という人間に倒れていたところを助けられてから一週間程が過ぎた頃、私はあのが住む家の外でぼんやりと佇んでいた。すると後ろから私の手元を覗いたが、慌てた様子で声を上げる。

「ミュウツー、花は無闇に折ったら駄目だって!」

彼女の言葉に、私は己の手に視線を落とした。私の手の中では、まだ蕾すらつけていない花がぽきりと折れてしまっている。の慌てた声に驚いたのか、近くの草の上で転げ回っていたホルビーが急いで姿を消したのが視界の端に見えた。

「……折るつもりは無かった」

私が気まずそうに言うと、はでも折れちゃったね、と肩を竦めた。私の極限にまで高められた力というのは私なりに加減をしても強すぎるらしく、そこらに生えている花なんかは、私が少し手にとって見ようとしただけでこうして折れてしまうのだ。

「脆過ぎるのも、困りものだな」
「ミュウツーの力が強すぎるんだから、優しくしないとだめだよ」

私が折った花の数は、ここ一週間の内で数十本にもなるだろう。はポケモンたちの生態系を研究しつつも、趣味で色々と草花を育てているらしい。曰くどれも育てば綺麗な花が咲くらしいのだが、綺麗というものがいまいち分からない私が、それらの草花をよく見ようと手に取るとこの有様だ。

「……気をつけよう」

素直に頷いてみせると、私の手のひらの上の蕾すらも付けずに折れた花を手に取ったが私を見る。どうしてあの時あのように感じたのかは分からないままだったが、一週間前に感じた、の私を見る瞳への恐怖のようなものは感じなくなっていた。

「ふふ。次は折らないといいね」

はそう笑うと育てている草花に水遣りを始めてしまったので、私は何も言わずにその様子を眺めていた。

それから暫くしては水を万遍無く遣り終えると、如雨露やホースを片付けてから、私に向かって「包帯を替えよう」と手招きをした。



「傷、綺麗に治ってるね」

家に入り、は私を半ば強引に椅子に座らせると私の手や足に巻かれていた包帯を取り払った。そして跡を残すこと無く消えた、傷のあった腕を眺めながら安堵したように言う。
の言葉通り、私の手や足からは傷が綺麗に消えている。私が負った傷は決して一週間という期間で消えるような軽いものでは無かったはずだが、それらが全て一切の跡形も無く消えたという所から、私はまた己の持つ力の巨大さを知った。

「体の調子はどう?何か、良くないところとかはある?」
「いや……大丈夫だ」

体の調子は一週間前に比べればかなり良かった。使い果たしたエネルギーも少しずつではあるが、確かに戻りつつある。体の調子を証明するように右手の指を順番に動かして見せると、はその様子をじっと見つめ、それはよかった、と微笑んだ。



月日が流れるのは早いもので、の家に身を置いてから、一ヶ月が過ぎようとしていた。

私の使い果たしたエネルギーの殆どは、三週間が過ぎた頃には回復していたが、それでも私は最早当たり前のようにここで生活をしていた。どうしてかと尋ねられれば明確な理由は無いのだが、何となくそうしているのだ。

そしてここ最近の私の日課は、朝早くに近くの森を散策し、野生のポケモン達の様子を眺め、そしてあの近くの丘から海を見ることになっていた。
これは、がそうしたらどうかと提案したからだ。たくさんの美しい自然に触れていれば、何かが変わるかもしれないと思ったらしい。研究所を立ち去った頃の私であれば人間の指図を受けるなんてと思ったに違いないが、今の私は、がそれを私利私欲の為に言ったのではなく、「私のため」に言ったということを理解していたので、素直にそれに従ったのだ。

しかし、いくら毎日そうして「美しい」自然に触れようと、私はどうしてもそれらが綺麗だとか、美しいとは思えずにいた。

恐らく、私が私の生きる意味を知り、存在意義を見出だせるまで、この色褪せた世界は変わって見えないのだろう。



二ヶ月、三ヶ月と時が過ぎ、傷も治り、使い果たしたエネルギーが戻ってきてもそのままこの場所で生活をする私に、は何も言わなかった。無駄に干渉しようとしないとの生活は、静かな場所を好む私にとってはなかなか居心地が良かったのだ。お互い何も言わず、ただまるでそれが当たり前だと言うかのように毎日が過ぎていく。

そんなある日のことだ。その日も私は日課の森の散策をし、野生のポケモン達を眺め、暫しの間丘の上で海を見つめると、家へと戻った。

家の中はがらんどうで、の姿は見えない。外にいたのに気が付かなかったのだろうか、と外へと引き返すも、そこにもやはり見慣れた姿はなかった。いつもなら大抵近くで野生のポケモンを観察していたり、育てている花に水遣りをしているはずなのだが、辺りを見回してもはどこにもいなかったのだ。

