窓の外では雨を伴う風がごうごうと唸り声をあげて暴れまわっている。一時も止むことなく大粒の雨が叩き付けられる窓ガラスは、苦しそうにギシギシと軋み、まるで今にも破れてしまいそうだ。

 口をへの字に曲げてリビングの椅子に座っていたは、ゆっくり立ち上がると窓に近づいて、カーテンの隙間から外の様子を伺った。しかし予想通りと言うべきか、そこからは何も見えなかった。ただ、ぽっかりと真っ暗な闇が広がっているだけだ。溜め息を吐いた彼女は、うんざりした様子で腕を組む。
 ──まだまだ晴れの日が続くと思ったのに。数日前に植えたきのみたちは大丈夫かなあ。オボンみたいな固い実は何とか耐えたとしても、柔らかいモモンなんかはきっと駄目になっているんだろうな。

 嵐が過ぎ去った後、家の庭が潰れたモモンの実などで悲惨なことになっている光景が自然と思い浮かび、思わず顔をしかめてしまう。

 時間は午前三時を過ぎているが、眠れそうにはなかった。布団を被っていても、そんなことはお構い無しに嵐の唸り声は耳に届くのだ。
 どうしたものか。時計の針を見つめながら思案していたは、とりあえず温かなモーモーミルクでも飲もうと冷蔵庫に向かった。

 その時だ。ドン、という大きな音が聞こえたのは。

 何かが家の壁に当たったようだ、とは思った。風は木を薙ぎ倒さんばかりに強い。プランターだとか、庭にあるものが飛ばされてもおかしくはない。
 一体何が、と引き返したは窓に近寄った。白く曇った硝子を指先でなぞり、そこから外に拡がる闇の中に目を凝らす。

「ん……?」

 そうしている間に、少しばかり雨と風の勢いが弱まった。嵐の唸り声も、先程よりは小さい。

「何だろ……」

 つい、疑問を口にしながらはまた顔をしかめた。
 というのも、窓の外に広がる闇の中、何かが動いているように見えたからだ。

 よくよく見ると、それは気のせいなどではないということが分かった。闇よりも濃いシルエットが確かにそこにあって、もがくように動いているのだ。

 得体の知れない“何か”がすぐそこにいるのだと理解したの顔が青褪める。
 それでも外に向けた視線を逸らすことができずにいると、雲の隙間を稲妻が走った。続いて二、三度程、辺りが眩く照らされる。「フラッシュ」のように強烈な稲光が雷鳴と共に闇を照らし、「何か」の姿を晒け出した。

 あまりの眩さに目を閉じたものの、寸前、彼女はその姿を捉えることができた。
 何の、とまでは判別できなかったが、ぬかるみの上を這いずり回るそれは、間違いなくポケモンだった。


 何のポケモンだろう。家の壁にぶつかったのは、あのポケモン?──それよりも、こんな嵐の中外にいて平気なの?

 この後のことを考えるよりも先に、の体は動いていた。上着を引ったくる様に掴み、乱雑に羽織ると嵐の中へと飛び出した。

 幾分弱まったと言えど、それでも容赦無く襲う雨風の中をゆっくりと進む。肌に叩きつけるように降る雨粒が、少しだけ痛かった。この風の中、どうせ役に立たないだろうと傘を置いてきたの服がどんどん雨を吸っていく。
 服が重みを増して張り付き、地面は沼のようにぬかるんで歩きにくいが、それでも何とか先程外を覗いた窓の前まで辿り着いた。

 そこまで来てしまえば、稲妻が走らずとも「何か」の姿を捉えることができた。
 外にいるポケモンの正体は水や泥を好むトリトドンかと考えていたが、目の前で微かに動く泥の塊は、予想よりも遥かに大きなものだった。

「ねえ!」

 雨風に掻き消されないよう、精一杯声を張り上げた。少しの間をおいて、泥の塊のもがくようにも見えた動きが止まる。どうやら、の方へと顔を向けたようだった。

「嵐が、この後も、暫く続くの! いっ、今なら、嵐が止むまで、家に入れて、あげる!」

 木々を薙ぎ倒さんばかりの勢いの風に、彼女の声も途切れ途切れになる。それでも、その言葉はしっかりと目の前の「何か」に伝わったようだった。腕のようにも見えるからだの一部で地面の泥を掻き分けると、の方へと少し近寄ったのだ。

