ずっとずっと幼かった頃、は自分の住んでいる小さな町の傍にある森に迷い込んでしまったことがある。母親に森は危ないから近付かないようにと厳しく言い付けられていたが、外で遊んでいた時に美しいアゲハントの群れを見つけ、夢中で後を追っていたらいつの間にか森の中に迷い込んでしまったのだ。

アゲハントの群れを木々の間で見失い、森に入ってしまったと気が付いた時には既に遅かった。辺りは見回しても同じような木々が鬱蒼と生い茂り、一体何処から此処へとやって来たのか、それすらも分からなくなっていたのである。焦ったは小さな声でママ、と母親を呼んだが、当然のことながら返事はない。は服の裾を不安気ぎゅっと握り締めると、弱々しい足取りで歩き出した。


どれ程歩いただろうか、代わり映えのしない風景には既に半泣きだったが、木の根に躓いて転ぶとそこでついに声を上げて泣き出してしまった。ゆっくりと起き上がると、その場に足を投げ出して座り込む。木々の葉の擦れる音だけが響いていた静かな森に、の大きな泣き声がこだまして響いていた。そして擦り剥いた膝から痛々しく滲む血を目にしたが、ぐすぐすと鼻を鳴らした時だ。不意にぱきりと小枝を踏み折るような音が聞こえたかと思うと、すぐ傍にある叢ががさがさと音を立てたのである。突然のことに思わずの涙は止まったが、今度はがさがさと揺れ動く叢には身体を震わせた。

「やっ……」

得体の知れない恐怖に小さくが声を漏らす。その瞬間、叢が一際大きく揺れたかと思うと、そこから一匹のポケモンが飛び出した。

「……!」

突然姿を現した小さな身体のポケモンはを見て大きな眼をぱちぱちと瞬かせると、続いてふさふさとした尻尾を左右に振った。の張り詰めた緊張がほんの少し和らぎ、肩の力が抜ける。するとそのポケモンはに近付き、が地面についていた手をぺろりと舐めた。その擽ったさに、未だ涙の滲む瞳のままが笑う。それを見たポケモンは、釣られたように白い牙を見せてシシシ、と笑った。悪戯っ子のような、どこか憎めない顔だ。

「……わたし、っていうの。あなたはだあれ?」

そのポケモンの笑顔に少しずつ落ち着きを取り戻したが尋ねると、そのポケモンはきゅうんと鳴いてみせる。

「……ポケモンのことばがわかれば、いいのにな」

そしたらあなたのなまえもわかるのに。そうが残念そうに笑うと、そのポケモンは尻尾を左右に揺らした。それからの擦り剥いた膝に眼を止めると、ふんふんと鼻を鳴らしてからぺろりと膝を舐める。いつの間にか血は止まっていたが、少しだけ傷が痛んだ。が膝を舐めるポケモンの頭をそっと撫でると、ポケモンはのことを見上げてから首を傾げた。

「もしかして、しんぱいしてくれたの」

ポケモンは傷を見つめてからきゅうんと先程のように鳴いた。

「ありがとう。だいじょうぶだよ」

ポケモンの頭をもう一度撫でると、ポケモンは舌を出して擽ったそうに身を捩る。そしてがゆっくりと立ち上がると、そのポケモンはを見上げた。

「ねえ、あなたはここにくわしいの?」

ポケモンはの目をじっと見つめ、それから尻尾をゆらりと大きく揺らすときゃん、と鳴いた。それが何と言っているのかは分からなかったが、はそれを肯定の意として受け取り、森の出口は分かるかと続けて尋ねる。するとそのポケモンはに背を向けて歩き出した。それを見たは、もしかしたら帰ることが出来るかもしれない、とそのポケモンの後を慌てて追ったのだ。


***



「もりには、こわいポケモンがいるってママがいってたの」

リングマとか、ダーテングとか、そうがポケモンの名前をあげると、の少し前を歩いていたポケモンは振り返ってへっへと笑った。それが何だか馬鹿にされているようで、は慌てて言葉を付け足す。

「ち、ちがうよ!わたしはこわくないよ!べつにポケモンがでてきたってへいきだし……」

その瞬間丁度風が吹き、木々がざわめくとはきゃあ、と小さく悲鳴を上げる。それからはっとして少し前で足を止めているポケモンを見ると、そのポケモンはにやにやと笑いながらを見つめていた。

「……ちょっとびっくりしただけだもん」

ぷうと頬を膨らませたが慌てて歩き出すと、そのポケモンは歩くスピードを緩めての隣に並んだ。並んで歩き出したそのポケモンに驚いた表情でが視線を落とすと、そのポケモンはを見上げ、にこりと眼を細めて笑った。の強がりなど、嘘だとそのポケモンには分かっていたのである。

「……あの、ありがとう。あなたはやさしいんだね」

へへん、と得意そうな顔をしたポケモンに、思わずが笑う。一人だったらこの森の薄暗い不気味さには押し潰されていただろう。それを、この小さなポケモンは助けてくれたのだ。それからとそのポケモンは会話をしながら───とは言っても当然ながらポケモンは喋らないので、一方的にが何かを話し、それにポケモンが笑ったり頷いたりしているだけだったが、そうして会話を続けていると軈て遠くに明るい太陽の光が差す所が見えた。この深い森の出口である。

「あっ!」

が歓喜の声を上げると、そのポケモンもきゅうんと嬉しそうに鳴いた。はすっかり疲れていたことも、膝の痛みすらも忘れて森の出口まで走り、その後をポケモンが追って走る。眩しい太陽の下に漸く戻ってきたは、しゃがみ込んでそのポケモンと目線を合わせるとそのポケモンの身体をぎゅうと抱き締めた。

「ありがとう!あなたのおかげ!」

ポケモンは強く抱き締められて苦しかったのか、の腕の中でもがいてするりと抜け出すと、へっへと笑った。その得意気な顔にも笑う。

「ねえ、あなたのおうちはどこなの?よければ、わたしのおうちにこない?」

このポケモンさえ良ければ、一緒にいてくれないかなあなんてはちらりと思ってそう尋ねたが、ポケモンは森の中を右の前足で指し、それから残念そうに首を振った。ポケモンが何を言っているかは分からないが、残念そうな顔で首を振った様子から、それが否定的な意味であると察したは俯く。

「そっかあ……、ざんねんだなあ」

の言葉にそのポケモンは困ったような顔をすると、しゅんと尻尾を元気無く垂れさせてしまった。それを見たは慌てて両手をぶんぶんと振る。

「あの、ちがうの。せっかくなかよくなれたのに、おわかれするのがさみしいなっておもっただけ!……だから、もしまたここにきたら、いっしょにあそんでくれる?」

の言葉に、そのポケモンはきゃん、と鳴いての周りを跳ねるようにくるくると回った。

「やったあ!」



──の親は転勤が多く何度も引っ越しを繰り返していたので、正直な所は中々上手く友達が作れずにいた。そんなに、この時初めて名前も分からない、友達ができたのである。
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