あの夢の続きを追いかけて



 ハナミズキの木々の葉の隙間を、やわらかな金の日差しの糸が縫っている。
 木陰に佇んで葉ずれの音に耳を澄ませていたハッサムは、ふと隣に立つへ目を向けた。花の匂いを乗せて吹く風に彼女の髪が遊んでいる。その様子を盗み見ていると、視線に気が付いたらしいがゆっくりと振り向いて、ふたりの視線がぶつかった。瞬間、ハッサムの心臓が大きく跳ねる。
 息を飲んだハッサムは、動揺を悟られないよう努めて平静を装って、の目をまっすぐに見つめ返した。

「ハッサム」

 ややあって聞こえたのは囁くような声だった。それでもハッサムがの声を聞き漏らすことはない。ことばの続きを促すようにぎこちなく首を傾げると、彼女がやわらかく微笑んだ。

「    」



 ハッサムが目を覚ましたのは、まだ活動するポケモンも少ない早朝だった。
 ねぐらにしている倒れた巨木の空洞の中、さあさあという音と肌に纏わりつく湿った空気、それと匂いから雨が降っていることを理解したハッサムは、何度か瞬きを繰り返した後に身を縮こまらせた。
 巨木は随分と朽ちていて、所々にできた隙間からはぽつぽつと雨粒が落ちてくる。鋼のからだは頑丈であるものの、水に濡れると錆びてしまうのだ。しっかりと日光に当てて乾かせば問題ないが、それでも出来るだけ濡れることは避けたかった。

 巨木の表皮を叩く雨の音に耳を澄ませながら、ハッサムは先程の夢を思い出した。木漏れ日の降る庭。花の香りを乗せた風に揺れる髪。振り向いて微笑んだ彼女の顔。それから、最後の言葉。
 ──随分と自分に都合のいい夢だったな。そう思ったハッサムの眉間にしわが寄る。
 およそ二ヶ月ほど前から何度も見るようになったこの夢は、決して嫌な夢ではなかった。ただ、あまりにも幸福なその内容に、目が覚めて現実に引き戻された時、どうしようもなく虚しい気持ちになってしまうのだ。

 ──この都合のいい夢を繰り返し見るようになった原因に、ハッサムは心当たりがあった。

 やわらかな日差しが降る午後のことだった。いつものようにの家を訪れたハッサムは、あの庭のハナミズキの下で彼女に自分の想いをはっきりと伝えたのである。
 ハッサムと。ポケモンと人間であるふたりの間には、どうしようもない絶対的な種族の壁がある。
 故に、ハッサムは自身の想いを示したところでがそれに応えてくれる可能性は限りなくゼロに近いことも、これがとても不毛な恋であることも理解していた。
 それでも。長いこと胸の内に秘めていた想いをどうしても伝えたい、伝えなくてはならない。そんな気持ちになったのは、季節が丁度、ストライクやハッサムがつがいを求める時期だったからだろう。

 ポケモンであるハッサムは当然人のことばを持たないため、人間のように愛をことばで語ることができない。だからと言って「ハッサム」という種族特有の求愛行動をとっても、人間であるにはその行動に込められた意味や想いは伝わらない。
 実際に贈ったのはカジッチュによく似たヒメリのみだったが、彼女から聞いた「人間は想いを伝える時にカジッチュを贈ることがある」という方法でも、噂通りに恋が実る、なんてことにはならなかった。
 それなら。ハッサムは散々悩んだ末に、自身の知る人間の愛情表現の手段のひとつ、「唇で相手のからだに触れること」を真似をしたのだった。
 人間の愛情表現や求愛行動については街で見聞きした程度の知識しかないが、人間にとって「唇で触れる」という行為は恐らく特別なものであるということだけはハッサムも何となく理解していた。
 だからそうすれば、今まで上手く伝えられなかったこの想いも伝わるのではないか。そう思ったのだ。

 あの時のことをハッサムは鮮明に覚えている。

 背にはハナミズキの木、両サイドには鋼鉄のはさみ。退路を絶たれて動けずにいるは、赤い鋼の口先で額や頬に触れられるとひどく困惑した表情を浮かべた。
 その表情に嫌悪が混じっていないことに少しだけ安堵しながら、ハッサムはこのまま彼女の唇にも触れてもいいのだろうかと考える。ふたりの間にある絶対的な種族の壁を、ほんの一瞬飛び越えることは許されるのか。それともを傷付けることになってしまうのではないか。どうか。

