───だが。走り続けて抜けた森の先は、行き止まりだった。
月明かりの届かない闇が、行き止まりの先の危険な急斜面のずっと下までを覆っている。足元からぱらりと落ちた小さな石は、転がったかと思うとあっという間に見えなくなった。それを見て思わず僅かに後退る。その時、複数のグラエナの遠吠えが聞こえた。間違いなくこの森の入り口からずっと追ってきたトレーナー達の手持ちのグラエナの物だ。その遠吠えは、獲物を追い詰めたと知らせるものだった。グラエナ達の姿は見えないが、グラエナ達にはもう分かっていたのだ。もうこの先には逃げ道が無いことが。
どうしたものか。ここまでか。そう悟り半ば諦めたと共に、逃げる事の出来ない獲物を囲むようにグラエナ達が姿を現した。どのグラエナ達の眼も、月明かりにぎらぎらと光っている。ああ、もう駄目だ。そう諦めて眼を瞑った瞬間だった。足元の地面が一瞬揺れたかと思うと、がらがらと音を立てて崩れたのだ。驚いたグラエナ達は慌てて後ろに飛び退いた。そして突然のことに、彼は成す術もなく急斜面を転がり落ちていく。転がり落ちながら身体のあちこちを突出した木の根や岩にぶつけ、彼の身体はぼろぼろだった。
そして急斜面を転がり落ちると、彼は一際大きな木の根にぶつかって漸く止まったのだ。急斜面の遥か上の方から、グラエナとそのトレーナー達の怒鳴り声が微かに聞こえる。それを耳にすると、彼は最後の力を振り絞ってよろよろと立ち上がった。そしてすぐ近くに流れていた川の水を口にしようとして、彼は川に落ちたのだ。意識は、そこで途切れた。
酷く、美しい月の夜のことだ。
いつも通り朝早くに目を覚ましたは、部屋の窓を開けると窓の外に遊びに来ていたマメパトにおはよう、と声を掛けた。すっかりに懐いているマメパトは、の声にくるると喉を鳴らして返事をして見せる。そんなマメパトの様子ににこりと笑みを浮かべると、は手早く着替えを済ませた。それからぱたぱたと階段を下り、一階の裏口の扉を開けるとぐっと伸びをする。柔らかな陽射しが惜しみ無く降り注ぐ今日はまさに快晴だ。
伸びをしてほっと息を吐いた所で、の元へと一羽のムックルがやって来た。このムックルもまたに懐いており、がおはよう、と声をかけると、彼もまたくるると同じように喉を鳴らす。それからそのムックルは裏口の扉のすぐ隣に備え付けられた止まり木に乗ると、をじっと見詰め、そしてくうくうと何かを訴えるかのように鳴き出した。
「なあに、どうしたの?」
オレンの実でも食べる?とが尋ねると、ムックルは首を横に振った。どうやら、言いたいことは違うらしい。そんなムックルの様子にが首を傾げると、ムックルはの着替えたばかりの白いワンピースの袖を嘴で器用に啣え、ぐいぐいと引っ張った。
「ああ、こら!悪戯しない!」
今日はこの服でお店に立つんだから、とが言うと、ムックルは不服そうな顔をしながら袖を離す。───そう、は小さな花屋を個人でやっているのだ。然程大きな店ではないが、家の一階を花屋とし、二階を住居のスペースとしては暮らしているのである。
ムックルはの顔を見上げると、ぎいぎいと喉を震わせた。ムックル達が怒りだとか、不満だとかそういったあまり良くない感情を表す声だ。
「もう、なんなの」
そうが言うと、ムックルはもう一度の服の袖を嘴で引っ張った。それがどうやらどこかへ自分を案内したいようだと気が付いたは、分かった分かった、と慌てて靴を履き、裏口の扉に鍵をかける。すると漸くムックルは袖を引っ張るのを止めて止まり木を飛び立つと、の目線辺りの高度を保つようにしながらの前をゆっくりと飛び出した。
「一体どうしたっていうのー?」
ムックルの後を追いながら、は声をかける。ムックルは困ったような顔をしてくるると鳴くだけだった。
ムックルに連れられてやってきたのは、町の外れにある森の奥だった。艶やかな草木に、色鮮やかな花々が多いこの森は、様々な野生のポケモン達の棲み処にもなっている。この森はも気に入っている森で度々訪れる場所ではあるが、一体ムックルはどうしてここに連れてきたのか、と未だに謎の解けないは前をゆくムックルを見詰めた。