「決まり、ね!」

 雨をたっぷりと吸った上着は最早ただの重りだ。腕捲りをしたは、「私が手を引っ張るから、進める?」と手を差し出しながら声を掛ける。ポケモンはこくりと頷くと、泥だらけの手だと思われるそれで、の腕を掴んだ。

 全身が泥と雨に塗れ、滑るポケモンの手をが掴み、引っ張る。ポケモンもまた、片手で彼女の腕にしがみつき、もう片方の手で地面を後ろに押すようにして少しずつ前進する。


 長い時間をかけて玄関に辿り着き、風に邪魔されながらもドアを開け、狭い玄関にポケモンを引っ張り上げる。ポケモンのからだが何とか室内に収まったことを確認すると、はドアを閉めた。

 ポケモンは泥だらけで、そのポケモンを引っ張り上げたのだから勿論も泥だらけであった。そしてこの狭い玄関だ。玄関も確実に泥だらけであろうと彼女は思ったが、ひとまず上着と靴を脱ぎ、水分を吸って重くなった靴下も脱ぎ捨てた。

「シャワーで汚れを落としてあげたいんだけど、さすがにこのままお風呂場に行くと大変なことになっちゃうから。タオルを持ってくるね。すぐに戻ってくるから」

 ポケモンが小さく頷いたのを確認すると、は風呂場へ急いで向かった。脱衣所にあるかごへ適当に靴下と上着を放り投げ、濡れた手足を雑に拭き、大きなバスタオルをあるだけ掴む。濡れた衣服が肌に張り付いて気持ちが悪いが、構う暇はなかった。

 急ぎ足でが玄関へと戻ると、ぺたぺたと水分を含んだ足音にポケモンが僅かに反応を示した。
 全身余すところなく泥だらけのため、このポケモンがどんなからだの造りになっているのか判別がつかないには、横たわっていたポケモンが顔だけを持ち上げたように見えた。

「ええっと、ごめんね。どこが目……なのかさっぱり分からないのだけど、もし今あなたが目を瞑っているのなら、そのままでいてね」

 膝をつき、玄関に横たわる正体不明のポケモンの顔、と思われる箇所にバスタオルを当てる。そのままやわやわと優しく手のひらを動かすと、大人しくしていたポケモンも自ら泥を落とすようにバスタオルにからだを押し付けた。

 時間をかけて、顔らしき箇所の表面を覆っていた泥の塊をある程度バスタオルで受け止めると、その下から白と青が現れた。
 ──体の表面に染み付いた泥の色のせいでくすんだ青と白に見えるけれど、本当はきっと鮮やかなんだろう。早くお風呂場できれいにしてあげなくっちゃ。
 そんなことを考えるの前で、ポケモンが今まで閉じていた瞼を静かに持ち上げる。

 瞼の下から現れた美しい赤い瞳。玄関の明かりを取り込むそれは、まるできらりと輝く硝子玉のようだ。

「わあ、綺麗な赤色。泥で隠れていたら勿体ないや」

 微笑んだが、赤い目の縁に残る泥をそうっと拭うと、ポケモンはくるると微かな声で鳴いた。

 持ってきた全てのバスタオルが水や泥を吸う頃には、ポケモンの体の汚れは半分ほど落ちていた。
 一度脱衣所に向かい、汚れたバスタオルすべてをかごに突っ込んだは、玄関に戻るとポケモンに声をかける。

「あなたのそれは、翼だったりするのかな? ……もしかして、飛べたりする?」

 このポケモンを風呂場に連れていきたいが、どう連れていくか。その方法をは考えていた。
 外から連れてきた時のように、手を引っ張れば大丈夫だろうか。けれど、それだと時間が掛かってしまうし、ポケモンも疲れるだろう。でも。背中から伸びる二対のパーツ。これがもし、翼だとしたら。

 ここには雨も風もない。重りになってしまう泥も半分程とは言え落ちた。ポケモンが飛べるのなら、移動に時間を掛けずに済むし、玄関から風呂場へ続く床の掃除をしなくて済みそうだ。

