ずっとずっと昔の記憶を頼りに久方振りに帰った土地は、昔の記憶の跡形も無くなっていた。とは言ってもこの土地で暮らしていた時は、は毎日の殆どを森で過ごしていたのだから、町がどんな風だったかなどは元から覚えていないに等しかった。ただ覚えているのは、少し静かな町で、その傍には大きな森があった、ということだ。


町の外れを抜け、町の傍にある森に辿り着いた時、は安心したように息を吐いた。親の転勤でこの土地を離れ、全く違う、遠く離れた土地で暮らした長い年月で町はすっかり賑やかになっていたが、この森は見た所何も変わっていないようだったのだ。入り口にある背の低い切り株に気が付いたは、懐かしむようにそっとその切り株を撫でた。それから森を見上げる。

鬱蒼と繁る木々は、ざあざあと風に揺らめいている。その様子を眺めていたは、森へ向かって歩いている時に町の人から聞いた言葉を不意に思い出した。

君、まさか森に行くつもりかい?止めといた方がいいよ。あの森、ちょっとおかしいんだ。

普段は何てことないんだけれどね。あんまり奥の方に行くと、いつの間にか森の入り口に帰ってきてるんだよ。

それにね、前にこの森を切り開いて土地を開発するって話になったんだけれど……いざ森を伐採しようとしたら、急に森に行く道が消えたり、道を辿っても町に戻っていたり……って、兎に角森に行けなくなるんだ。不思議だろう?で、結局その森を開拓するって話は無くなって、森はそのままって訳なんだ。

聞いた話は、どれも思わず森に行くのを躊躇ってしまうような不気味な話ばかりだった。それでも意を決したように口を結ぶと、は森の中へと足を踏み入出す。ここで引き返す訳にはいかないのだ。


***



森の中は、幼い頃の記憶と変わらず不気味だった。それでも幼い頃に毎日この道を通えたのは、隣に友達であるあのポケモンがいてくれたからだ。今は一人でその道を歩いているのだと思うと、何度も言い様の無い不安に押し潰されそうになる。その度に自分を何とか奮い立たせると、はどんどん森の奥へと進んで行った。


長い間歩いて、漸くは見覚えのある小さな川を見つけた。この川は小屋の傍を流れていた川に違いない、と川を辿って行くと、軈て懐かしいものが目に入る。幼い頃の記憶の中よりも更に寂れてしまった、屋根の無い壁だけのあの小屋だ。小屋と川の周りは少しばかり荒れていて、花は残念なことに昔のように咲いていなかったが、それでもここは間違いなく、あのポケモンの棲み処だった。

小屋の中は相変わらずのがらんどうで、寂れたテーブルが一つと、椅子が二つ変わらずあった。テーブルには大分色が褪せ、所々ほつれてしまった薄い空色と白のチェック柄の布が掛けられており、更にその上には見覚えのある小さな木の箱と、伏せられた食器が置いてある。

「懐かしいな……」

色が褪せていても、それらが少しも埃を被っていないのは、あのポケモンがまだここに棲んでいるということなのだろう。それを嬉しく思いながらも、いつも自分が座っていた側の椅子を引いてはそっと座った。懐かしい、不格好な音で椅子が軋んだ。

は木の箱を優しく指でなぞると、蓋を開ける。中には青緑色のビー玉と赤色のリボン、星の形をした石が綺麗にしまわれていた。は勿論あのポケモンに貰った美しい石を大切にしていたので、自分の贈ったものも同じように大切にされているのだということに思わず笑みを浮かべる。

それから、あのポケモンはどこにいるのだろう?と思いながら屋根の無い天井から森の中を見上げた。その時だ。小屋の入り口に背を向けるように座っていたは、不意に背後から聞こえたぱきりという小枝を踏み折る音に振り返った。そして、それと同時に大きく目を見開く。

───幼い頃の記憶の姿とは全く違う姿だったが、懐かしい面影の残る姿が、そこにあったのだ。

の視線の先にいたポケモンは、昔よりも大分背が高くなっていた。ふさふさとした鬣も昔は無かったものだ。けれどその鬣の赤色は昔のポケモンの頭のちょこんとした毛先と同じで、身体の色もそのままだ。昔のポケモンの姿は前足と後ろ足の先が頭の毛先と同じで赤色をしていたが、目の前に立つポケモンの両手足にも同じ色の爪が並んでいる。

そして何より、自分の宝物だった青緑色のビー玉と同じ色の瞳。目の前に立つポケモンの瞳の色は、昔と変わっていなかった。

「……私、っていうの。あなたはだあれ?」

昔の、森の中で初めて逢った時の色褪せない記憶に重ねるように尋ねると、目の前のポケモンは柔らかく笑った。それから一歩、二歩、とゆっくりへと近付き、それからの身体を優しく抱き締める。は何かを言おうとしたが唇が震えて言葉にならず、それを飲み込むとそのポケモンを抱き締め返した。花畑で約束を交わしたあの日の光景が、自然と脳裏に蘇る。

「……また、あえた、ね」

ポケモンはの言葉に眼を閉じると頷いた。それから少しだけの身体を離すと、自分を見詰めるの目を手のひらで覆う。一体どうしたのかとは不思議に思ったが、次にポケモンの手のひらから解放され、目の前の光景を見た時、思わず口に手を当てて感嘆を漏らした。


小屋の周りは先程までは少しばかり荒れていたというのに、今は辺りを埋め尽くす程の美しい花達で溢れていたのだ。まるで昔と変わらない、それ所か昔以上の美しさに、はどうして、と、そのポケモンへと目を向ける。するとそのポケモンは、へっへと得意そうに笑った。

「……あなたの力なの?」

ポケモンは頷く。そこでは、はっとしたような顔をした。

「もしかして、森の奥に人が来たり、森の開拓の話が出た時に森から人を遠ざけるようにしたのは、あなたが……」

よく見れば、ポケモンの身体には所々傷があった。それらをまじまじと見詰めるに、ポケモンはシシシと笑った。白い牙を見せて笑う、あの懐かしい笑い方だ。

このポケモンはたった一人、珍しいポケモンがいるという噂を聞き付けた人間や、その人間が連れるポケモン、この場所を奪おうとする者達と戦い続け、そして進化して手に入れたまぼろしの風景を見せるこの力で、ずっとこの森のこの場所を守ってきたのだ。いつかまた、ここでというたった一人の大切な友達と会うために。

それを察した時、は泣きたくなった。このポケモンは、彼は、約束を守ってくれたのだ。また、あおうね。たった一言の、あの約束を。

「この場所で待っててくれて、ありがとう」

ポケモンは穏やかな表情を浮かべると、涙を拭うのことをもう一度抱き締めた。


***




「───そういえば私、あなたが何ていうポケモンなのかを知らなかったから、ちゃんと名前を呼んだことが無かったね。私、引っ越してからいろいろ調べたんだ。だから昔のあなたの名前も、進化した今のあなたの名前も知ってるよ」

ポケモンはの向かいの椅子に座り、テーブルで頬杖を付きながら楽しそうに首を傾げた。が穏やかに笑って口を開く。

ゾロアーク、でしょ?



森の奥の美しい庭園のようだったそこは、長い年月と共に少しずつ寂れてしまった。けれどこの日、この場所は、そこに棲むポケモンの力によってまぼろしという形で鮮やかな美しさを取り戻す。そしてそこからは、初めて名前を呼ばれたポケモンが、嬉しそうに鳴く声が響いたのだった。


おわり
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