「何処まで行くの?お店も開けなきゃいけないし……」
そう声を掛けたところで、漸くムックルは飛ぶのを止めて細い木の枝に止まった。
「何、どうし……」
どうしたの、と言葉を続けようとした所で、ははっと息を止めた。何やらオオタチやメブキジカ、スボミーやチュリネといった野生のポケモン達が、すぐ傍に流れる川の淵に集まっていたのである。そこに恐る恐るが近付くと、野生のポケモン達はよくこの森を訪れるに慣れている為か逃げたりはせず、のためにと左右に分かれてくれたので、そこから一体何に彼等が集まっていたのかが見えた。
「なに、このポケモン…… 」
そこには、一匹の傷だらけのポケモンが倒れていたのだ。幾つもの酷い傷を負ったポケモンは、辛うじて息をしているようだった。黄色い体毛は血と泥で汚れ、見ていて痛々しいものである。どうしたものかと考えた末に、は近くで心配そうにこのポケモンを見詰めていたメブキジカに声を掛けた。
「……このポケモンを運ぶの、手伝ってくれる?助けなきゃ」
メブキジカは快く頷くと、倒れているポケモンの傍で身を屈めた。そしてその背にオオタチ、ヤナップなどの力を借りてポケモンを乗せると、礼を言ってとメブキジカはの家へと向かったのだった。
ポケモンの身体の汚れを家の庭の水道で綺麗に洗い流し、更に柔らかなタオルで優しく拭いてやると、はもう一度メブキジカの背に、今度は家の近くにいたミルホッグ達の助けを借りて乗せ、そして家の二階へと運んだ。階段があまり高くないもので良かった、とベッドにポケモンを運び終えてからは思った。
そして手伝ってくれたメブキジカやミルホッグに礼を言うと、はすぐにベッドに横たわるポケモンの手当てに取り掛かる。傷は浅いものから深いものまで様々で、包帯とガーゼが危うく足りなくなる程であった。そうして漸く手当てを終えると、は窓から心配そうに見詰めていたムックルとマメパトに様子を見ててくれるように頼み、漸く店を開店させたのだった。
その日一日中、ポケモンは目を覚まさなかった。店を閉店させたは、二階に上がると二階に備え付けられたキッチンで夕食を取り、すぐにベッドに横たわるポケモンの様子を見に行った。交代で様子を見ていてくれたムックルやマメパトに今日はありがとうと言うと、彼等は頷きはしたものの窓の縁から動こうとしない。どうやらこのポケモンのことが心配らしい。
「今日はここに泊まってくといいよ」
そう言うと彼等は嬉しそうに目を細める。野生のポケモン同士と言えど、やはりこの酷く傷だらけのポケモンのことを心配していたのだ。そんな彼等にも笑いかけると、それからベッドに横たわるポケモンへと視線を落とした。見つけた時よりも呼吸は安定したものの、時折酷く苦しそうな呻き声を漏らすので、その度には大丈夫かと声を掛けるのだが、当然のように返事はない。そしてベッドの隣で毛布にくるまると、は本棚から引っ張り出してきた本を開いた。このポケモンは何か、というのを調べようとしたのだ。様々な姿のポケモンの挿し絵を眺めながら、暫くしてはとあるページに辿り着く。そこにはベッドに横たわるポケモンと同じ姿のポケモンが描かれていた。
「スリーパー……か……」
挿し絵を人差し指でなぞりながらは呟くと、ベッドに依然として横たわったままのポケモン───スリーパーを見詰めた。何か悪い夢でも見ているのか、スリーパーの顔は酷く苦しそうだ。そんなスリーパーの額を一撫ですると、は膝を抱えて座ったまま目を閉じた。
スリーパーは、長い夢を見ていた。何処までも何処までも追いかけてくる人間と、鋭い牙を剥き出しにしたグラエナ達、そして徐々に先が見えなくなる不安定な道。何処まで逃げても彼等は執拗に追いかけてきて、スリーパーはもうくたくただった。そもそも何故自分が人間に追われなければならないのか。自分は、ただ人助けをしただけだというのに。
