何年、何十年もの深い眠りに就いていた頃は、どれだけの時間が過ぎようとも気にならなかった。己の身を寄せる海底の底にある洞窟。その周囲がどれ程季節と共に姿を変えようと、何ら興味も沸かず、外の世界に生きる他者などどうでもよかった。
それが、今では。毎日変わらぬ早さで過ぎていく月日の長さに杞憂し、深い眠りに就いていた頃には全く興味の沸かなかった外の世界の様子が気になり、この静かな海底洞窟に時折響く音の一つ一つに、もしかしてこの音はよく知った足音ではないのかと期待を膨らませてしまう。そして、それと同時に思うのだ。
彼女は今、どんな世界を見て、どこで息をしているのだろう、と。
私にと名乗った彼女と出逢ったのは、冬がすぐそこにまで迫った、少しだけ風が冷たくなった日のことだ。
その日まで深い眠りに就いていた私は、とある人間によって無理矢理目覚めさせられ、身勝手な理由で目覚めさせられた私はただ怒りのままに暴れまわった。眼に入る物全てを破壊して、身の程を思い知らせてやりたかったのだ。自然界の均衡、創造に人間が干渉するなど烏滸がましい。その代償を知れ、と。
海底洞窟から抜け出して海面に浮上した私が咆哮すると、それに応えるように重く黒い雨雲がたちどころに生まれ、辺りの空を一気に多い尽くす。それと同時に降り出す叩き付けるような大雨。海を増やすのだと私を無理矢理目覚めさせた人間は、最初はその大雨に歓喜の声を上げていたが、次第にその大雨の異常さに気付いたのだろう。段々とその顔からは歓喜の色が消え失せ、軈ては青ざめて震えだした。
こんなはずでは。そう繰り返すように呟いていた男の声を遠く聞きながら、お前のしたことの結果がこれなのだと言うように私は尾鰭で海面を叩く。忽ち巻き起こった巨大な波が、近くの岩を砕き、ざんざんと派手な音と水飛沫を立てた。どうしようもない凄まじい怒りの炎に一瞬で包まれた心は自身でもその収め方が分からず、このままではこのホウエンという土地が滅びるのでは無いだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら一度海に深く潜った私は、何かに導かれるようにしてひたすらに海を泳ぎだした。
そうして辿り着いたのは、ルネという町の、めざめの祠という場所だった。どうしてこの場所に辿り着いたのかは自分自身でも分からなかったが、とにかく苛立つ心を落ち着かせるように咆哮を上げる。途端に祠の天井に所々ある隙間から雨雲が立ち込め、あっという間に外と変わらぬ大雨が降り出した。
大雨に打たれて大きく息を吸った瞬間のことだった。心の奥底がざわざわと騒ぐと同時に、この大雨で視界の悪い中を、水色の体に赤色の翼を持つドラゴンがこちらへと向かってくるのが見えたのだ。それを眼にした私は敵だと判断して冷気を纏った光線を放つ。それをこの狭い祠の中でひらりと器用に交わすと、そのドラゴンは私の頭上をぐるりと旋回した。
「カイオーガ!お願い、聞いて!」
不意に聞こえた声に、私は動きを止めた。驚くことに、あのドラゴンの背には一人の人間が乗っていたのだ。それも逞しいあのドラゴンのトレーナーとは思えないような、子供が。
ざあざあと降る大雨の音に掻き消されないように、その人間は必死に声を張り上げる。
「あなたが怒っているのは、当然だと思う。でも!このままじゃ、このホウエン地方がなくなっちゃう!」
悲痛な叫びを上げる人間を見つめながら、私はそんなことは分かっている。それでもこの言い様のない怒りをどうすれば良いのか分からないのだと叫んだ。その咆哮は更なる雨雲を呼び、大雨は激しさを増す。そして私がもう一度先程のように冷凍ビームを放つと、その人間はドラゴンの背を何かを合図するかのように叩いた。
ドラゴンは放たれた冷気を寸での所で交わし、そのまま急降下をする。そして私の頭上すれすれを飛んだかと思うと、その瞬間に私の眼の前に自分のトレーナーを降ろしたのだ。まさかそんな行動を取るとは思わなかった私は、思わず固まった。この人間は何をするつもりだ。このまま海に沈めてやろうか。そう考えるよりも早く、人間が動く。
大雨で酷く水を吸った鞄から、一つの美しい藍色の宝玉を取り出すと、私の鼻先にそっと触れさせたのだ。
「カイオーガ……!私は、あなたを、このホウエンを、助けたい」
その瞬間、彼女の手と私の額の間で、眩い藍色の光が溢れた。眩い藍色の光は祠の中を優しく照らす。その光は心の奥底にあった何かをまるで癒し、じわじわと溶かしていくようだった。その光に包まれ、私の心に燻っていた苛立ちや怒りが収まるに連れて、少しずつ雨脚が弱まり、黒く重い雨雲が薄れていく。
