まだ街全体がひっそりと寝静まっている早朝。朝もやが立ち込める中、ダークライとはミオの街の波止場近く、人気のない海岸に立っていた。今日は二人がしんげつ島から帰ってきた日から三日目の、旅立ちの日である。


「寂しくなるなあ」

 砂浜に並んで立ち、地平線の彼方を見つめて船の出港時間を待つ二人の背中に向かってそう言ったのは、の友人のキヅカだ。その腕には少しだけ眠そうな顔のコリンクが抱かれている。キヅカの声にが振り返り、続いてダークライも振り返った。

「それは、私も」

 眉をきゅっと寄せて、少し困ったような表情を浮かべてが笑う。それでもその瞳には、確かな決意の色が浮かんでいた。ダークライは静かにその横顔を見つめる。

「時々でいいからさ、連絡してよ。旅の話、楽しみにしてるから」
「もちろん!キヅカも、何かあったら話してね」

 二人が穏やかな顔で笑い合う。それから互いの今後の予定などを話していると時間はあっという間に過ぎて、あと少しで船が出港する時間になった。そろそろ時間のようだ。ダークライはそうに声を掛けた後、何かを促すように彼女の名前を呼んだ。


「……うん」

 少しだけ緊張したような声で短く返事を返したは、肩から提げていた鞄の中に手を伸ばす。そっと取り出されたのは、一つのモンスターボールだった。ダークライは赤と白のそれを、まじまじと見つめる。
 これはしんげつ島から帰ってきた翌日、旅の準備をするに「旅をするならあった方がいいと思う」と提案したところ、それもそうだねと彼女が街で買ってきたものだ。モンスターボールはトレーナーなら誰しもが持っているもので、が今手にしているそれも他と何ら変わらないはずなのに、自分のために用意された唯一のものだと思うとダークライの眼には眩しく映った。

 ダークライはを見つめる。彼女もまた、同じようにダークライのことを見つめ返した。それから一呼吸置いたが開閉スイッチを押すと、ボールから闇色の体へ向かって一筋の赤い光が伸びる。光に包まれ、静かにボールの中へと収まったダークライは赤い透明の壁越しに彼女と視線を交わらせると、その浅葱色の眼を僅かに細めた。
 どこか嬉しそうに見える表情を浮かべたは、ダークライの入ったボールを腰のベルトのホルダーに収納すると、「行こう」とキヅカに声を掛けて波止場へと向かって歩き出す。


 ダークライはボール越しに、今日で離れるミオの街を眺めていた。人気のない海岸、海岸沿いの道、いくつもの船が停泊する波止場に、ミオの街を二つに分ける、海から流れ込む大きな運河。どれも、きっと当分の間見られなくなるものだ。
 波止場に着いたが足を止めて海に浮かぶ巨大な鉄の塊を見上げると、その横を潮風が吹き抜けた。その風に背を押されたは、船から下ろされたタラップを上っていく。その途中で後ろへと振り返ると、彼女はキヅカへと向かって大きく手を振った。

「それじゃあ、いってくるね!」
「いってらっしゃい!二人とも気をつけて。元気でね!」

 キヅカの声を追うように、コリンクも吠えた。キヅカとその腕の中のコリンクを見つめたダークライは、の顔を見上げる。彼女の目元にうっすらと浮かんでいた涙が、きらりと光った。


▽△▽


 数日掛けて、ダークライとはミオの街から随分と離れたところへと来ていた。船に乗って海を渡り、いくつかの列車を乗り継ぎ、更に今は山岳鉄道で揺られている。一番後ろの車両のボックス席で、二人は向かい合って窓から外の景色を眺めていた。
 昼前にも関わらず乗客は疎らで、またこの辺りでは「ダークライ」という存在が知られていないからか、こうして彼がボールから出ていようと、その姿を気に留める者は誰一人としていなかった。

「今はどの辺りなんだ?」

 窓から見える、遥か下の山間を流れる大きな河に向けていた視線をへと移し、ダークライが問う。するとはミオを出た日に駅で買ったガイドブックを取り出して、この付近のページを開いた。彼女の指先が、地図を走る線路をなぞる。

「今はこの辺り。……で、駅から少し歩いたここが、目的地だよ」

 旅の明確な目的地は特に決まっていなかった。そのため今向かっているのは、ガイドブックを読んだが「一度だけでもいいから行ってみたいと思った場所」だ。その場所はこの季節、美しい花がたくさん咲いているらしい。

 朝から山岳鉄道に揺られること数時間。昼前に、ダークライとは目的地に一番近い駅へと着いた。駅の売店でがサンドイッチを二つ購入し、二人で一つずつ食べて少し早い昼食を済ませる。それからゆっくりと休憩した後、二人は目的地に向かって歩き出した。



「さっきのサンドイッチ、美味しかったね」

 辺りの景色に眼を奪われながら歩いていると、不意にがそう口にしたので、ダークライは彼女へと視線を向けて先程食べたサンドイッチの味を思い出す。瑞々しい野菜がぎっしりと挟まれていたそれは、確かに美味しかったなと思った。

「……そうだな。だが私は、この間食べたサンドイッチの方が好きだ」
「あのゴスのジャムとモモンの実のやつ?」
「ああ」

 しんげつ島から帰ってきたあの日、約束通りゴスの実を二人で食べた際に「ゴスの実をジャムにしてもいい」と言ったが、翌日その言葉通り残りの実をジャムにして、更にそれをパンにたっぷりと塗り、小さくカットしたモモンの実を挟んだサンドイッチを作ったのだ。初めてジャムを口にしたダークライは、その甘さが気に入ったのである。

