言の葉を喋る九尾の狐
「上から数えて二番目の引き出しを開けてくださいな」

 は酷く驚いた顔をして、勢いよく振り返った。己の後ろにいるのは言葉を喋る人間では無く、一匹の狐の筈である。そう思いつつ、眉間に僅かばかりの皺を寄せ振り返ったの先にいたのは、矢張り彼女の予想通り見慣れた一匹の狐だった。その狐は太陽の光を受けて光る、まるで秋の稲穂の様な金の毛並みをした艶やかな九つの尾を、いつも通りにゆらゆらと揺らしている。

「何て、言ったの……?」

 の声は僅かに震えていた。無理も無い。は今、この状況に戸惑っているのだ。しかしの目の前にいる狐は彼女の様子をさして気にしていない様子で、紅色の硝子玉の様な瞳をそっと細めた。それから口元を緩やかに引き上げると、ゆらゆらと揺らしていた九つの尾をそろりと床に下ろす。

「貴女のお探ししている物は、その棚の上から数えて二つ目の引き出しにありますよ、と」

 凛とした、静かで柔らかな声色で狐はそう言葉を発した。恐る恐るは狐に背を向け、もう一度後ろの棚に向かう。それから狐の言葉通りに棚の上から数えて二番目の引き出しを開けると、引き出しの中を覗き込んだ。

「……本当にあった」

 が探していたのは、爪切りであった。爪が伸びてきたので、そろそろ切ろうと思ったのだ。そして見つけた爪切りを怪訝な表情で見詰めるの様子に、狐は先程した様に眼を細める。

「私が嘘を言うとでも」

 狐の細められた紅色の瞳が、きらりと光ると色の濃さを増す。はそうは思わないけど、と呟いた後に、爪切りへと向けていた目線を狐へと移した。

「まさかキュウコンが喋れるとは、思わなくて」
「……おや」

 が告げた言葉に、キュウコンは瞳をぱちりと瞬かせた。それから先程床に下ろした九つの尾を、端から順に持ち上げると再びゆらゆらと揺らす。

「何百年も生きていれば、言の葉を操る事など容易い事の一つにもなります」

 何処か得意気な様子で口元に弧を描くキュウコンを、はじっと見詰める。そしてキュウコンの言葉に疑問を感じたは、先程よりも大分落ち着いた様子で口を開いた。

「何百年も生きていれば?それなら、キュウコンは一体何年生きているの」

 キュウコンはの言葉にこてりと首を傾げると、そうですねえ、と呟く。それから少しの間を置くと、ゆっくりとした口調で言葉を続けた。

「二百、いや三百にはなりましょうか」
「……そんなに!」

 驚いた様子のを見て、キュウコンはくすくすと笑った。

「千年は生きるキュウコンの中では、私はまだまだ若い方ですよ」

 笑いながら語るキュウコンの言葉を聞きながら、はこの目の前にいるキュウコンと出逢った時の事をぼんやりと思い出していた。



 キュウコンと出逢ったのは今から二年前、夏の日の事である。親戚の家に用があって出掛けた日の帰り、両脇から木々の葉が垂れ、テッカニン達のじりじりとした蝉時雨の降る小道をは歩いていた。

 そしてがその小道の半ばまで来た時のことだった。突如あんなに騒がしかった蝉時雨が止んだのだ。
 辺りの様子の変化に一体どうしたのかと思うと、の足元にぽつりと小さな染みが広がった。それに驚いてが上を見上げると、木々の葉の間を擦り抜けた雨粒が彼女の頬に落ちる。

 晴れているのに雨なんて、とは思わず唖然とする。その間にも落ちる雨粒は数を増し、あっという間にはずぶ濡れになってしまった。

 そうして突然降り出した雨は、止むのもまた突然だった。が走って小道を抜ける頃には、雨は止んでいたのである。小道を抜けてが空を見上げると、空はまるで雨など降らず、先程からずっと晴れていたとでもいうかのように晴天だった。