 そうして悩んだ末、ハッサムは伏せていた目でしっかりとの目を捉えると、彼女の唇に触れようとした。
 が言葉を発したのは、その時だった。

「……ハッサム。待って」

 微かに震えた声だった。その声にハッサムが顎を引くと、が口を開く。「その、あなたの気持ちは分かったけれど……」この後に何と続けようか。そんな慎重に言葉を選んでいる表情に、この恋の結末を察してしまったハッサムの胸が痛んだ。それでも何とか目を逸らさずにいると、がきゅっと口を結び、目を伏せた。

「でも……」

 長いこと上手く伝えられずにいた想いは確かに伝わった。しかし察した通りの結末にハッサムは俯いて、に見えないようにぐっと口を噛み締める。
 人間であるに、人間でない自分が選ばれることはない。どうしたってこの結果になると分かっていたことだろう。
 そう自身に言い聞かせて、ハッサムは静かに立ち上がった。が釣られたように立ち上がろうとしたが、ハッサムはそれをそっと制して背を向ける。寸前、彼女が何かを言おうとしていたがハッサムにそれを待つ余裕はなく、気が付かなかったふりをして庭を立ち去った。

 それが、二ヶ月前のことだ。
 今まで頻繁にに会いに行っていたが、あの日から今に至るまで、ハッサムは一度もの元を訪れていない。一度でも姿を目にしたら、諦めようと決意した心が揺らいでしまいそうだった。
 だというのに、こうして未練がましく都合のいい夢ばかりを見てしまうのだ。

 ハッサムはいつものように「あの夢が現実だったらよかったのに」と思いながら、瞼の裏に焼き付いている幻の光景を振り払うように首を振った。
 巨木から覗く、白く煙るワイルドエリア。まだまだ止みそうにない雨が煩わしく、恨めしそうに外を眺めていると、腹が空腹を訴えて気の抜ける音を鳴らした。このままでいる訳にもいかないなと立ち上がったハッサムは、朝食を求めて巨木の空洞から飛び出した。


 地面を滑るように移動していたハッサムは、あるものに気がつくと羽ばたくのを止めて地に足をつけた。
 数メートル先にあるのは随分と見慣れてしまった門だった。石造りの階段が伸びるそれは、ワイルドエリアとナックルシティの境目だ。あの門を抜けると人間の暮らすナックルシティがあって、出てすぐ左の道をずっと行けばの家がある。に会いに行く時は、決まってこの門をこっそりと抜けていたのだ。

 食べ頃のきのみを求めてさまよう内に、いつの間にかここまで来てしまったのか。無意識とは恐ろしい。そう思ったハッサムの口から、またひとつ溜め息が漏れた。


「……あ」

 門に背を向けようとしたところで、久しぶりに聞いた、けれど随分と聞き慣れてしまった声が頭の上に降ってきたものだから、ハッサムは弾かれたように顔を上げた。それから金色の目を見開いて、まるでこおりついたように動けなくなった。
 ナックルシティに続く階段の先に、ビニール傘を差したが立っていたのだ。その目はハッサムと同じく見開かれている。

 ──あまりにも夢に見すぎて、ついに幻を見るようになってしまったのか。
 ぽかんと開いてしまった口はそのままに、ハッサムは何度も瞬きを繰り返す。しかしの姿は消えず、ただそこにあった。

 どうしてここに? 呆然と立ち尽くすハッサムを他所に、傘の柄を握り直したは雨で足を滑らせないように気を付けながら、一段ずつゆっくりと階段を下りてくる。
 そうして残りあと数段、というところでの足が止まった。傘のビニール生地に当たった雨粒が、パラパラと音を立てて弾けていく。

「……。……ええっと、こんにちは。ハッサム」

 こうしてに挨拶をされるのはあの庭以外では初めてのことで、何だか変な感じだと思いつつもハッサムはぎこちなく頷く。心なしか、安心したようにが肩から力を抜いたのが分かった。