もしかして近くの街まで買い物に行ったのだろうか。そう考えた私は、何にせよ暫くすれば戻るだろうとの帰りを待つことにした。

特に何もせずじっとして、ただただ時間が流れるのを待つ。しかし夕陽が地平線の彼方へと沈み、軈て薄暗い夜が訪れても、玄関の扉はいつまでも開く気配が無い。
結局はその日、帰って来なかった。

次の日になると、もしかしてに何かがあったのではないかと考えた私は、近くの森の深い所やその森の傍にある崖などを見て回った。普段野生のポケモンの生態系を調べる、ということをしているはそれらの場所に行ってもおかしくはないからだ。だがやはり、それらの場所にもの姿は見えなかった。

三ヶ月程同じ時を過ごして分かったの性格からして、暫く家を空けるとするならば、何も言わないということはないだろう。しかし現には何も言わずにこうして帰ってきていない。一体何があったのか、そう考えると胸の奥がざわつくような不快さを覚える。

そうして三日目にもなると、私は流石に少し焦り始めていた。思い付く限りの場所は探したので、仕方なく室内にいるのだが、どうにも落ち着かない。

しかしそこでふと、私は疑問に思った。
どうしてという人間がいなくなっただけで、私はこんなにも焦りを覚えているのだろう。は所詮赤の他人であり、彼女がどうなろうと関係の無いことなのだ。そこまで考えて、私は自嘲気味に笑みを浮かべた。この三ヶ月というそれだけの期間で、という人間に情でも湧いたのだろうか。最初は都合のいいように利用させて貰おう、もしも邪魔になったら消してしまえばいい、とさえ思っていたはずだったのに。

それにしても相変わらずが帰ってこないので、一体どうしたものかと考えあぐねていると、不意に玄関の扉が音を立てて開く。扉の開く音を聞くや否や弾かれたようにそちらへと向かうと、そこになんと、この三日間の間探していたが立っていた。

「ただいま!……って、ミュウツー?」

が驚き、声を上げたのも無理は無かった。私が抱き締めるように、の手を掴み引き寄せたからだ。この三ヶ月の間で、たくさんの花の犠牲によって己の力に対する加減は覚えていた。その為私がの腕を掴んでも、は痛がる素振りを見せず、成すがままになっている。

「無事か」
「えっ?う、うん。無事だけど」

一体どうしたのかと言いたげな顔をしたが無事だと言うので、引き寄せていた体と、掴んでいた腕を解放する。私がほっとしたように小さく息を吐くと、はきょとんとした顔でこちらを見つめた。

「……どこに行っていた」
「あれ?この辺りの生態系の調査の途中報告も兼ねて、街にいる研究仲間に会うから、少しの間家を空けるって書き置きしたと思ったけど……」
「そんな物、無かったな」

私が即答すると、は再度驚いた声を漏らした。

「ご、ごめん……向こうから結構急に連絡が来たのもあって、慌てていたから、書き置きをしたつもりで忘れていたのかも」

その言葉に思わず脱力をし、心配を掛けさせるなと言うと、は申し訳無さそうに私を見上げた。

「うん、気をつけるね。それと、心配してくれてありがとう」

何だかが嬉しそうに言うので私が眉を寄せると、は反省をしているのか分からない笑顔を見せる。しかし、私も釣られてふ、と小さく笑みを零してしまったのだった。



その日は雨が降った日の翌日だった。

昼過ぎにがテレビを点けたかと思うと同時にあっと声を上げたので、一体何事かとテレビを見遣ると、画面には白衣を着た研究者らしき人物が映っていた。によれば名の知れた研究者らしい。その研究者は自身に向けられた複数のマイクに向かい、ポケモンと人との在り方について熱弁している。暫しの間その白衣を着た研究者の姿をぼんやり眺めていると、不意に私を作りだした研究所の研究員達のことを思い出した。

「……前に」
「……ん?」

私がテレビを眺めながら徐に口を開くと、はテレビから視線を外し、それから不思議そうに私を見つめる。私から何かを話すということは滅多に無かったので、は少し驚いたようだった。

「前に、私はここを訪れる前はハナダの洞窟にいたと言っただろう」
「えっと、トレーナーと戦っていたんだよね?」
「ああ。……その前は、どこかも分からない、小さな島の研究所にいた」

は点けていたテレビを消し、真剣に聞いてくれるようだったので私は話を続けた。

研究所で生まれたばかりの頃は、まだ綺麗だとか美しいと感じる心はあったこと。その証拠に、研究員達が空や海、森林、天体などの写真を私に見せたことがあり、その時には確かにそれらを美しいと思ったことを覚えていること。

しかし自分自身の存在意義について悩むようになった矢先、偶然にも自分が作り出された理由が、人間に利用される為に生み出されたのだという理不尽なものだったのだと知って、全てに失望してしまったということ。
そして私を作り出した研究所を破壊して、ハナダの洞窟で過ごすようになったこと。