 空を恨む様に見詰めながら、は溜め息を吐いた。それから濡れた服を拭くためにハンカチを鞄から取り出すと、後ろから物音がしたので、はさっと振り返る。
 すると先程抜けた小道に一匹のキュウコンがおり、を興味深そうにじっと見詰めていた。木々の葉の隙間から時折降る陽射しに、キュウコンの体毛が金色に輝く。そのキュウコンの美しさに、は思わず息を呑んだ。

 キュウコンの美しさに目を奪われたがそっと近付いても、キュウコンは逃げる素振りを見せなかった。それ所か、の様子を伺う様にそっと腰を下ろしたのである。

 そしてキュウコンとの距離が後一メートル程になった時、彼女はある事に気が付いた。キュウコンの体毛の表面が、雨粒に濡れていたのだ。

 このキュウコンも、あの突然の雨の被害を受けたのだろう。そう考えたはキュウコンの前にしゃがみ込むと、先程取り出したハンカチをキュウコンの頭にそっと当てる。 にハンカチを当てられたキュウコンは擽ったそうに眼を細めると、きゅう、と声を漏らした。

「炎タイプなのに、雨に濡れちゃって大変だね」

 キュウコンの頬をハンカチで拭き終わると、はゆっくりと立ち上がる。それからキュウコンを暫し見詰めた後、は小道とは反対方向に歩き出した。

 が途中で振り返ると、キュウコンは下ろしていた腰を上げて彼女のことを真っ直ぐに見詰めていた。


 は片手を上げて手を振ると、再び前を向いて歩きだした。しかし後ろから何やら駆けて来る足音がしたので、は足を止めてまたも振り返る。すると、キュウコンが陽射しを受けて金色に輝く尾を風に揺らしながら、の方へと向かって走って来ていたのだ。

「どうしたの」

 が驚いた様子で問い掛けるとキュウコンは眼を細め、九つの尾をゆらゆらと揺らした。まるで何かをに対して期待をしている様な瞳である。

「……おいで」

 暫し考えた後にがそう声を掛けると、キュウコンはきゅうきゅうと喉を鳴らし、歩き始めた彼女の隣を跳びはねる様に歩きだしたのだった。



「驚かれましたか」

 キュウコンの声にはっとしたは、回想することを止めてキュウコンの顔を見た。キュウコンの眉間には小さく皺が寄っており、その表情は何処か不安そうにも見える。

「……まあ、ね。それにしても、いつから?……もしかして初めて逢った日にはもう喋れたの?」

 キュウコンはいいえ、と静かに首を振った。

「喋ろうと思えば、喋る事は出来たかもしれません。ただ、貴女に出逢った時には、私はまだ言葉というものを知らなかったのです」
「……言葉を知らなかった?」
「ええ。長く生きて神通力が強まり、喋る事が出来る様になろうとも、言葉を知らなければ意味などありません。私は生まれてからずっと、野山の奥深くで暮らしておりましたし、人間に出逢ったのはが生まれて初めてでした。と暮らすようになってから、徐々に言葉を覚えたのです。それに、もし初めて出逢った時に喋る事が出来ていたなら、貴女にそれを打ち明けていますよ」

 ふうん、と相槌を打ったに、キュウコンはそれで、と言葉を続けた。キュウコンの尾は相変わらずゆらゆらと揺れている。

「気味が悪いとお思いになられました?」
「まさか!驚きはしたけど、そんなこと思わないよ」
「ああ、良かった」

 キュウコンはほっとした様に息を吐くと、の隣へと足音も立てずにしなやかな動作で移動した。

「まあそういう訳ですから、よろしくお願いします」

 眼を細め、礼儀正しく頭を下げたキュウコンの頭をは撫でた。例え言葉を喋ろうとも、キュウコンはキュウコンなのだ。大切なパートナーに変わりは無い。こちらこそ、と笑いかけたに応える様に、キュウコンの尾がまたゆらりと揺れた。


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