「こんなところでどうしたの?」

 の方こそ、とハッサムは眉間にしわを寄せた。こんな雨の中、彼女がワイルドエリアにやって来た理由の見当がつかない。訝しげにハッサムが首を傾げると、が階段を一段下りた。ぴしゃ、と音を立てて、彼女の足元で雨水が跳ねる。
 もう一度傘の柄を握り直したが、ハッサムの後方に広がるワイルドエリアの空に目を向けた。

「……雨、暫く止まないみたいだね」

 その言葉と共に、重たい雲が広がる空を映していた目が向けられる。思わずハッサムが身動ぎすると、が微笑んだ。

「よかったら、雨宿りでもしていく?」

***

「うわあ。すごい土砂降りだね。丁度いいタイミングで帰って来られたのかも」

 雨に濡れた服から着替えたが窓の外を眺めながら言った。の言う通り、窓の外からは先程よりも勢いを増した雨の叩きつけるような音が聞こえてくる。
 ハッサムはの背中を見つめながら、自分は一体何をしているのだろうと思った。
 彼女のことは諦めようと決心し、あの日からずっと会いに行くのを我慢していたというのに、無意識にあの門の前まで来てしまった上に、いざその姿を目にしたら、彼女の誘いも断れずにこうして家にいる。
 帰ろう。けれど傍にいたい。そんな反発しあう気持ちがぐちゃぐちゃになり、どうするべきか分からずにハッサムが唸っていると、窓の向こうを眺めたままが言った。

「ハッサムは元気かなって思ったの」

 窓を叩く雨の音は相変わらず騒がしいが、その声はハッサムの耳にしっかりと届いた。

「……大体二ヶ月くらい、かな? 姿を見かけなかったから」

 ハッサムが顔を上げると、振り向いたと目が合った。何だか少し気まずくてハッサムは咄嗟に目を逸らしたが、は気にしていない様子で言葉を続けた。

「今日はほら、すごい雨でしょう。何となくあなたが庭に迷い込んできた時のことを思い出して。あの時みたいに雨に打たれていないといいけれど、って心配になっちゃった」

 曰く、それではワイルドエリアの入り口まで来たらしい。随分と前、「普段はどこにいるの? ワイルドエリア?」と尋ねられたハッサムが、そうだと頷いたことを覚えていたのだろう。
 まさかハッサムに会えるとは思わなかったな。肩を竦めてが笑った。

「それにしても会えてよかった。……あの時、『時間が欲しい』って言おうとしたけれど、言えなかったから」

 窓から離れたが、ハッサムへ一歩近付いた。
 あの時。その言葉にハッサムは二ヶ月前のあの日を思い出した。が何かを言おうとしていたのに、気が付いていないふりをして庭を立ち去った時のことだ。
 てっきりあの時「でも」と言ったは「ごめんなさい」なんて言葉を続けるものだとばかり思っていたハッサムの目がまるくなる。
 
「……ハッサムの気持ちを知って、驚いたの。本当にびっくりして、あの時はすぐに答えが出せそうになかった」

 ハッサムのことが好きか嫌いかと聞かれたら、間違いなく好きだと答えられる。けれどそれはどういう「好き」なのか、すぐに分からなかったのだとは言う。

「自分の想いを伝えるのって、勇気がいるよね。……ポケモンと人という種族が違うもの同士だったら、尚更。あの時、どれ程の勇気を振り絞ってハッサムが伝えてくれたのか、私には想像もつかない」

 が目を伏せる。

「……だからこそ、曖昧なまま返事をすることはできないと思った。それでね、この二ヶ月ずっとあなたのことを考えてたの。……本当に、ずっと。それで、ようやく分かった」

 けれど、と、が言葉を詰まらせた。雨が窓を叩く音を聞きながら、ハッサムは静かにその続きを待つ。
 やがて、意を決したようにが口を開いた。

「……ハッサムはポケモンで、私は人間だよ。あなたはそれでもいいの?」

 あなたはそれでもいいの? その言葉に込められた意味が、ハッサムには理解できた。
 ポケモンと人間。種族が違うふたりの間には壁がある。壁を飛び越えることはできても、その壁がなくなる訳ではない。それはたくさんのものを、例えば同種族でつがいとなれば得られたかもしれない未来を捨てることになる。けれど。ハッサムはそれでいいのだと小さく頷いた。
 例えそれらを捨て去っても、ハッサムが欲しいと思うのは月日を共に重ねた人間であるただ一人だった。彼女が傍にいて、その目に自分のことを映してくれるのであれば、それでいいと心から思えるのだ。
 迷う素振りすら見せずにハッサムが頷くとは俯いて、悩む素振りを見せて――また顔を上げた。その瞳は少しだけ潤んで見える。