 が期待を込めた眼差しを向けると、ポケモンはふふんと少しだけ得意そうに目を細める。途端に大きなポケモンの体が、重力を感じさせない程軽やかに浮かび上がった。

「ああ、よかった! それじゃあついて来てくれる?」

 決して広くない玄関やリビングだが、ポケモンは翼を器用に伏せたり伸ばしたりして、何にもぶつかることなくと共に脱衣場に辿り着いた。

 先に洗い場に立ったは、シャワーの水がぬるま湯になったことを確認するとポケモンに向かって再び手招きをする。ポケモンは素直にの元へとやって来た。
 風呂場の入り口からポケモンの体の後ろがはみ出しているが、そこには触れずにはまだ少し泥の付いた手を引いた。

「……熱くない? 平気?」

 ポケモンの指先にそっとぬるま湯をかけて、問う。ポケモンはぱちぱちと瞬きを繰り返すと頷いた。
 バスタオルだけでは拭い去ることの出来なかった体の表面を覆うように染みついた汚れを洗い流していくと、ポケモンは気持ち良さそうにクウクウと喉を鳴らした。

「……あれ」

 ポケモンの体の輪郭を、なぞるようにしてぬるま湯をかけていたの手が止まる。目にぬるま湯が入ったのか、ぶるるとポケモンが顔を振った。水飛沫がの顔に飛んだが、彼女はそれを拭うこともせず、困惑した表情でポケモンのことを凝視する。

 汚れが落ちるのと引き換えに、気になるものが現れたからだ。
 青と白の美しい体に不釣り合いな、赤く細い引っ掻き傷。それもそのひとつだけではない。よくよく見ると、ポケモンの体の至るところに引っ掻き傷や鬱血痕があったのだ。

「……あなた、よく見たら傷だらけじゃない」

 泥だらけで気が付かなかった、というの言葉に、ポケモンが困ったような、何とも言えない表情を浮かべる。釣られて眉尻を下げたは、「お湯、染みてない?」と一度シャワーを止めてから尋ねた。ポケモンが首を縦に振る。

「それならいいけれど。……うーん。多分、きずぐすりがいくつかあったと思う。体を拭いたら、その傷の手当てをさせてくれる?」

 壁にぶつかった時に怪我をしたのだろうか。それとも怪我の原因は他にあって、あの酷い嵐の中、このポケモンが地面の上で這い回っていたのはこれらの傷が関係あるのだろうか?
 そう考えるをよそに、ポケモンは明るい声で、ひゅわんと鳴いた。



 ポケモンのからだの汚れを落とし、が着替えと床の拭き掃除も済ませた後。大人しく手当てを受けたポケモンは、促されるがままにベッドに横になった。はポケモンの背中に、普段自分が使っている毛布をかける。
 ポケモンにとってはからだのあちこちがはみ出す程度には小さすぎるが、ないよりはいいだろう、と自分を納得させるように頷いたの前で、ポケモンが大きな欠伸を漏らした。

「疲れているんでしょう? しっかり寝て、休んだら?」

 ポケモンが遠慮がちに頷く。ベッドにもたれるように、床に腰を下ろしたが手を伸ばし、毛布で隠れている青と白の背中をぽんぽんと叩く。すると数分もしない内にその瞼は落ちてきて、やがてすうすうと静かな寝息が聞こえ始めた。

 その頃には嵐もすっかり遠ざかっていて、カーテンの向こうが仄かに明るくなっていた。時折聞こえる風の音も、眠りの妨げにならない程の微かなものだ。

 暫しの間、は無防備な寝顔を見つめていた。
 このポケモンがなんというポケモンであって、どこからやって来たのか。どうしてあんなにも傷だらけだったのか。あまりにも分からないことだらけだ。ベッドに突っ伏したの口から、溜息が零れ落ちる。

 けれど、まあ。それらを考えるのは今じゃなくていいかな。と、結論付けたは、ようやく感じることのできた眠気に抗うこともなく、そのまま目を閉じた。

 朝を迎える頃になって、彼女はようやく眠りに就くことができたのだった。


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