった。

それは自分が望んで手に入れた筈なのに。どうしようもない罪悪感と虚無感が渦巻いて、いつもこの美しい景色の中に見え隠れするのだ。そこまで考えて、ダークライは考えるのを止めた。そして眼に映るこの景色が、この光景が確かに幸せであると、心を蝕む罪悪感を圧し殺すように自身に言い聞かせる。

───夢の出口は見付かりそうにない。



(おわり)



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