「ダークライが気に入ってくれたみたいでよかった」
「……また食べてみたいものだ」

 そんな他愛のない話をしていると、何かに気付いた様子のが足を止めた。ダークライも釣られたように動きを止めて、彼女を見遣る。

「ねえ、見て!」

 ダークライの腕を軽く引きながら、が遠く指をさす。彼女が指し示した先を見ると、そこには遠目からでも分かる程に鮮やかな桃色があった。ダークライと顔を見合わせたは、瞳を輝かせて「行こう」と言うと、駆け出す。ダークライはふっと笑みを浮かべると、その背中を追いかけた。



「わあ……!」

 が感嘆の声を上げる。駆け足で辿り着いた場所は、列車の中で見たガイドブックの写真以上の美しさだった。
 地面を覆い隠すように生え揃った、艶やかな緑の葉を飾るように無数の桃色の花が咲き乱れている。それはまるで、花の絨毯が敷かれているようだ。風が山の上から吹いて谷間を通り抜けると、さざなみのような音を立てて花が揺れ、甘い香りが匂い立つ。更にその上を、花と同じように美しい羽を持つバタフリーやアゲハント、ビビヨンの群れがひらひらと優雅に飛び交って、幻想的な風景を作り出していた。


 バタフリー達は花の蜜集めに夢中になっているのか、ダークライとの二人が花畑へと踏み入ろうとも、気にした様子を見せなかった。二人は花畑の中心へとやって来ると、ぐるりと周りを見回す。

「心地よい場所だな」

 ふわふわと花の上に浮かびながら、の隣でダークライが呟く。それに対し、来て良かった、とは目を細めて頷いた。この澄み渡る新鮮な空気は、都会では決して味わうことの出来ないものだ。ダークライは一度長く息を吐き出すと、今度はゆっくりと息を吸う。その横で、は柔らかな緑と桃色の絨毯の上にそっと倒れ込んだ。

「こんなに素敵な場所があるんだね……」

 花に囲まれながら、降り注ぐ陽射しに眩しそうに目を細めては言う。山の向こうに広がる青い空を見つめながら、ダークライは頷いた。バタフリー達の歌うような鳴き声が、花のさざめきに合わせるように響いている。

 広大なこの花畑を囲む山や空をじっくりと眺めた後、ダークライは花の絨毯に仰向けに寝転がったままのの顔を横から覗き込んだ。すると、心地好さそうに瞼を閉じていた彼女がゆっくりと目を開く。
 視線を交え、自身を取り巻く花と同じように顔を綻ばせたが手を伸ばし、ダークライの頬に触れた。闇色の頬を、花の香りを乗せたそよ風と共に彼女の指先が撫でる。


 静かな時間が流れていく。二人の輪郭を、花の甘い香りをたっぷりと溶かし込んだ風が撫でていった。このままこうしていたら、眠ってしまいそうだ。そんなことを、ダークライが頭の片隅で考えた時だった。

「ダークライ」

 囁くような声で名前を呼ばれ、ダークライは浅葱の眼を何度か瞬かせる。が、陽だまりのような笑みを浮かべて口を開いた。

「ありがとう」

 急に名前を呼ばれたと思いきや、今度はありがとう、という思いもよらない言葉を告げられたことに、ダークライの浅葱色の眼が丸くなる。一体どういうことだと驚いたダークライは、思わず固まる。その間に、闇色の頬に触れるのを止めたが花の絨毯から上体を起こした。そよ風にふわりとなびく彼女の髪には、いくつもの桃色の花弁が飾りのように乗っている。が自分へと向き直ったところで、漸くダークライは疑問を口にした。

「……私は何か礼を言われるようなことをしたか?」

 自分の行動を振り返ってみても、ただに頬を撫でられていただけであって、何もしていないはずだ。そう考えながらダークライが腕を組んで首を傾げると、はこくりと頷いた。

「……初めて逢った日から今日まで、何度お礼を言っても足りないくらいたくさんのものを、ダークライにもらったなって」

 ダークライは何かを言おうとした。けれどそれは上手く言葉にならなくて、結局小さな吐息となっただけだった。はなおも言葉を続ける。

「私ね、あなたに出逢えたことが本当に嬉しい。あなたがいて、本当によかった……」

 そよ風がの髪に乗っていたいくつかの花弁をさらっていく。バタフリー達の歌うような鳴き声は止んでいないというのに、二人の周りだけはやけに静かだった。

「……それは、お互い様だろう」

 ややあってからダークライが口を開くと、お互い様?と、今度はが首を傾げた。

 初めて出逢ったあの日から、今日に至るまで。何度礼を言っても足りないくらい、ダークライもまた、彼女からは数え切れないたくさんのものをもらっていた。例えば泣きたくなるような温かい気持ちも、繋いだ手のひらの心地よさも、二人で見る星の眩しさも、に出逢う前までは知らなかったものだ。ダークライの瞳が、凪いだ海のような穏やかな色を帯びる。

「私も、に出逢えたことが嬉しい。……何より、がいてくれてよかったと思っている」

 は驚いた表情を浮かべたが、それもほんの束の間のことだった。ありがとう、嬉しい。そう口にして頬を緩めると、ダークライの手を取る。

「あと一つ、言ってもいい?」
「何だ?」

 そう尋ねながら、ダークライは彼女の手を握り返した。

「私、ダークライのことが好きだよ」
「……その気持ちも、同じだな。私ものことが好きだ」

 二人は見つめ合うと、やがてどちらからともなく小さく声を上げて笑った。


 眩しい太陽が沈むと月が昇り、静かな夜が訪れる。そしてまた朝がくる。それらが変わらず続いていくように、ダークライとはこれからもずっと、お互い寄り添い合って時を重ねてゆくのだろう。
 それが確かであるということは、二人の間に結ばれた嘘偽りのない心の絆が証明している。



(おわり)



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