それらを話している間、は私のことを真っ直ぐに見つめていた。どうして突然にこのような話をしたのかは、私自身いまいち分からなかった。ただ、何となくなら私の求めている言葉を教えてくれるような、そんな気がしたのかもしれない。

「……私は人間に利用される為に生み出されたのだと思うと、虚しい気持ちに苛まれる」

私の生きる理由や存在意義、居場所ははどこにあるのだろう、そう呟いて眼を伏せると、少しの間を置いてから、それまで静かに私の話に耳を傾けていたが口を開いた。

「……ねえ。すごく、贅沢なことを言ってもいいかな」

唐突なその言葉に顔を上げると、が柔らかく微笑んだ。窓から射す陽の光が、その輪郭を照らす。

「居場所がどこにあるのか分からないって言うのなら、ここをミュウツーの居場所にすればいいよ。生きる理由が見つけられないのなら、私がミュウツーと一緒にいたいから、私と一緒に生きてよ。……それじゃあ、駄目かなあ」

の言葉は不思議と私の心の欠けた部分を、満たされない何かを埋めていくように響いた。告げられた言葉を何度も脳内で繰り返していると、は更に言葉を続ける。

「ねえ、ミュウツー。外に行こう」
「……今か?」
「今だからこそだよ」

行くよ。そう言って一足先に玄関へと向かったは、玄関の扉を開けた。



昨日の雨が嘘の様に、外は晴れ渡る青空が広がっている。そこらの木々や生い茂る緑の草は、昨日の雨の名残である露に濡れ、時折陽の光を反射する。
の育てていた草花は、満開の花を咲かせ風に揺れていた。そして咲き乱れる数え切れない花が、いくつかの淡い色の花弁を風に散らし、その花弁は宙に舞い上がる。それらに眼を向けていると、はほら、と言って私の手を取った。

手に触れたその掌の温かさに、自然と口角が上がるのが分かる。外の景色は、ここ三ヶ月の間ですっかり見慣れたものになったものだと思っていたが、今、確かに違った景色に見えるのは気の所為では無いのだろう。

「……私を、助けてくれてありがとう」

それはあの日、初めてと出逢った日のことだったのか、それとも今日、私に確かな居場所と生きる理由を与えてくれたことに対してだったのか、私自身にも分からなかった。ただ、気が付いた時には自然とそう、本心から口にしていたのだ。

「別にいいのに」

咲き乱れる花に目を奪われたが、私の手を離して屈みながら言う。ハナダの洞窟でただひっそりと身を潜めていた時、こんなにも穏やかな気持ちで陽の下を歩く日が来るということを、遠い昔の私は想像出来ただろうか。

「私はここで、の為に生きよう」

花に向けていた顔をぱっと上げたかと思うと、瞬間、の顔が綻んだ。続いて静かな空気の中にそっと響く、ありがとうの明るい声。その声を聞きながら、眩しく高い青空を眼を細めて見上げると、この世界は美しいな、と、私は思わず呟いていた。

昨日までは確かに、この世界を美しいと思える心など持ち合わせていなかったのに。

「……
「なあに?」

海の見える丘の方へと歩き出したを呼び止めると、彼女は不思議そうに振り返った。その瞳は真っ直ぐにこちらへと向けられている。

私の力に待望する眼差しではなく、利用してやろうという欲に塗れた目でも、はたまた怯えるでもなく、私を捕らえようとしたあの闘争心を剥き出しにしたぎらつく獣のような目でも無く。ただ、純粋に「私」を見つめる瞳。三ヶ月前のことを思い出すと同時に、私は理解した。どうしてあの時、の私を見る瞳に対して言い知れぬ恐怖のようなものを覚えたのか。

それは、私が未だ知らなかったからだ。何のフィルター越しにでもない、ただ私自身そのものを見てくれるその瞳のことを。

「     」

どうしたの?と、首を傾げたに向かって私が口を開いた時、突如少し強めに風が吹いた。潮の香りを乗せたその風は、彼女に向けた私の言葉を浚っていく。

「えっと、なんて言ったの?風が急に吹くから聞こえなかったよ」
「聞こえなかったのなら、それでいいんだ」

私がふっと笑って見せると、気になるから教えてよ、と釣られるようにも笑った。

私に居場所と生きる理由を与えてくれた彼女を心から愛しいと思った日は同時に、あれだけ嫌悪し失望していた世界を美しいと感じ、この世界にはこんなにも素晴らしいものが満ち溢れているのだと知ることの出来た日になった。
例えば頭上に高く広がる青い空、青々と茂る木々や草、それらを濡らす露だとか、咲き乱れる花に、私の手を取り名前を呼んで笑う彼女などその全てが、確かに美しかったのだ。


(おわり)


世界は美しい/20100623
加筆修正20150430
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