は珊瑚岬の桟橋に座り、マナフィと美しい夕暮れの空を眺めていた。空は燃えるようなオレンジと赤、そして夜を知らせる紺色が入り混じり、何とも幻想的な色を作り出している。ただ遥か遠く、その空と地平線が混じる辺りは、黒く重い雨雲がぼんやりと浮かんでおり、時折小さくではあるが、たちの元にまで稲妻が聞こえていた。本当は避難所に行った方が良いのだろうが、マナフィが心配だったのでぎりぎりまでここにいようとは思ったのだ。
「今日の夜中にでもなれば、酷い嵐になってるだろうね」
「みんな、うみのそこにかくれるって、いってた」
マナフィがそう言った時、不意にの頬が雫で濡れた。それにが驚いて空を見上げると、また一粒、二粒と雫がの顔を濡らす。
「……雨?まだここの辺りのの空は晴れてるのに……」
雨雲は遥か遠くに見えるものの、の言う通り、とマナフィの頭上一帯の空は相変わらず美しい夕暮れ色をしており、とても雨が降りそうには見えなかった。
「!みて!」
そう叫ぶようにマナフィか指し示した方角は、先程雨雲があった方であり、は慌ててそちらを見ると、思わず唖然としてしまった。先程は遥か遠くにぼんやりと見えていた雨雲が、先程よりもはっきりと見える程に、急速に発達していたのだ。が唖然としている間にも、凄まじい勢いで雨雲は空に広がり、空はあっという間に暗くなってしまった。そしてどこからともなく吹き始めた風が、海をざわめかせる。
「そこの方!危険ですので避難して下さい!」
突然の声にが振り向くと、桟橋の傍に数人、水タイプのポケモンを連れた人間が立っていた。薄暗くなった中目を凝らして見れば、それはこういった災害が予測される場で大いに活躍する、ポケモンレンジャー達だった。
「警報も発令されています!直ちに避難をお願いします!」
「わ、分かりました!……マナフィ!」
はレンジャーに返事をすると、桟橋の上で雨雲を見つめていたマナフィを、咄嗟に抱き抱えようとした。しかしマナフィは、その手をするりと擦り抜け、へと振り返る。
「……、ぼく、いかなくちゃ」
「行くって、どこに?酷い嵐が、もう、すぐそこまで、来てる、よ!」
強く吹き荒ぶ風が、とマナフィのお互いの声を途切れ途切れにしてしまう。それでも嵐の中では、マナフィの声だけははっきりと聞こえていた。
「だれかが、ぼくを、よんでる、きが、する。……だいじょうぶ、きっと……」
「マナフィ!」
が叫んだ時だった。物凄い風が吹いたかと思うと、マナフィはその風に攫われたかのように荒れ狂う海に飛び込んだのだ。マナフィ、とが叫んだ声は暴風に掻き消され、そのままはレンジャーに避難するように腕を引かれて促されたため、仕方なくレンジャーに連れられて歩きだした。その途中で何度もは海に振り返ったが、闇のように暗い海は轟々と荒れ、そしてそれからマナフィが海面に顔を出すことは無かった。
島の中央に設けられた避難所に、はスバメと避難していた。がレンジャーとこの場所へ向かう途中、森の中からスバメが強風によろめきながら、の元へとやって来たのだ。
「マナフィ、大丈夫かな……」
が窓から海の方を見つめつつ、そう呟くとスバメも心配そうに鳴いた。この避難所は島の中でもほんの少しだけ高い位置にあるが、それでもこの酷い嵐だ。恐らく津波なんかが来たら、一溜まりも無いだろう。元より嵐なんてものは滅多に訪れないので、この島の建物は嵐に強い構造では無いのだ。窓から見える海は黒く、その上の空にも同じく黒い雲が雨を降らせ、そして雷を轟かせている。それらを見聞きして、避難所にいる住民やポケモンの全てがこの嵐に大きな不安を抱え、寄り添い合うように縮こまっていた。
「──あれ?」
溜息をついてが俯いた時だった。ふと、が傍にいる窓とは別の窓の傍にいた少女が、不思議そうに声を上げたのだ。
「見て、あれ!」
その声にや窓の傍にいた人、ポケモンが少女と同じ方を見た。
窓の向こうに見える真っ黒な海とその上の重く分厚い雨雲は変わらないが、よくよく目を凝らすと、海の彼方、薄暗い中でも分かる揺らめく何かがあった。
それはどうやら淡い桃色をした光のようで、すっと海の中を走るようにどんどん広がってゆく。そしてこの嵐に不釣り合いな程に美しいその光は、まるで蛍火のように尾を引き、遠い海面を照らした。その美しい光は、まるで何かの心に寄り添って、優しく慰めているようにも見える。
いつの間にか避難所の人間やポケモン達が窓に集まっており、皆が目を奪われ、ただその光景を見つめていた。
「……あ、雨雲が……」
ぽつりと誰かが呟いた声に、やそこに集まっていた人達は窓から空を見上げる。すると先程まで空を覆っていた雨雲が、少しずつ淡く光る海面の方へと誘われるように流れてゆくのが分かった。何が起きているのかはさっぱり分からなかったが、避難所の人間やポケモンが呆然としている間にも、雨雲はどんどん地平線の彼方へと遠ざかってゆく。