「ああ、よかった……」
今にも降り止みそうな小雨の中、千切れ千切れになった雲間の、更に天井の隙間から射した太陽の光の下で彼女は力が抜けたように笑った。そんな彼女の元に迎えが来る。あのドラゴンだ。彼女は私の元へと近付いてきたドラゴンの背に乗ると、ちらりと私を見遣った。
「もう、大丈夫だよ」
最後にそう言って、彼女は祠から出て行った。私は彼女が去っていった祠の出口がある方角を見つめていたが、軈て海の奥底へと潜る。そして元いた海底洞窟の奥底を目指してゆっくりと泳ぎ出した。
まだ子供だったにも関わらず、彼女の働きによって私自身とホウエン地方は救われたのである。
あの出来事から一ヶ月程が経った頃に、彼女はこの海底洞窟を再び訪れた。しんと静かな海底洞窟に珍しく足音のようなものが聞こえると思ったら、声をかけられたのだ。
「カイオーガ、こんにちは」
その聞き覚えのある声に、洞窟内に入り込んだ海の水の中で眼を閉じていた私はゆっくりと眼を開く。あの出来事の時もそんなにしっかりと姿を眼にしていた訳では無いが、あの時よりも彼女は何となく雰囲気が変わったというか、自信がついたような顔をしていた。
「久しぶり、だね」
私は何も言わずに、彼女の言葉の続きを待っていた。
「その……本当は、あの出来事の後すぐにここに来て、あなたに謝ろうと思ったの。アオギリって人、……あ、えーっと、あなたを目覚めさせたアクア団のリーダーのことなんだけれどね。その人に勝手な理由で目覚めさせられて怒るあなたの気持ちは当たり前のことなのに、私に止めて、なんて言われて、怒ってるんじゃないかなって思って」
そう言うと彼女は俯いてしまった。
「でも、あなたが怒っているかもしれないって思ったら、何だか怖くなっちゃって。それで、しっかりと自信を持ってあなたに会いに行けるようにって、ポケモンリーグに挑戦してたの」
ポケモンリーグは、腕利きのトレーナー達がその腕を競い合うポケモントレーナーの最高峰らしい。自信をつける為にそこに挑んできた彼女がここにいるということは、つまり彼女はそこで優勝を果たしたのだろう。
「それで、遂に優勝もできて、チャンピオンにもなって自分に自信が持てるようになったから、あなたに会いに来た」
彼女は顔を上げる。強い意思を宿した瞳をしていた。
「あの時は、ごめんなさい。あの時あなたが鎮まってくれて、本当に良かった。ありがとう」
私は彼女の言葉に首を振った。海面が僅かに波立つ。別に私は彼女に対して怒りなど抱いていなかったのだ。寧ろ、あの時私を止めてくれてありがとうと、礼を言いたい程だった。酷い大雨の中を全ての責任を背負い、勇敢にも立ち向かってくれてありがとう。そう告げるように喉を鳴らすと、伝えたい言葉を汲み取るのは無理でも私が怒りを抱いていなかったことが伝わったのか、彼女は安心したような表情を浮かべた。
「……私ね、チャンピオンを辞退したんだ」
不意に告げられた言葉に私が少しだけ驚いた顔をすると、彼女にもそれが伝わったのだろう。近くの岩に腰を下ろすと笑った。
「まだまだたくさんの地方に行って、たくさんの世界が見たいからって、ね。数日後には旅立つつもり」
彼女が腰を下ろしていた岩から勢いよく立ち上がる。
「旅立つ前に、あなたが怒っていなかったことが分かって安心したよ。……何より、また、あなたに逢えて良かった」
その言葉に、私も頷いた。あの時、眼の前に現れたのがお前のような人間で良かったよ、と。それを見た彼女は嬉しそうに目を細めた。
「他の色んな地方も回って、たくさんの世界を見てきたらね、私はまたホウエン地方に帰ってくる。その時は、またあなたに逢いに来てもいいかなあ」
私は大きく、ゆっくりと一度だけ頷いた。ざあざあと波がまた音を立てる。
「……ありがとう。絶対に逢いに来るよ!私の名前、っていうの。覚えておいてくれると嬉しいな」
さっきまで随分と大人びた様子で話していたのに、最後にそう名乗って年相応の子供らしく無邪気に笑ったは、いってきますと告げて海底洞窟を出ていった。という人間の名を、きっと私は忘れないだろう。私のことを、ホウエンの地を救ってくれた彼女の名を。そうしていつかまた逢える日を心待ちにしながら、私は海底洞窟の海の底に潜ったのだった。
あれからおよそ十年の月日が流れたが、はまだ現れない。