「……私、ハッサムと過ごす時間が好き。ハッサムと並んで歩いたり、一緒に笑ったりするのが好き」

 の言葉を聞きながら、ハッサムは一歩踏み出す。から真っ直ぐな眼差しを向けられたが、もう身動ぎも目を逸らすこともしなかった。

「ハッサム。あなたのことが好きだよ。……私はあなたと生きていきたい」

 好きだよ。
 それは夢の中で何度も聞いて、これが現実だったらよかったのにと何度も願った言葉だった。

 息を飲んだハッサムは、両のはさみをに伸ばす。ワイルドエリアで強敵と対峙して命の危機に瀕した時にすら震えなかった手足が、今は微かに震えていた。
 のからだに触れ、優しく引き寄せて閉じ込める。自身の最大の武器である両手のはさみで傷付けることはない。以前ヒメリのみを山ほど集めた時に、「優しく触れる」練習をたくさんしたからだ。

 目線の高さを合わせ、彼女の瞳へ宿る微かな熱に気が付いたハッサムの目がすうっと細くなる。自分とは違う色とかたちの額に硬い鋼鉄の額を静かに触れ合わせると、が瞼を下ろした。
 あの日をなぞるよう、今度は鼻の先での額に触れたハッサムは熱いなと思った。彼女の体温が自分に比べて高すぎるのか、それともいつになく心臓を逸らせている自分のからだが熱いのか、触れる箇所から体温が溶け合って、もうどちらの熱か判別がつかない。
 続けて頬に触れたハッサムは、の唇に視線を落とす。あの日は随分と高く見えたふたりの間の壁も、今はどこかへ消えてしまったようだった。
 それでも同意を得るようにハッサムがもう一度額と額を合わせると、瞼を下ろしたままのが小さく頷いた。

 自分がどれ程のことを想っているのか、そのすべてが伝わればいいのに。そう思いながら、ハッサムは自身の口での唇に触れた。自分とは全く違うかたちとやわらかい感触。それらを確かめるように優しく食むと、がくすぐったそうに声を漏らす。
 それが何だかとても幸せで、胸がいっぱいになったハッサムはどうしようもなく泣きたい気持ちになってしまった。胸の内から沸き上がる幸福が、頭のてっぺんから爪先まで余すことなく満たしていくようだった。

 けれどここまできて、いつもの夢だったら。この幸せが幻のように消えてしまったら。そう考えると途端に恐ろしくなって、の唇からそうっと口を離したハッサムは、これが現実であることを確かめるべく、また、例え夢であったとしても離してしまわないようにと、のことを抱き締める両手に力を込めた。

「……く、くるしい」

 呻くようにが言った。鋼鉄のからだを、彼女の髪と吐息が撫でる。夢じゃない。がここにいる。そう、今までに何度も見てきたあの都合のいい夢ではなかったことにひどく安堵して、ハッサムは小さく息を吐いた。

「……ハッサム、ねえ、聞いてる?」

 に背中をぽんぽんと叩かれ、ハッサムは頷いた。分かっている。けれど、どうにも離れがたいと思ってしまうのだ。しかしそのままでいる訳にはいかず、名残惜しそうに両のはさみの拘束を緩めた。

「まだちょっと、」

 苦しい、そう言いかけて、「そんな顔をしなくても」と笑ったの呆れた声を聞きながら、ハッサムも金色の目を細める。それから今しがた手に入れたばかりの幸せを噛み締めて、の唇にもう一度口付けを落とした。

 ──あの夢の光景に辿り着くことはないのだと思っていた。掴めるはずのない幻だと、そう諦めていたのだ。
 ようやくここに辿り着くことができたのだから、もう少しだけこのままでいることを、どうか許して欲しい。そう、願いながら。



(あの夢の続きを追いかけて/20210706)
お題箱の「ハッサムの、金色の矢が射抜いたもの、の続きをぜひ…!」「ハッサムと主人公はどうなったんですか!?」より。