それらのまるで奇跡のような光景を眺めながら、は先程のマナフィの言葉を思い出す。
誰かが呼んでいる気がする、確かにそうマナフィは言っていた。その「誰か」が一体何なのかは分からないが、にはある確信めいた予感があった。先程の胸を温めてくれるような美しい蛍火や、雨雲が引いてゆくこれらのことには、必ずマナフィが関係している、そんな予感だ。それは決して確かなものでは無いが、はそんな気がしてならなかった。
いつの間にか重い雨雲は消え去り、薄く残された雲の切れ間から、眩しい太陽の陽が差す。
「ありがとう、マナフィ」
誰の耳にも届かないような小さな声で、はそっと呟いた。
嵐が進路を逆に戻り、島から遠ざかっていった日から一週間もの間、テレビのニュースはその大型の嵐の話題で持ち切りだった。勿論それはテレビのニュースだけではなく、島中もだ。の住むこの島はあと少しで台風が直撃するという所を、台風が突如進路を変えたために直撃することを免れたのだ。そして、テレビの報道によると、あの嵐の日から調度一週間後、ホウエン地方の海から発生し、シンオウ地方からこの島の海へと渡った嵐は、通常ではありえない逆戻りをする進路を辿り、そしてホウエンの海で消滅したのである。それらが、この嵐は自然に発生したものではなく、ポケモンによるものであるということを物語っていた。
そしてマナフィが姿を消してから、二週間が経とうとしていたある日、はその日も珊瑚岬へと向かった。それは勿論海に姿を消してから、未だに姿を見せないマナフィを探すためだった。
ニ週間も経てば、あの嵐の日が嘘のように島の人間もポケモンも、また元の様に生き生きとしている。は珊瑚岬に向かう前にペリッパーに手紙の有無を確認し、桟橋で久しぶりに見かけた釣りをするヤドンに声をかけ、それから珊瑚岬へと向かった。
「今日も来ていないみたいだね」
珊瑚岬の桟橋の上を、サニーゴ達がいる方へと歩きながらはスバメに話しかける。スバメはピピイと高い声で鳴くと、マナフィのたまごを見つけた日の様にサニーゴの群れの一匹の枝に止まった。緩やかに吹く風に揺れる髪を押さえながら、は空を見上げた。雲一つ無い、気持ちいいくらいの快晴である。がそのまま目を閉じ、風に身を委ねるようにしていると、突如スバメが騒ぎ出した。それに続いてサニーゴまでもが騒ぎ出す。
何事かとがスバメ達の方へ顔を向けると、思わずは目を見開いた。何かが跳ねるように泳ぎながら、こちらへと向かって来る。陽射しを受けて光る姿は紛れも無く───
「……マナフィっ!」
は思わず桟橋の上を走り出し、桟橋の端までやって来ると再度マナフィ、と叫ぶように呼んだ。するとサニーゴ達が、に上に乗れ、と促すように鳴きながら枝を揺らしたので、はサンダルを脱ぐとサニーゴ達に礼を言ってサニーゴの群れの上をそっと歩いていく。そしてサニーゴの群れの端の辺りまで来た時に、海面からマナフィが勢い良く飛び出し、の腕の中に飛び込んだ。
「ー!ただいま!」
がマナフィを抱きしめると、衣服がマナフィの身体に付いた雫を吸っていくが、は気にせずぎゅう、とマナフィを強く抱きしめた。マナフィはの身体に頬を寄せ、くすくすと笑う。
「マナフィ、心配したんだからね!」
の言葉を聞いて、マナフィは申し訳無さそうに笑った。
「ー、ごめんね」
「……もう」
マナフィが無事だったから、いいの。そう言ってもう一度マナフィを抱きしめると、マナフィもの体にそっと手を回す。久しぶりの再開を喜ぶとマナフィの二人が立つサニーゴの周りには、いつの間にかタッツーやケイコウオ、それにホエルコ達も集まっており、マナフィが帰ってきたことを喜んでいるようだった。周りに集まったポケモン達はわあわあと声を上げ、水面を叩いて水飛沫を上げる。その水飛沫に時折目を瞑りながら、は口を開く。
「それにしても、どこに行ってたの?」
「ええっとねー、ホーエン!」
「ホーエン?えっ、ホウエンまで!?」
「そう!あのね、あらしをおこしてたのは、カイオーガっていうポケモンだったんだよ。ぼく、カイオーガとホウエンまでいってきたんだー!」
「……カイオーガ?」
カイオーガ、という名前は聞いたことがあった。確か海を創った、だとか、大雨を降らし日照りから人々を救ったと伝えられるポケモンだ。どういうことかとが尋ねると、マナフィは顔をきらきらと輝かせながら語ってくれた。
何でもここから遠く離れたホウエン地方で、カイオーガの力を巡る戦いがあったらしく、その戦いに巻き込まれたカイオーガは深手を負ったらしい。深手を負ったカイオーガは怒り、暴れるように人々から逃げ、そして海を渡り、遠いこの地方にまでやって来たようだ。そして暴れるカイオーガを中心に出来た嵐はやがて勢いを増し、この島の近くにまでカイオーガは嵐と共にやって来た。そこで現れたのがマナフィで、マナフィが必死に語りかけ、漸く怒りの収まったカイオーガは、ホウエンの海深くに帰っていったようだ。ホウエンであった争いのことなどは、カイオーガがマナフィに教えてくれたらしい。