───スリーパーがあの月の美しい夜に人間とグラエナに追いかけられていたのは、人間達による勘違いから始まったものであった。
とある街で、人間の子供が数人行方不明になったのが事の発端である。子供達は珍しいポケモンを捕まえようと街外れにある森へと大人の目を盗んで立ち入ったのだが、そのまま森で迷子になってしまった。さ迷うこと二日間、その間に野生のポケモン達に襲われなかったのは運が良かったが、帰り道は依然として分からないままであった。そんな時、森に棲んでいたスリーパーが偶然子供達を見付けたのだ。泣きじゃくる子供達を見て、スリーパーは直ぐ様ああ、迷子かと判断した。しかし人間とポケモンでは言葉が伝わらないし、パニックを起こしている子もいれば体力の限界の子もいる。これでは道が分かっていても助けてやることは出来ないだろう。そう判断したスリーパーは、子供達に催眠術をかけたのだ。自分の後を付いてくるように、と。
そしてスリーパーはこっそりと森の入り口まで子供達を連れていってやったのだが、そこで運悪くも子供達の捜索を続けていた人間の一部に見付かったのだ。端から見れば、どう見てもスリーパーが催眠術で子供達を連れ去り、今漸く帰しに来たようにしか見えなかった。
「っ……!子供達を連れ去るような危険なポケモンは、殺せ!」
「このまま放っておいても、子供達が怯えるだけだ!」
その声を聞くや否や、スリーパーは駆け出す。グラエナの遠吠えが、長い逃走劇の開始の合図だった。放たれたグラエナ達は暗闇でもスリーパーを見失うことなく、確実に追い詰めてゆく。そして、あの日の夜に繋がる。
不意に眼を覚ますと、スリーパーは慌てて飛び起きようとした。人間が、グラエナが追いかけてくる!と。だが、あまりの全身の痛みに起き上がることが出来なかった。その振動で、ベッドに寄り掛かっていたが眼を覚ます。
「ん……、あ!良かった、眼を覚ましたんだね!」
人間の声に、スリーパーはびくりと肩を揺らした。だが、それさえも身体の痛みへと繋がり、思わず顔を歪めた。それを見て、は慌ててぶんぶんと手を振る。
「あっ、ごめんね。驚かせるつもりは無かったんだけど……傷、痛いでしょう?あまり動かしちゃ駄目だよ」
の言葉に、スリーパーはまじまじと目の前の人間を見詰めた。困ったように笑っている人間と、その傍でこちらを見詰めるムックルとマメパト。じっと観察するように見つめて、漸くスリーパーは肩の力を抜いた。どうやら敵意は無いらしい、と判断したのだ。
「ええっと、私は。君、森の奥の河の所に倒れてたんだよ」
そう言えば朦朧とした意識の中で水を飲もうとして河に落ちたんだ、と思い出したスリーパーはぐう、と呻き声を漏らした。
「この町は小さくて、ポケモンの治療をしてくれるポケモンセンターが無いんだよね。だから、こうして私の家で手当てしたってわけ」
そう言うとスリーパーは少しばかり頷いて見せたが、は慌てて傷に響くから無理して返事をしなくていいよ、と声を掛ける。そしてはっとしたように壁に掛けられた時計を見ると、あっと声を小さく上げた。
「ここね、一階が花屋になってるんだけど……私今からそっちに行かなくちゃ!何かあったらムックルやマメパトに言ってくれれば、私に伝えてくれると思うから。それじゃあ、ゆっくり休んでてね!」
開店時間が迫っていたことを忘れていたは、慌ただしく階段を下りていった。そんな騒々しいの足音を聞きながら、スリーパーはふとすぐ傍にいたムックル達に眼を向ける。すると、彼等は心配したんだよ、と小さく鳴いた。しかしスリーパーは特に何も返事をすることもなく、物思いに耽るようにゆっくりと、傷に響かないよう注意を払いながら寝返りを打つ。複数の人間とグラエナに追い立てられたことが、スリーパーの心の奥底に「自分以外は信用してはならない」という意識を植え付けてしまっていたのだ。今は傷が酷く動けないので仕方ないが、傷が癒えたらさっさと姿を消そうとスリーパーはひっそりと考えた。