「大変だったんだね……。マナフィもカイオーガも」
「うん、でもね、カイオーガはホウエンのうみがすきだって、いってた」
「そっか」
マナフィの話を聞きながら、は以前図書館で借りた、マナフィについて書かれた数少ない本のあるページを思い出していた。そのページにマナフィは、「生まれつきどんなポケモンとでも心を通わせる力を持っている」と記載されていた。だからマナフィは、きっと怒りに暴れるカイオーガを宥めることが出来たのだろう。やはり、あの嵐の中、避難所から見た美しい光はマナフィによるものだったのだ。
そしてもう一つ、はマナフィに関する文章を思い出していた。それは、「マナフィは自分が生まれた海の底へ、長い距離を泳いで帰る」というものだった。これが本当なら、マナフィはまたきっと海での長い旅に出るのだろう。その証拠に、マナフィはいつの間にか水平線の遠く彼方をじっと見つめていた。
「マナフィ。……海が気になる?」
「……えっ?」
「……海をまた旅したいって思ってるんだよね?」
そうが尋ねると、マナフィは少し間を置いてから口を開いた。
「……うん。ぼくはいま、かえってきたばかりだけど……なにかが、よんでいるようなきが、する。あらしはもうこないのに、へんかなー?」
この前の「誰か」はカイオーガだったが、この「何か」はきっとマナフィにしか分からないものだろう。行くといいよ、そうが笑ってみせると、マナフィは驚いたように眼を瞬かせた。マナフィがいなくなるのは寂しいことだが、それはの我が儘なのだ。は偶然にもマナフィのたまごを拾い、そして一緒にいただけで、それらはがマナフィを引き止める理由にはならない。
「好きなだけ海を旅して、いろんなものを見てきて」
「……うん」
「でも、いつかはまた、ここに帰ってきて欲しいな。……なんてね」
そうが言うと、マナフィはうんうんと何度も頷いた。マナフィがの体に回す手は、いつの間にか震えている。それに気がつかない振りをして、はマナフィの頭を撫でながら、空を見上げた。少し前までは恐ろしい嵐が迫っていたとは思わせないような、晴れ渡る空から降る陽射しが眩しい。
:
:
それからマナフィは海の長旅で寂しくならないように、と、一ヶ月近くもこの島におり、毎日やスバメ、この辺りの海のポケモンと過ごした。しかし、別れの日はやってくる。そう、ついにマナフィが海の旅に出る日がやって来たのだ。その日は空も海も、眩しく青く美しい日だった。
は、珊瑚岬にマナフィを抱きしめて立っていた。
「、さみしい?」
「……うん。とても、寂しくなるね」
不意に投げかけられた質問に、は正直な気持ちで答える。するとそれを聞いたマナフィは、にぎゅう、と抱き着き、そして何も言わずにただ暫くの間そうしていた。しかしがでも、と付け足すように口を開くと、ほんの少しだけ離れ、マナフィは見上げる。海の色を映したように美しいマナフィの瞳に、の寂しそうな顔が映っていた。
「───でも、大丈夫。マナフィがくれた、たくさんの思い出があるから」
マナフィはこれからこの海を離れ、回游する。自分の生まれた海の底へと、長い距離を泳いで帰るのだ。そこに何があるのかは到底分からないが、きっと見えない何かに惹かれるように、マナフィの本能が、その生まれた場所へ向かえと命じているのだろう。マナフィが旅をする時間がどれ程のものか想像もつかないが、マナフィと過ごした鮮やかな日々が、きっと自分を支えてくれる。そう、は思った。
マナフィは柔らかく笑ったの顔を見ると何かを悟ったのか、するりとの腕を離れ、そしてサニーゴの群れの隙間から、青く変わらず穏やかな海に飛び込んだ。
「……ぼくは、ぼくの生まれたばしょにむかうけど」
「うん」
「でも……かならず、ぼくはここに、かえってくるよ」
「うん」
「が、みんながいるこの海が、ぼくのいちばんすきな、うみだから」
「……うん」
がしゃがみ込み、サニーゴ達の間の海面から顔を出しているマナフィの頭をそっと撫でると、この海が本当に帰る場所なのだとマナフィは笑い、そしてサニーゴ達の間から、器用に海に勢い良く潜った。
マナフィが次にこの海、この島、そしてこの場所へと帰ってきた時、一体どんな話を土産に聞かせてくれるのだろう。マナフィのことだから、きっとまた顔を輝かせて語ってくれるだろうな、そんなことを思いながら、は海面を跳ねるように泳ぎ、段々と遠くなるマナフィの姿が見えなくなるまで手を振った。
君に次に逢える日が、今からもう、こんなにも待ち遠しい。
おわり